週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

学校教員の労働環境の話

学校の先生の労働環境が悪い。
こういうことが言われるようになって久しい。
これは、だんだんと知られるようになってきたようで、最近は教員志望者が減り、現場で教員が確保できない、といったことも増えているらしい。
数値的なこと、詳しいことは書籍や新聞等に詳しいのでここでは書かない。
詳細について知りたい人は下記の本あたりが参考になる。
◇現状とその分析
「教師崩壊 先生の数が足りない、質も危ない (PHP新書)」
◇問題の背景
「迷走する教員の働き方改革 ―変形労働時間制を考える」

さて。
この問題。
僕もあまり他人事ではない。
僕は大学で教員養成に関わっている。
それゆえ、現場でヒーヒー言っている知り合いはたくさん知ってるし、つぶれてしまった話もよく聞く。
一昔前なら教員一択だったであろう学生が教員になるのを辞めてしまう。
だいたい、対象が違うとはいえ僕も教員であるので、大変さはいくらか共感できる。
そこで、この問題について一市民、一労働者として考えをまとめてみようと思った。
学生に聞かれることもあるので、その解説的な意味合いもある。
なんとか現状を変えたい、という意見表明でもある。
なお、知らない方のために書いておくと、僕のスペックは以下の通り。
・教員養成に関わる大学教員
・知り合いに現場の教員が多い
・労働法はユーザーとしては少し知っている(素人に毛が生えた程度)
この辺りを頭に置いて読んでいただければ幸い。

認識している現状と問題

単純に業務量が多い。
そして人がいない。
そのため現場に余裕がない。
余裕がないから大変な人をカバーできない。
そうすると現場はさらにブラック化する。

全部の現場がこうとは言わないが、ブラック化した現場は増える。
たまたまそこに当たった人がえらい目にあうことになる。
このあたりは僕個人としても目の当たりにすることが多い。
新卒の新人教員にいきなりそんな大変なクラスを持たせるのか、という事例はたくさん見てきた。
なお、僕がそこで働く教員から相談を受けたら、迷わず休職を勧める。
他人のために自分が壊れるのはバカバカしい。

いろいろなところからこういう話を聞いた学生は教員になるのをためらったりやめたりする。
高校生は進路として大学の教員養成課程の学部に進まなくなる。
結果として、教員採用試験の倍率が下がってしまう。

そうすると、実際に教員定員自体も満たせない事例が出てくる。
4月から担任が不在でスタート、産休・育休代替教員が来ない、なんてことが生じる。
教員採用試験の倍率が0を切ってないのだから、満たせないはずはない、という声も聞こえてきそうだが、そうはならない。
ここで足りない、とされるのは、主に非正規の教員。
この非正規の教員は、正規教員候補生でもあるのだけど、ここがどんどん足りなくなってきている。

結果として、人が足りない、いよいよ忙しい、大変すぎても誰も助けてくれない、いよいよ大変。
ブラックな職場の実態が教員志願者の学生に知られ、敬遠され、さらに人が足りない、の負のループ。
まあそんなところか。

何が問題か

ブラックな労働環境は、働き手の健康上大いに問題だが、それ以外にも問題点がある。
1番大きいのは、教育の質が落ちること。

いい教育をするには、準備に時間をかける必要がある。
教材について研究し、教え方を考え、授業の展開を練る。
こういう時間がいい教育に必要なことに異論はないと思う。
だからこそ、大学で教員免許を取得するための科目として、各教科教育の方法に関する授業がある。
教育実習に行けば、指導案を書かされ直される。
よい授業をするには、こういう準備の時間が欠かせない。

他にもある。
教える内容について教科書や指導書を超えて深く学ぶ時間。
子どもたちの発達や学習に関する様々な知見を学ぶ時間。
学校教育の分野やその隣接分野の最新知見を学ぶ時間。
こういう勉強の時間も教員の専門性としては大事になる。

ただ。
忙しすぎるとこれらの時間を十分に取ることができない。
日々、目の前の授業とそれ以外の様々な業務を回すことに追われ、準備と専門性を磨く時間が取れない。
この状況が続くと、当然に学校教育の質が落ちることになる。

教育の質、に効く要因はこれだけではない。
教員採用試験の倍率が下がるということは、人材の質が低下することも意味する。
まあ、もちろん、現場で時間をかけて育てればいいのかも知れないが、少なくとも採用時点での質は低くならざるを得ない。
教員というのは、それなりに勉強が好きで、専門的知識が豊富な人にやってほしいものだが、そういう人がどんどん減ってしまう。
せっかく教員になって現場で専門的素養を身につけたとしても、ブラックな現場に耐えられなくなってしまえば人材が流失してしまう。
現場の教員集団の持つ人材の質の低下は否めない。

さらに。
教員の定員が満たせない、ということはもっと深刻な問題を引き起こす。
定員が満たせていないわけだから、担任がいない、教科を教える専門性を有する教員がいない、といった事態が生じる。
これの深刻さはいうまでもないと思う。
公教育において、必要な教育を受けることができていない、ということでもある。

そういうわけで、教員の働き方の問題は、教育の質の問題、ひいては教育を受ける権利の侵害につながる、社会において極めて深刻な問題である。

どうしてこうなったか

要因は複数。
1番は、労務管理の問題。
公立学校の教員は残業代が出ない。
通常の労働者は、労働基準法により、実労働時間に対して対価の賃金を払わなくてはならない。
労働者の賃金の保護性の優先順位は高く、賃金未払いに対しては労基署の指導が行われやすい。
賃金を払わなくてはならないということは、どのくらいの時間働いたかの管理もしっかり行われる。
時間外の労働には、時間数や働く時間によって通常より割増の賃金を払わなくてはならない。
そして、無尽蔵に残業させられるわけではなく、きちんと上限が決められている。
これらのいずれかが守られていなければ、労基署の行政指導の対象になる。
民間企業では、指導により悪いイメージがつくことを嫌うし、悪質な場合は刑事事件になるのでまともな経営者はこれを避ける。
やらせる仕事を減らしたり、上手いやり方で負担を減らしたり、人を増やしたりする。
それに、時間外賃金が多くなれば、業務に対して人が足りていないことが一目瞭然だし、時間外賃金に使うお金を使って新たに人を雇おう、となりがち。
つまり、残業代には、働いた時間に対価を払う以外に、長期労働を是正する効果がある。
しかし、公立学校の教員はこの残業代が法律により支払われない仕組みになっている。

