週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

教養とは何か、なぜ必要か

その昔、大学生のうちに教養を身につけよう、ということを書いた。
教養〜自分の幅を広げよう(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 2 )

しかし。
教養とは一体なんであろうか。
よくよく考えてみると、なんとなくのイメージで語っている。
数年前、知り合いの大学教員が最近の学生は教養が云々とぼやいていて、よくよく聞くと、教養とは何か、と聞いて出てきたのが名作の漫画で、それは教養じゃないだろ、と嘆いていた。
その人と話した感じだと、学術に共通している古典的な何かを「教養」と言っているようだった。
僕は教養をその教員のようにはとらえていないのだけど、何が「教養」か、については幅があるなと感じ、いつかこれについて書こうとあたためていた。
教養論のような高尚な学術的考察をやる気はさらさらなく、素人の考えを文字にしてみようという試みの類。
そのつもりで読んでいただければ。

教養とは

辞書を足がかりに始めよう。
まずは、新明解。

㊀文化に関する、広い知識を身につけることによって養われる心の豊かさ・たしなみ。㊁(自己の)専門以外に関する学問・知識。(新明解国語辞典 第7版)


次に、三省堂

すぐれた行動力・理解力の成長を助けるものとしての、広い知識と豊かな心(が持てるように自分を きたえること)。(三省堂国語辞典 第7版)

まあ、共通しているのは、広い知識とそれに伴う心の豊かさ、あたりか。

僕もだいたい同じような意味で使っている。
学術的な知識のみならず、文化、というところがポイントで、そういう意味では、漫画だって教養の範疇だと思っている。
文化は時代と共に変わってゆくし、芸術だって教養の一つに入る。
だとすれば、漫画だって広い知識に入りうるのではないか。

ただ。
「広い」知識、という点もまたポイントで、漫画にのみ偏っていたら、教養とは言えないとは思う。
また、作品の内容によってはただただ娯楽の範疇にしか入っておらず、「知識」の部分にハマらないものもあるかもしれない。
あるいは、「文化」、、、そもそも文化とは、、、やめておこう。
とても難しいので、ここではあえて定義せずに先に進む。

一方。
大学業界においては、教養というとカリキュラム上に位置づけられた一般教養のことを指す。
別名をリベラル・アーツといい、専門課程とともに大学教育の重要なものとして考えられている。
リベラル・アーツは、元々は中世ヨーロッパで大学が始まったときに学生が学ぶものの中核にいた。
大学における教養は、時代時代によって意味合いが大きく変わってきた。
自由人に必要な知識からはじまり、紳士のたしなみ、専門教育の前準備、専門知を制御するための必要な何か、などなど。
ようは、教養というのはコミュニティが属する個人に求める何らかの共通の知識などのことを指すと考えられる。
なお、大学における教養教育については教育の仕組みとしてあまりうまく回っていないように感じているが、これは横道に逸れすぎるのでいつかまた別の機会に。


さて。
教養とは何か。
改めて考えてみる。
今のところ、以下を要素とした何か、であることはわかっていただけたと思う。
・幅広い知識(あるコミュニティ内で求められる知識などを含む)
・幅広い知識を基礎とした豊かな心
・未知のものを理解する助けとなるもの
あとは、定義するのではなく、どんなときに役に立つのかを並べることによって定義に変えようと思う。

知っていることで行動や思考が変わる

知識は人の行動や思考を変える。
これに異論のある人はいないと思う。
人の想像力なんて大したことないので、知らないがゆえに間違ったことをしてしまう、ということはよくある。
知識の幅が広ければ広いほど、さまざまな分野でより正しい、より考え抜かれた判断をすることができる。
断片的であれ、幅広く知っていることが多ければ、想像力を働かせてそれを補おう、とすることもできる。

ニュースなんかを見ていると、無知ゆえに人を傷つけている例をよくみる。
SNSなどのネットでも同様。
そもそも、民主主義の社会においては、自分とは関わりのない社会問題についても主権者として政治的な意見を持たなくてはならない。
そういうときにも、教養というやつは大変に役にたつ。