はるか昔、公立学校の教員に残業代の支払いを求めて訴訟を起こされたことがあった。
裁判所としての判断は、払え、というもの。
しかし、教員は労働者ではなく聖職だから残業とかそういうものではないでしょ、という考えをもとに、時の政治家は新たな法律を作ることで残業代の支払いを回避した。
それが、「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)。
4%多く給与を払う代わりに残業代の支払いはなし、という代物。
なお、4%は当時の月平均残業時間が8時間だったことに由来しているらしい。
これが1971年の話。
ただ、先述したように、残業代には長期労働の抑制効果がある。
その抑制効果がないまま、時間が過ぎることになった。

その間。
教育に要求されることは増えてきた。
よりていねいな子どもとの関わりや保護者対応、増える学校行事、授業以外の教育業務、部活動の全員参加などなど。
しかし、残業代が出ない仕組みであるため、適切に長期労働が抑制されない。
最終的に積もり積もった業務量と要求される労働量がいよいよ限界に達しつつある、というのが現状だと思っている。
50年は、チリが積って山となるには十分すぎる時間。


他にもある。
教員の定員が埋まらない、という話。
これが非正規教員の話だというのは、前の項で書いた。
なぜ、この非正規教員が足りなくなるのか。
これは、学校教員の志望者の減少とリンクしている。

教育現場は非正規雇用(有期雇用のフルタイムもしくは時間雇用)の教員が結構いる。
問題は、学校教育がこの非正規の教員にかなり頼っていること。
フルタイムの有期雇用だからといって補助的な業務というわけではなく、普通に担任もするし、部活などの分掌もある。
で、この非正規教員は誰がやっているのか、と言えば、正規の採用試験に受からなかった人がメイン。
もちろん、退職教員や、非正規的な働き方を望んでいる人もいるが、需要に対してかなり少ない。
すると、正規教員になりたいけど、採用に至らなかった人が非正規雇用の教員となる。

昔はこの方式でも非正規教員を十分集めることができていた。
これは、教員になりたい人が多く、非正規で教員をやりながら正規の教員採用試験合格を目指すという人が多かったから。
人が余っているのをいいことに、採用に至らなかった人材を活用して非正規教員を戦力に組み込んでいた。
しかし、教員採用試験の倍率が下がっている今、採用試験に落ちても他の自治体の採用試験に受かるなどして、非正規教員候補生自体が激減している。
教員採用試験に落ちた人が全員非正規教員候補生になってくれるわけでもなく、待遇がよい他業種他職種に正規採用が決まってしまう、ということも多い。
そのため、非正規教員候補生はいよいよ少なくなる。
まあ、そりゃそうよね、という話でしかない。

ただ、こうなると、現場はさらにブラックになる。
すると、また教員志願者が減って採用試験の倍率はまたまた下がり、、、の悪循環。
まあそんなところだと思う。

どうすべきか

僕が考える対策は以下の3つ。
やりがい・魅力の発信なんていうのは、意味がないのでやめた方がいい。
目指す人は最初からそんなことわかっている。

(1)給特法の廃止と残業代の支払い

何よりも、給特法を廃止し、一般の公務員と同じように残業代を払うようにするのが早道だと考えている。
残業代を支払うことで、どんな業務で長期労働になっているのか把握できる。
その上で、不要な業務を削り、適正な人員配置を行う。
どうあっても残業代が減らなければ、必要に応じて人員を増やす政策へとつながる。
残業代による長期労働の抑制効果をしっかりと働かせるのが1番大事だと思っている。

政府や与党の案だと、給特法の「4%」を現状に合わせて増やして、というのがあるようだが、ここまで書いてきたようにこれだと問題は解決しない。
別にお金が欲しいわけではなくて、長期労働が過ぎることが原因なので、それに対する解決策としては適切ではない。
問題に対して対策が全く合っていない案だと言わざるを得ない。

学校教員の働き方を裁量労働制にしたらいいんじゃないか、という案も目にした。
裁量労働制とは、労働者に業務のやり方を任せて(使用者が指示や命令をあまりしない)自由に働いてもらおうという制度(詳しくはこちらを読んでいただいて)。
その代わりに、あらかじめ決められた時間を働いた時間とみなして、残業代は出さない。
業務に対する裁量(やり方・労働時間等)を与えて自由に働かせようというもの。
ただ、この制度は働きすぎの危険があり、対象業務はかなり限定的。
教育業務において、自由裁量が働くとは考えにくく、大学教員であっても研究がメインでない者の裁量労働制適用は認められていない。
学校教員が、自由裁量で、今日は疲れたから早く帰ろーっと、とか、今日は午後からでいいやー、とか、そういう裁量を有しているとは思い難い。
それに、業務量がここまで多い状況で、自由裁量を働かせるのは難しい。
なによりも、残業代による長期労働抑制の原理が働かないため、問題は解決しない。


(2)労基署による監督

さらに。
公立学校の教員は労働基準監督署の管轄になっていない。
地方公務員法によって、労働基準監督業務を担うのが労基署ではなく人事委員会(もしくは首長)とされている。
公務員の業務の特殊性からこうなっているらしい。
これを改正して、労働基準監督業務を労基署の管轄にしたらいいのではないかと考えている。
すでに、私立の学校、国立大の附属学校については、労基署の管轄になっている。
地方公務員でも業務によってはこうなっており、公立以外の学校教員が労基署の管轄でも問題ないことからも、わざわざ管轄を労基署から外す必要はないのではないかと思っている。
もう内部に自浄作用があるとは思えないので、労基法違反については外から指導してもらうのがいいのではないか、ということ。
これについては、関係法令や制度を熟知しているわけではないので、把握していないアナがあるかもしれないケド。


(3)余裕をもった正規教員の配置とOJT

非正規教員が集まらない、というのはもはや教員という職に人気がないので仕方ない。
よって、少し余裕をもって正規教員の採用を行うべきだと思う。
一定数、育児休暇やら傷病休暇やらが出ることはわかっている。
これをあらかじめ見込んで、正規教員を採用する必要があるのではないだろうか。
他業種へ転出した人材はなかなか戻ってこないので、早いうちに採用して人材を安定させる。

また、新人をいきなり戦力として使うのではなく、一定期間を教育期間と位置付け、副担任や少し軽い授業負担などにする。
その期間にOJTとして、教員としての技能を磨いてもらう。
2−3年後に一人前の教員としてフルに業務を任せる。
これなら潰れる人はグッと減ると思う。
どこの業界でも新人の間は教育期間として、各種サポートをするのが普通。
いきなりベテランと同じような業務をあてて潰してしまうのは、教育現場の大きな問題だと思っている。
人気がないのだから、せめて飛び込んできてくれた人を大事にしてほしい。

もちろんこれをやるには、国レベルで教育業財政の制度を整えなければならない。
しかし、我が国の外国と比した低過ぎる教育歳出を考えるに、やるべきタイミングだと思う。



おしまい

というわけで、つらつら書いてきたけど、もうおしまい。
長くなったけど、大事なことなので許していただいて。
教育は、次世代の育成であり、我が国の行末がかかっている。
ケチるべき分野ではない、と思うのだが、いかがであろうか。


ではまた。




羽田空港かな。

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2024/03/16 22:03
休暇だよ。
横浜のとあるサイゼリアにて。



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つれえぜ、一人親方研究室(教育奮闘記10)

医学部や工学部だと、1つの研究室に教授を頂点として、准教授・講師・助教等の教員がいて、さらに複数スタッフがいるということが多い。
この仕組みを講座制というそうで、昔はこの方式をとることが多かった。
いわゆる博士講座と呼ばれる方式で、教員数の積算もこれを単位に定められていたらしい。
この博士講座を「研究室」と呼び、今でも医学部・工学部で博士課程を持っているとこのタイプ研究室構成になっていることが多い。

このタイプの研究室。
教授の役割は、研究室の運営が主となる。
どんな研究費を取ってきて、どんな研究を進めていくのか。
研究の進め方はどうやって、成果はどんな感じで出していくのか。
全体を統括して、教育も含めた研究室運営を中心にことを進めていく。
まあ会社で言うところの、部や課の単位で部課長に当たるお仕事と考えればいいか。
もちろん、その運営方針の中で、研究や教育の実働として動くこともある。

准教授・講師・助教の場合は、もう少し実働に近いことを行う。
教授の方針に従って小グループ単位で研究を進めたり管理したりする。
学部生・院生の指導を実際に行うのもこの人たちの比重が大きい。
研究の実働としての役割も大きく、バリバリ研究を進めるのもこの人たち。
もちろんお雇い研究者(ポスドク研究員)や博士課程の院生への指示・指導もする。
民間でいうグループリーダ的な人と思えば外さないか。

一方で、お雇い研究者(ポスドク研究員)もいる。
言ってみれば研究のプロで、職人のような存在。
その見習いが博士課程の院生か。
見習いの段階で、かなりできる。
研究室の後輩の相談に乗ったり、研究の助言をしたりする。
身近な存在として、教員よりは気軽に教えを乞うことができる。
ま、気難しい人もいるけど、平均的には外れていないと思う。

そして、修士の院生、学部の卒論生と続く。
修士の院生は1度卒業研究を経験している身近な先輩として、学部生にアドバイスをする。
学部学生と距離がかなり近いので、修士の先輩に仲のいい人がいると、いろいろと教えてもらえる。
具体的にどうやって分析をするのか、パソコンの使い方、その他、教員には聞きづらいことも含めて、学ぶことができる。
背中を見て学ぶことができるのも、ちょっと上の先輩の背中がちょうどいい。

このようにして、システマティックに研究を進め教育するシステムが整っている。
もちろん、最近は予算減による人員減でこんな理想的には進まないものの、各々が役割を担いながら研究と教育が進んでいくスタイルは変わらない。


さて。
地方国立大学や私立大学には、この講座制のようなスタイルでない研究室が存在する。
学部によってはむしろこっちの方が主流かもしれない。
その組織に教員が1人ポツンと存在し、1つの研究室を運営している。
同じ分野の教員はいない場合が多く、隣接分野の教員すらいない場合がある。
まるで親方一人で職人仕事をこなすように見えるため、これを僕は勝手に一人親方研究室と呼んでいる。
一人親方は、必ずしも教授とは限らない。
准教授のこともあれば、講師・助教のこともある。
そもそも組織に同じ分野や近い分野に他の教員がいない。
いたとしても、独立して存在しており、研究や研究指導を分担して行う体制になっていない。
職位は、上下関係を意味するものではなく、業績と経歴をもとにしたラベルくらいの意味しか持たない。
これはこれで、自由にできる、フラットな組織、上司ストレスフリーな日々などなどいいことも多いのだが、タイトルから外れるので今回は書かない。

さて。
この一人親方研究室。
結構大変なのでございます。
1番は、上記に挙げたすべての役割を一人で担うことになるところ。
ほとんどの場合は、学部生しかおらず、いてもごく少数の修士課程院生がいる程度。
仕事としては博士院生やポスドクがいるところとは違うので楽な気もするが、そうでもない。
学部生への研究指導としては、教授・准教授・講師・助教、プラスしてポスドク・博士院生・修士院生の果たす役割をすべて担う必要がある。
これはわりと大変。
研究のノウハウは基本的に研究室に蓄積しない(毎年メンバーが刷新されるため)ため、これを蓄積させるためには工夫がいる。
PCの操作や論文の読み方、書き方の基本なども含め、逐一イチから全部自分で教える必要がある。
うまい方法はないだろうか、と、試行錯誤する日々。

他にもいろいろある。
一人親方研究室ということは、研究指導だけでなく、研究面も自分がプレイヤーである必要がある。
と、同時に運営も自分でやらなければならない。
研究面でも役割分担がないので、自分で全てをやらなくてはならない。
ポスドクから助教・准教授・教授のお仕事を全部一人でカバーということになる。
多忙を極める割に、研究業績は大したことにならない。
内実がわかっていない人から見ると、サボっているように見える。