なお、大学教育において一般教養が課されるのは、深くて狭い専門知だけではく教養的な知によって視野を広げ総合的に考える力を持つため。
専門知だけだと偏ってしまい間違うことがある、というのは歴史が証明している。
さまざまな分野の専門知をユーザーとして使いこなすためにも、教養ってやつは必要。

最低限の知識が参入ハードルを下げる

幅広く何かを知っている、ということは、それを深く学ぶというのをやりやすくする。
全く知らない、未知の分野ではなく、何となくうっすらと知っている。
そういう分野であれば、さらに深く学ぶのは全く一から学ぶよりもだいぶ楽。
長く生きていると、その分野を学ばなければならない、学ぶなんだほうがよい、という場面にはよく遭遇する。
このときに、全く知らないとそれを避けるという選択になりがち。
ちょっと知っている、ということが、本格的な参入ハードルを下げる。

だいたい、幅広い知識がなければ。
どこにどんな知識が眠っているか、そのことにすら気づかない、というにもなりかねない。
深くなくとも、幅広くものを知っているというのは、どこにどんな知があるのか、その手がかりを知っておくという意味でも重要。

楽しめることが増える

と、まあ、ここまではよく言われていることで、そんなに目新しくもない。
僕が結構重要だと思うのは、実はこれ。
知っていることが増えると、楽しめることが増える。
これは、知的活動を楽しむ、ということだけではない。
もちろん、新しいことを知って知的な活動をすること自体はとても楽しいこと。

ただ。
そういうことではなく、知っていることが増えると、そのコンテンツ以外で楽しめることが増える。
例えば。
知っていることが増えると、笑えることが増える。
どういうことか。
笑い、というのは、既有知識が前提となっている。
知っていることが、ちょっと変化している、その変化の仕方におかしみを感じる。
つまり、多くの笑いやユーモアは、ある事柄を知っているからこそ、おかしみが湧いてくるというものである。
何かのパロディは、オリジナルを知らなければ笑えない。
とあるコミュニティで、ある知識を共有しているもの同士だからこそその笑いがわかる、というのは結構ある。

つまり。
知っていることが増えると、楽しめることが増えると同時に、笑いを共有できる相手も増える。
そして、これは笑いだけに限った話ではない。
持っている知識の幅が広いと、それぞれの知識を誰かと共有して楽しむことができる。
これは、教養の、意外と意識していない側面だと思う。

教養的態度が身につく

最後はこれ。
教養を身につけたいと思ったとする。
しかし、こればかりは簡単にはいかない。
やれることは、読書がメインで、あとは講演聴いたり人から話を聞いたりすることくらい。
読書も何冊も何十冊も何百冊も読むことになる。
で。
たーっくさん読んだあたりで気づくことがある。
それは。
自分の知っていることなんて本当に限られていて、知らないことばかりということ。
この態度が、結構大事だと思っている。

自分が知らない可能性を知っている。
それゆえに、その可能性を考えて行動する。
意見を持つとき、考えるときには、よく調べて学んでからにする。
それでも、自分が知らない可能性を頭の片隅においておく。
僕の主観だけど、この人は教養あるなぁ、と感じるのは、その人の持つ幅広い知識よりも、やり取りの中で出てくるこういう態度の部分が大きい。



と、まあつらつら書いてきたけど、今回はここまで。
教養とはなにか、は結局定義できなかったけど、まあこれはそもそもテーマが無謀すぎたんだと思う。
でも、辞書的な意味、大学における一般教養的な意味を包含した上で、ふんわりと何者で何の役に立つかはわかっていただけたのではないだろうか。
コスパやタイパとは反対のところにいる現代的には逆境にいるコイツだけど、よさ、ちょっとだけでも伝わっていたらうれしい。

ではまた。




智頭駅、だと思う。

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2024/04/22 22:45
寝る時間だ。
自宅にて。



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Update 2024/04/22
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