そもそも一人親方状態の場合、同僚に同じ分野の教員がいないことが多い。
すると、その組織における学問分野のカバー範囲が広くならざるを得なくなる。
卒論生の研究テーマ、担当授業、組織主導のプロジェクトの担当割り振り、などなど。
何らかの事情で、1番近いところの教員がいなくなると、そのカバーまでやってくることがある。
地味なところでは、研究内容を議論する同僚が組織にいない、というのもある。

そんなわけで。
つれぇぜ、一人親方研究室、ということに。
事情が違う同業者の方々、ぜひいじめないでいただいてですね。
なお、こうは書いているものの、僕自身はわりとこの状況を楽しんでいる。
たださ、全然研究していないね、とか言われたら泣いちゃう。

ではでは。
今回はこの辺で。




いつぞやの神宮球場で、東京音頭中。


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2024/02/04 16:25
のんびりモード。
鳥駅ドトールにて。



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データ分析と論文執筆には時間がかかる(研究をしよう38)

卒業研究のスケジュールを考えるで、データ分析は遅くとも11月(1月末が〆切の場合)で終わらせておくように書いた。
ただ。
どうもこのあたりが全然伝わっていないように感じることがある。
そこで、今回はこいつに絞って詳しく書いてみようと思う。

論文執筆、プレゼン資料作りには時間が必要

まず。
単純に、論文執筆とプレゼン資料作りには時間が必要である。
これに2ヶ月ほど見ておいてほしい。
単位のためのレポートを徹夜で仕上げた経験から、3日か、まあ1週間もあればできてしまう気がする学生もいるようだが、まず無理と見ていい。
よほど書くことを訓練してきた学生であっても、フルの論文を書くのは初めての経験。
いろいろなことを確認しながら書くことになるので、1週間で書ける、なんてことはまずありえない。
僕が書くとしても、分析が完璧に終わっていて学会発表等の発表済みで構造が固まっていたとして、草稿で1-2週間、寝かして直しも含めて+2週間といったところか。
それを初めての経験の学生さんが書くわけだから、それ相応に時間がかかる。
まあ、初稿提出までに数週間、そこから直しも含めると2ヶ月はほしい。

初めての卒論。
初稿の時点でもうほぼ仕上がっているということはまずない。
うちの場合だと、真っ赤にコメントが入り、それをもとに考えることになる。
コメントの大半はかなり初歩的なもので、文がおかしい、意味が通らない、論文としての体裁が整っていない、引用へん、などなど。
これらについては、いずれ別に記事にまとめるが、とにかく、真っ赤にところせましとコメントが書かれる。
場合によっては、この本を読んで文の書き方を学べ、この資料を読んで論文の書き方を学べ、なども。
よって、ここからが時間がかかる。

もちろん、プレゼン資料についてもそう。
論文の内容をもとに資料を作るのだが、論文が文中心なのに対し、プレゼンは図が命。
論文のどの部分をどのような効果的な図にするか、これを考えて作成するのはそれなりにテクがいる。
今までの発表とは勝手が少し違うので、ここでも時間が取られる。

それでも、論文執筆・プレゼン資料の内容がしっかり固まっていればいいのだが、卒論生の場合はそうはならない。
よって、さらにここに別の時間が必要になる。
これについては、次の項で書く。

考える時間が必要

ある程度、書く内容が固まっていて、あとは文にするだけ、であれば書く以外の時間はそこまでいらない。
例えば、僕ら(職業研究者)が論文を書くときは、内容をすでに学会発表等で発表していることが多いため、わりと書く内容は固まっている。
この場合は、ひたすら文字にしていけばいい。

しかし、卒論生の場合はそうはいかない。
卒論生の場合、内容について学会にて発表済みということはほぼない。
このため、構造がしっかりしている、分析が完璧、ということもほぼない。
なぜ、学会発表をすると、これらがしっかりするのか。
これは、発表にあたり、内容を精査し、図表で結果を見える化して、考えながら資料を作るから。
この過程で、内容がかなり整理される。

分析結果から、どんなことが言えるのか。
提示した仮説を支持する結果はどれなのか。
結果をどのように提示していったら、わかりやすくロジックが通りやすいか。
メインの結果に加えて、サブの結果から言えることは何か。
仮説を支持できなかった場合、それはどうしてなのか。
思いがけない結果が出た場合、それはどうしてなのか。

予想していなかった研究上の不備はあったのか。
あったとすればそれはどんなもので、結果・結論にどんな影響を及ぼすのか。
それは致命的なのか、改善点は何か、次に研究をするとすればどのようなものが考えられるか。
どんな質問が予想されるか、どう答えたらいいか。
学会発表済みの場合は、実際に他の研究者から質問・コメントをもらっている場合もある。

まあ、平たくいうと、考察、ということになるのだが、これらを一生懸命考える。
考えて考えて考えて、なお考える。
その上で、論の展開・構造を固めていく。
問題点については、可能なものは発表内容に組み込む。
受けそうな質疑については、あらかじめ備えておく。

学会発表ではこういうことをやっているので、発表済みの場合は、これらの内容をひたすら文字に落とし込んでいくだけの作業になる。
書くことについての内容と構造がすでにある程度あるため、時間はその分少なくて済む。
卒論生はこの部分について、論文を書きながら、プレゼン資料をしながら、同時並行でやることになるのでその分時間がかかる。

追加分析の時間が必要

卒論生の場合は、さらに必要な時間がある。
それは追加分析の時間。

卒論生の場合、分析は仮説をもとにごく基礎的なもののみしかしないことが多い。
研究初心者であるため、それ以外思いつかない、といった方がいいかもしれない。
仮説をもとに分析していればまだいい方で、ほとんど何をやっていいかわからずパニックになっているような場合、分析自体が不十分なまま論文執筆・プレゼン資料作成などのまとめ作業に入ることも多い。

しかし。
この場合は、まとめの過程で必ず追加分析が必要になる。
自分の結果から考察したことについて、追加分析をして補強したくなった。
当然やっておくべき基礎的な分析を落としていた。
書きながら結果のおかしな点を指摘され、よくよく調べてみると分析方法が間違っていた。
こういうことは頻発する。

追加分析、再分析、確認の分析、生データの確認、の末に誤りに気づき真っ青、やり直しやり直し。
これらの時間はかなり必要になると思っておいた方がいい。

添削待ちの時間が必要

考えていない人が多いのがこれ。
ゼミ生が複数人いる場合、指導教員に添削依頼を出して、すぐに添削結果が返ってくることはない。
大学教員は、大学生が考えているよりもはるかに忙しい。
1、2、3年生(加えて、大学院)の授業とその準備・採点業務、入試の準備に入試、学内委員会関係、その他諸々のお仕事お仕事お仕事。
年度末は極めて忙しい。
これらに加えて、自分の研究をやっている。
このことは、この辺りにも書いていること。

そんなわけで、単純に時間がない。
添削の依頼を受けても数日、場合によっては1週間かかってしまうことがある。
僕の場合、初稿段階の卒論の場合1人に3−4時間かかる。
ただ、1日のうち3−4時間まとまって時間が取れることはほとんどなく、細切れの空き時間を使ってコツコツ進める。
たまたま、うまいこと時間が取れた場合はすぐに添削結果が返すが、このあたりはなかなかすぐにというわけにはいかない。
最優先で進めるものの、かなりお待たせすることもしばしば。

あと、忘れている学生も多いのだが、一応教員にも休養は必要。
土日休日は休みだし、平日も時間帯によってはプライベートの時間である。
このあたりは意識しておきたい。
前に、学生さんが教員のレスポンスが遅い、と不満を漏らしていて、いつ添削依頼したのか聞いたところ、金曜の夕方に依頼、不満を漏らしていのが月曜日午前中、ということがあった。
それは無理筋だぜ、と説明したら納得して反省していたけど、これはよく耳にする話。
教員だって、家族との時間を大事にする、息抜きをする等の休養時間をとる、というのは必要な時間である。
それも含めて、論文執筆のための時間を計画しておきたい。

寝かす時間、ゆっくり考える時間が必要

ラストはこれ。
書いたものって、意外と寝かす時間やゆっくり考える時間が重要である。
これに1−2週間くらい使いたい。

書き終えて、読み返していると、パッとアイディアが降りてくることがある。
これが思いがけない追加分析と発見につながるというのはある話。
そうでなくても、ふとした瞬間に構成のアイディアが浮かんできて手直しする、というのはよくある。
うちの卒論生でも、早く仕上がった組はそれでおしまいということはなく、一応書いたけど納得いっていない部分、について寝かしながら考えて修正する、というのはよくやっている。
この、書いたものを寝かす時間、ゆっくり考える時間、というのは、結構必要な時間だと思っている。

この時間、僕も自分の論文については意図的にとる。
なお、週間雑記帳ですら、寝かす時間は可能な限り取るようにしている。
おそらく、全ての書き物を熟成させるために必要な時間だと思う。



と、いうわけで、今回はここまで。
卒論生・修論生のみなさまは、初期の段階でくれぐれもこの辺りをしっかり意識していただいて。
では、また。




旅をしていたら遭遇した、いつぞやの出雲おろち号。
出雲坂根駅か。

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2024/02/13 13:20
3連休延長戦。
川崎駅タリーズにて。



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Update 2024/02/13
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研究でやってはいけないこと〜捏造編(研究をしよう37)

前回は盗作はいけないよ、ということを書いた。
せっかくなので、もう一つの研究不正、捏造と改ざんについて。
まあ、学部学生レベルでの捏造は盗用と比べるとそんなにないのだけど、改ざんはその重要性がわからずやってしまう、ということもないとは言えない。
どのくらい重いことなのか、やばいことなのか、解説する。

捏造、改ざんとは何か

まず。
前回にならって、文部科学省(2014)の定義から見てみよう。

捏造
存在しないデータ、研究結果等を作成すること。

改ざん
研究資料・機器・過程を変更する操作を行い、データ、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。


わかりやすい不正だとは思う。
盗用の時のように、どこまでがセーフでどこからがアウト、みたいな話は必要なく、ちょっとでもダメ。
ただ、コレは意図してしか起こせないので、不注意で起きてしまったということはないのが特徴。
まあ、普通に考えれば実に当たり前なのだけど、なぜかコレに手を染めてしまう人が出てしまう。

なぜダメなのか

研究という営みは、まだわかっていないことに対して、その証拠を手探りで見つけていくとこと。
その証拠の根幹をなすデータに嘘を混ぜるのは、どうあっても許される行為ではない。

我々は基本的に嘘がないことを前提で研究論文を読む。
仮に嘘が混ざっていたとしよう。
これは、単にその研究が示す事実が間違いなだけ、ということを意味しない。
嘘のデータを元に書かれた研究論文を読んだ他の誰かが、コレはすごいと同じことを試すことになる。
結果、嘘は再現されることなく、時間と研究費が無駄になる。

試して再現されない、ならまだいい。
嘘研究を根拠に、次の研究計画が立てられる。
それもいろいろなところでたくさんの計画が。
しかし、根拠となる研究成果が嘘なわけだから、論理的に間違った仮説や目的が導き出されてしまい、その研究はうまくいかない。
うまくいったとしても、結論や考察は論理的に破綻してしまう。
他の研究者の労力と研究費を奪うわけだ。
端的に言って、極めて迷惑である。

もっとひどいことになることもある。
例えば、医学研究であれば、その成果を元に治療が行われることになる。
効果がない治療が行われ、それに時間とお金が使われることになる。
とんでもない話だとは思わないだろうか。

そんなわけであるから、ほんのちょっとであっても許されない。
一度でもやったことがわかっている人は、もはや研究をやることはできないだろうし、一生、研究業界で信を得ることはないと思う。
在職中にやってバレたら、懲戒解雇もありうる。
そのくらい重い。

なぜ、捏造や改ざんをしてしまうのか

僕にはよくわからない。
研究の目的が、新たな知を創り上げること、であれば絶対にあり得ない。
なのだが、目的がそうでない場合は、確かに起こりうる。

まずあるのは、評価されたい、というものか。
研究成果が出ず追い詰められて、も、この類。
その昔、考古学のゴッドハンドと呼ばれた研究者が、実は捏造だった(自分で埋めて自分で掘り返していたらしい)ことがあったが、これは評価されたい、が捏造に繋がった代表例。

他にもある。
未熟で、仮説と事実の区別がついていない場合。
本人は正しいと思い込んでいて、捏造・改ざんは正しい事実を示すだけなので問題ないと思ってやってしまう。
仮説を信じ込んでいるため、正しいと思い込んで主客が逆になる。
仮説はあくまで仮説であり、その正しさを証明することが自分の仕事であることをわかっていないパタン。
これは、警察官や検察官が正義感をもって証拠を捏造する場合と同じ類。

卒論生・大学院生の場合も、理由としてはだいたいどちらか。
そもそも未熟なので、両方ということもあるかもしれない。
卒業・修了のために追い詰められて、とか、指導教員など立場が上の人に怒られないように、というのもあるか。
これらも悪評価を避けるためなので、広い意味では評価が動機ということになる。

なぜバレるのか

これは剽窃と比べるとバレるまでに時間がかかる。
論文自体がおかしいわけではないので、最初は性善説で受け入れられる。
問題はその後。
当然、捏造・改ざんされた研究結果を再現してみよう、という人たちが出てくる。
もしくは、その研究結果を基礎において次の研究をやってみる、という人たちも現れる。
ところが、そもそもが捏造・改ざんされた代物なので、当然再現できない、研究がうまくいかない、ということが続出する。
そうなると、うまくいかなかった研究者たちは疑い始める。
ナンカ、オカシイゾ。
これが端緒となって、捏造論文を穴の開くまで眺めて、データの不自然なところを見つける。
で、掲載学術誌や所属機関にクレームが入り、不正調査開始、御用となる。
なお、捏造する人はいろいろな研究で捏造するので、他の研究も調べられて芋づる式に悪事が暴かれることもしばしば。

他にもある。
例えば、周囲の人にバレてしまうというもの。
捏造されたデータというのはキレイすぎるので、あまりにそれが続くとおかしい、となる。
それに、研究室内の別のメンバーや隣の研究室のメンバーにバレてしまうということもある。
これも、所属機関に垂れ込まれて、不正調査の流れ。
悪いことはできない。

バレるとどうなるのか

基本的には、剽窃編と同じ。
不正認定ののち処分か、さかのぼっての学位取り消し。

問題は、剽窃に比べるとわかりづらいので、教員を巻き込んでしまうことがあること。
教員がデータの捏造・改ざんに全く気づかずそのまま発表してしまった場合、、、。
その教員も間違いなく処分の対象になる。
ちゃんと確認しなかった落ち度があるので、教員側も知らなかったでは済まされない。

無実なのに疑われてしまった時のために

この捏造、改ざん。
ことがことだけに、かなり厳しく責任を問われる。
そして、疑われたときの潔白の証明は自分でやらなければならない。

1番は、記録。
実験ノート、調査ノート常に記録して、ちゃんとデータをとっていることを記録しておく。
生データから分析を得て結果が出るまでもしっかりと記録しておき、何度も同じ結果が出ることを確認しておく。
生データを保存しておき、結果が捏造・改ざんでないことを証明できるように準備しておく。
そして、疑われたら、即座にこれらを提出して身の潔白を証明する。
これは、研究をする者の務めと心しておきたい。
これらの記録がない、ということは捏造・改ざんを疑われてもやむ得ない、というのが業界スタンダードであることを覚えておきたい。

詳しくは、 研究ノートを書こう(研究をしよう28) を読んでいただければ。


では今回はこの辺で。
また。




広島市内にて。

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2024/02/24 22:55
もりもり働いてございます。
自宅にて。



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Update 2024/02/24
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ノートはいい、筆記具はいい No.3

さあ。
このどうでもいいシリーズも最終回(シリーズはこちら)。
この上、何を書くことがるのか、と思われるかたもいるかもしれない。
いや、しかし。
まだまだたくさんある。
今回はマニアック編。

ノートに筆記具で書く、ということをずっとやっていると、当然のことならが筆記具にこだわりが生まれる。
僕の場合は20代中頃だっただろうか。
まず、いいボールペンに手を出すようになる。
書き味とか色味とかそれらがモノによって大きく異なり、これがおもしろかった。
そうなると万年筆に手を出すまでにそんなに時間はかからない。
国産の万年筆に手を出したの皮切りに、いくつかの万年筆に手を出す。
ペン先の材質がどうだとか、形がどうだとか、面倒くさいことを言い出す。
このあたりから、「書くこと」が文字列を並べること、から、手に伝わる感覚も含めて楽しむもの、に変わっていく。

ただ。
万年筆は高い。
そして、万年筆は、その名の通り長持ちする。
そうすると、新しいものに手を出す、というのは永遠には続かない。
お気に入りを長く使い続ける、といういうところに落ち着く。
すると。
次に行き着くところ。
それは、筆記具・万年筆好きとしてはもう既定路線の「インク」沼ということになる。

ご存知ない方のために説明しておくと、万年筆というのはインクカートリッジを差し込んで使う他に、インクをインク瓶から直に吸い上げて使うことができる。
本体にスポイトのようなものを取り付けて、インク瓶から本体に吸い上げる。
使うインクは本体と同じメーカーのものに限定されず、世界中の好きなメーカーのものを使うことができる。
これがね、大変おもしろい。
インク一つで書き味が大きく変わる。
同じ色名でもメーカーによって微妙に色も書き味も違う。
さらに、同じ製品でも古くなったり水分が抜けたりするとやはり色が変わる。
これが本当におもしろい。
こうやって、インク沼というイケナイ沼へとハマっていく。
僕はブルー沼にかなり深くハマった。

そして、このインク沼にハマった人が次に行き着くのがノート。
インクが裏移りしないとか、インク×ノート紙質で書き味がですね。

かくして、文章を作ること、ではなく、書くという行為が目的化したオバカサンが出来上がる、というわけ。
まあ、でも、楽しいのでやめる気はない。

と、いうわけで。
思考を広げる道具として、ノートと筆記具を使ってみてはいかかでしょうか。
まずはそこから入っていただくので構わない。
で、いずれ、ですね。

ではでは。
今回はこのへんで。
ちなみにこの記事は最近入手したJet Streamのパーカータイプのボールペンインクで書いている。
こいつの書き味は、たまらない。




職場で常用している万年筆とインク。
最後まで使い切れるようにインク瓶に工夫があるのもおもしろいポイント。


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2023/11/05 16:34
本日3本目。
鳥駅スタバにて。



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Update 2024/01/21
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わかりやすく伝える人は頭の良い人、なのか

SNSで「難しい言葉をいっぱい言うのは簡単」「わかりやすく伝える方が頭良い」というのを見た。
有名人の投稿だったので、結構注目を集めていたよう。
なるほど、確かに!みたいな反応が多かったか。
さっそく、知り合いの学生さんが、これを引き合いに出してなんやかんや言っていた。

さて。
これは正しいのだろうか。
そうすると難しい言葉は何のためにためにあるのだろうか。
そもそも頭の良さってなんだろうか。
一応僕は心理学もちょっとだけ詳しいので、これについて書いてみようという気になった。
まあ余興、お遊びの類。

まず、頭の良さからいこう。
頭の良い人、とはどんな人なんだろうか。
勉強ができる人?
理解力の早い人?
難しいことを知っている人?
ひらめきのすごい人?
いやいや、記憶力?
コミュニケーション能力お化け?
よく気付ける人、なんてのもあるか。
そして、冒頭の説明が上手な人。

並べてみると、実にたくさんの頭の良さ的なものがある。
実はこの「頭の良さ」、曲者である。
おそらく、人によって「頭の良さ」の意味が大きく異なり定義できない。
この辺りは心理学の知能とは何か論と似ている。
心理学において、知能とは何か、は心理学者間においても定義が多様で一致しない。
知能、という概念自体がつかみどころがなく、何とでも定義が可能だから、というのが原因。
これは、おそらく「頭の良さ」とほぼ同じ。

例えば。
その場で、パッと新しいアイディアを思いつく能力。
その場では全く思いつかないものの、時間をおくと誰も考えないようなアイディアを思いつく能力。
斬新なアイディア自体は思いつかないものの、他人の出した思いつきをもとに穴のないプランに詰めていける能力。
いずれも、「頭の良さ」を示す能力だとは思うものの、それぞれは別の能力で、それぞれに長短をつけるのが難しい、というのは「頭の良い」読者であればわかるはず。

難しいことを簡単に説明できる能力、も確かに頭の良さの一つであることは否定しない。
ただ。
「わかりやすく伝える方が頭が良い」かというと違う。
ここまでに書いたように、他の能力と比較してこちらの方がより頭の良さを規定するというのはわからない。
おそらく、それぞれは独立した能力で、比較可能なものではない。
特に、「難しい言葉を言う」よりも「わかりやすく伝える」が頭が良い、という部分はこの色合いが強い。
理由は、主には以下の2点。

まず。
思考は言語にしばられる。
これは心理学をやっている人ならご存知のはず。
言語が内面化したものが思考、というのが教科書的な説明。
どんな言語を操れるのかは、個人の思考を規定する。
つまり、難しい言葉を知っている人、使える人は、それだけ操れる思考の道具が多様で、思考も深く多様になる。
これが「頭の良さ」と関係しないわけがない。
そもそも、なぜ難しい言葉、なるものが存在するのか。
それは、難しくない言葉で表現するよりもその方が楽だから。
かなり分量が必要な説明がたった一言で済む場合がある。
その分、別の説明に時間を使うことができる。
難しくない言葉で表現するとニュアンスが難しかったり正確さが犠牲になったりするから難しい言葉が必要、というのもある。
便利だから難しい言葉が存在するわけ。
なお、難しい言葉を言う人は、難しい言葉がわかる人であることが多い。
これは、難しい言葉のまま難しいことを理解できる人、ということでもある。
これらのことは「わかりやすく伝える」能力とは独立で、これらが「頭の良さ」と関係ないと考える方が無理がある。
頭の良さとしてどちらが優位か、これを問うのがナンセンスであるのはわかるであろう。

問題点の2点目。
「わかりやすく伝えられる人」が必ずしも難しい言葉を理解する能力を有しているとは限らない。
当たり前だが、人は自分の操れる言語能力と理解力の範囲で物事を理解して思考する。
これは、難しいことを理解した上で「わかりやすく伝えている」のではなく、さほど難しくないようなもののみを理解した上で「わかりやすく伝えている」だけの可能性を生ずる。
わかりやすく伝える能力と難しい言葉を操る・理解する能力は別物なので、当然そうなる。
薄っぺらい知識についてわかりやすく伝える能力を、頭が良い、かと問われると、僕はあまりそうは思わない。

そんなわけなので、「難しい言葉を操る能力」を侮ることなかれ。
その過程で「難しいことをいっぱい言う」は出てくると思うけど、決して簡単なことではない。
もちろん「わかりやすく伝える能力」はこれはこれで高度な能力ではある。
「頭の良さ」としては、どちらも独立であり、どちらも大事だよ、というのが結論であり、言いたいこと。

なお。
頭の良さってのはね、こういう一見正しそうなものに簡単に騙されないことについても含まれるのではないだろうか。
まあ僕は、「頭の良さ」なる概念が、いまいちよくわかってないないのだけれども。

余興的お遊び記事はこれでおしまい。
ちなみに、冒頭の発言をした有名人、僕はわりと好き。
そこんところ、勘違いされないよう。
ではでは。
また。




とある雪の日の鳥取市内。

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2024/02/11 15:46
卒論提出ひと段落記念、大休養旅行。
南町田タリーズにて。



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Update 2024/02/11
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研究でやってはいけないこと〜剽窃編(研究をしよう36)

研究には、絶対にやってはいけないことがある。
学部生、未熟な院生レベルだと、これがよくわかっていない場合がある。
よくよく振り返ると、学部生向けにあまりこれに関する授業や講習がなかったりする。
ただ、これ、研究業界でやると犯罪に準じたヤバさがあり、処分を受けることになる。
例えば、論文提出後、卒業前に見つかれば、不正認定で留年は間違いない。
卒業後・修了後に見つかれば、卒業や修了、学位の取り消し処分がなされる。
悪いことをわかっていて軽い気持ちでやったとかなら本人が悪い、ということになるが、そもそもどこまでがダメかがわからん、ということなら、学生にも少し同情の余地がないではない。
ただ、こんなのは知っていて当然な上に、学則にやっちゃダメって書いてあることがほとんどなので、知らなかったでは済まされない。
なので、今回はこれについて書く。
いつもは読み飛ばす人も、こればっかりはしっかりと読んでおいた方がいい。

さて、今回はその剽窃編。
書くことと研究計画に関する不正、と思っていただいた結構。

論文の基本

論文が不正にならないためには最低限以下を満たす必要がある。
(1)自分のアイディアで計画を立て、自分で実施する
(2)自分で表現する

これは何も研究に限った話ではない。
あらゆる表現物やお仕事は多かれ少なかれこれらを満たす必要がある。
特に、(2)については、守らない奴らを罰する法的な枠組みがたくさんある。
そのくらい重要な事項であることを頭に入れておきたい。

これらを守らないのが、研究不正となる。
卒論生・院生は、基本的に自分で考えて自分で書け、というのが基本的な守るべき事項ということなる。

剽窃とは

文部科学省(2014)は盗用を以下のように定義している。

盗用
他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究結果、論文又 は用語を当該研究者の了解又は適切な表示なく流用すること。

剽窃は上記文書の中では言及がないが、一般的に他人の著作を自分の著作物の中に無断で使うことを指す。
盗用のうち、文書に関する部分を特に剽窃と言うと考えていただいて構わない。

何がアウトで、何がセーフか

まず、コピペ。
これは1発アウト。
1行でもコピペがあったら、アウトと思って欲しい。

次に、コピペしたものの一部表現を変える。
これもアウト。
基本的に大部分が同じなので、ダメ。
一部を他人著作から流用しているのでアウト、と言うことになる。
いや、これくらいバレないだろう、と思われるかもしれないが、バレる。
これについては、コピペはバレるを読んでいただいて。

基本的に、自分で書く、表現する、というのが必須。

次に出てくるのが、本や論文をコピペではなくて、真似して打ち込むこと。
これは、やり方の違いであり、コピペと変わらない。
他人に代筆してもらった、もバレにくいがダメ。
何度も言う。
自分で表現しなくてはならない。

セーフなものは何か。
まず、他人の言うことを論文で使いたい場合。
これは、引用という方法を使う。
原典を明示して、お作法に習って引き移す、もしくは要約する。
分量書き方その他いろいろお作法があるが、それに従っていれば剽窃には当たらない。
やり方に関しては、レポートの書き方本にあるので、それを参考にしてほしい。
この辺りが参考になる。
なお、剽窃・盗用・引用については、レポートの書き方本の基本として書かれており、論文を書くにあたりこれらの本の内容くらいは頭に入っていることが想定されているため、不正した場合、知らなかったが通ることはまずない。
聞いていないだけで、たいがいどこかで繰り返し説明されているはず、となる。

論文の表現としてどんなものがあるか、を複数の論文で確認する、というのはあり。
論文の表現や構造、というものはあって、自分の書いた表現がそれに当てはまっているかがわからない。
「示す」という表現は使っているのか否か、どういう時に使っているのかなど。
基本的に自分で書いていることを前提として、その表現の細部を確認して改めるというもの。
論文の表現技法を学んでいるだけなので問題はない。
盗んでいない、というのが大事なポイント。

詳しくは、論文の書き方本を読み込んでいただいて。

なぜバレるのか

教員がなぜ気づくのかについては、コピペはバレるを読んでいただいて。
これはすぐわかる。
こちとら、書き手のプロであり、読み手としてもプロであり、教育のプロでもある。
なめてはいけない。

では、いつバレるのか。
自分の指導教官をスルーできても、普通は複数人審査教官がいる。
副査だったり指導教官以外の主査だったり。
指導教官にバレた場合であれば、提出前であればキツイお説教ともに書き直しを命じられてことなきを得る場合も多い。
問題は、指導教官以外の教員にバレた場合。
これは、提出後審査のプロセスに入っていることが多く、不正認定の上、卒業延期となる。
おそらく、組織の教員全員に不祥事と共に名前を共有されることになる。

他にもある。
最近では論文を公表しよう流れがあるため、卒業後指導教官が公表するために内容を見直すことがある。
この過程でバレる。
僕が卒論生の論文を公表する場合、中身のチェックはかなり入念にする。
引用している場合、引用元の内容と照らして言い過ぎではないか、までかなりしっかりチェックする。
公表してから何か不備があると、学生の名前にも傷がつくので、そこはかなり慎重にやる。

他者からの指摘でバレることもある。
なんらかの事情で、論文が剽窃した元の著者の目に触れてしまうことがある。
その結果、これは自分の論文の盗用なのでなんとかしろ、と大学に垂れ込まれる。
こうなるともうどうにもならない。
著者以外の第3者が指摘することもある。
代筆していた人が告発する場合などもあるか。
最近は、剽窃をチェックするソフトウェアがあって、それでバレる可能性もある。
博士レベルだと、ひどい不正をやらかした人がきっかけとなり、過去の論文チェックが行われ、、、みたいなパタンもある。
怖いですな。

卒業後・修了後の場合は、不正認定委員会あたりにかけられ、認定されることになる。
時効がないので、いつバレるか全くわからない、ということに注意が必要。

バレるとどうなるのか

卒業・修了前だと、組織に処分され卒業・修了が延びる。
所属学部・学科では、不正の人ととして、名前が共有される。
ただ、これは教育上の措置であり、教育しようとしているだけまだいい。

では、卒業・修了後はどうなのか。
さかのぼって、卒業・修了が取り消され、学位が取り消しになる。
その時点で、職についている場合、これがどんな影響を与えるか、わかるだろうか。
特に、学位が仕事上重要な場合、それはそれは大変悲惨なことになる。

まあ、そんなわけで、不正はするなってこと。
こんな爆弾を抱えて生きていくくらいなら、留年・卒業延期の方がまだマシだと思わないだろうか。
不正をせずに、能力を身につけて卒業・修了した方が、社会に出ても活躍できるだろうし。


長くなった。
ではまた。




大雪の鳥取市内にて。


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2024/01/21 14:10
休日の大事さを噛み締めながら。
ドトール鳥駅にて。



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