週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

本の紹介,「ロヒンギャ危機―「民族浄化」の真相(中西嘉宏,中公新書)」

ロヒンギャ危機―「民族浄化」の真相
中西嘉宏(著)
難易度:☆☆


ロヒンギャの問題をご存知だろうか。
ミャンマーで大量に生じている難民の問題。
数年前にミャンマーの国内問題からロヒンギャ難民が大量に発生して国際的に問題となっている。
問題自体は知っていたが、背景や詳細をよくわかっていなかったので、ちゃんと勉強しようと思って読んだのがこの本。

ロヒンギャとはミャンマーバングラデシュ国境近くの地区に由来するムスリムイスラム教を信仰している人々)を指す。
ミャンマーでは仏教が主流。
歴史的背景からこの地区にはムスリムがいて、大昔は問題なく暮らしていたらしい。
これが、この地区を支配する勢力の衰退や、植民地支配等を経て、不利益を被るように。
無国籍状態に陥ったり、迫害されたり。
ミャンマーはその後軍事政権になり、いくらか前に民主化された。
この民主化政権下で、軍や仏教徒から迫害を受けて難民が大量に発生した。
だいたいこういうことらしい。
こういった詳細について知ることができるのがこの本。

わざわざこの本を紹介をしようと思ったのは、ロヒンギャ問題を知ってほしいという理由からだけではない。
ミャンマーの国の形から学べることがたくさんあると思ったから。
ロヒンギャ問題とミャンマーの国の成り立ちは、他の国際問題や政治を考える上でも参考になる。
イスラエル問題(ガザ地区の話も、ユダヤ人の話も)のように同様の根本構造をとる問題は多いし、日本の労働移民政策なんかの是非についても考えることができる。
国内外の政治を考える上で知っておいた方がよい内容。
どういうことか。

一つ目は、安易な移民政策は遠い将来大きな問題を引き起こすということ。
ロヒンギャも大昔に労働力として別の地からやってきた。
当時は問題なく暮らしていたという。
それが長い時を経て難民問題を引き起こす。
ロヒンギャの問題は仏教徒である住民が国や軍とは別に迫害したという側面もある。
仏教の僧侶が迫害に肯定的なコメントを出すなど、多数派の価値観による異なる価値観への暴力のような面が見え隠れする。
これらのことは、教育等他の政策とセットで慎重に移民政策を考えないと間違う、ということを教えてくれる。

もう一つが、軍と政治の問題。
ミャンマーはご存知の通りクーデターによる軍事政権が長く続いた。
ロヒンギャ問題は民主政権に移行してから大きくなった問題なのだが、じゃあ民主政権だけが悪いかというと必ずしもそうは言えないところがある。
というのは、ミャンマーの政治体制として、民主政権が必ずしも軍を従えていなかった。
民主政権に委譲するにあたって軍の独立性の仕組みを整えているし、民主政権も軍にかなり気をつかっている。
この本が書かれたのは民主政権時代なのだが、読んでいるとやりようによっては再びクーデターが起きそうな気がする。
そして、この本が出た直後、実際にクーデターが起きて再び軍事政権になっている。
日本でも何度かクーデター危機があったが、幸にして全て失敗している。
ただ、日本でこれからクーデターが起きないとも限らない。
そういう問題を考える具体例としても知っておきたい内容。

ロヒンギャの問題を知りつつ、具体例を通じて政治を考えることができる本。
かなりオススメ。




f:id:htyanaka:20210920172712j:plain なつかしの神宮球場にて。

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2021/09/20 11:41
仕事と仕事の合間に。
汽車の車内にて。



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Update 2021/09/20
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進学で研究室を変えることのあれこれ(大学院へ行きたい人へ8)

久々このシリーズ。
大学院に進学したい。
ではどこに進学しようか。
今いる研究室はわりと気に入っている。
でも、他大の院に進学してみたい。
こういう悩みは結構耳にする。
今回はこういう人に読んでほしい記事。

まず。
他大に行け、というのが僕の個人的な考え方。
基本的に研究室所属の学部生に相談を受けるとこうアドバイスすることが多い。
僕の大学は研究に特化した大学ではなく、博士課程もない。
進学者も多くないため、研究者を目指す先輩の背中はみることができない。
ただ、何よりも、外の世界を見て色々と知っておくのがいい、というのが大きな理由。
もちろん、どうしても僕でなくてはならない事情があったり、鳥取を離れられない事情があったりとした場合はこの限りではなく、まあケーズバイケースにはなる。
この方針はおそらく一般的ではない。
院生を抱える多くの教員は学部+院をセットで教育したほうが効率的と考えており、出て行かないでほしいと考えている先生もいると思う。
こちらもケースバイケース。
その上で、続きを読んでいただければ。

他大に進学するメリット

一番は新しい研究環境を経験することができること。
研究というのは研究室の教員の色が強く出る。
すると、当たり前だと思っていた考え方、環境、研究姿勢等が当たり前ではないということに気付かされる。
これは大きい。

研究大学以外の研究室から研究バリバリの研究室に進むと、その環境の違いに驚くかもしれない。
同世代の院生がたくさんいる環境は刺激的だし、モチベーションも上がる。
博士課程の院生や研究員、助教といった研究のスペシャリスト一緒に研究ができるのもいい。
ハイレベルなゼミや勉強会、共同研究なんかも経験できるかもしれない。
こういう環境から学べるものは計り知れない。

学部が研究大学であっても、小さな研究室から大きな研究室に移動すれば上記のようなものが手に入るかもしれない。
逆に、大きな研究室から小さな研究室に移ることで、教員との密な議論等、指導の質が変化するかもしれない。
院に入るにあたって分野替えをすることで、前の分野の常識とは異なる常識や考え方に触れることができるかもしれない。

移動に伴って、教員も変わることになる。
大学教員のキャラクターや指導スタイルというのは思っている以上に多様なので、1人しか知らないよりは複数人知っておいた方が視野が広がってよい。
研究環境は教員の手腕によって変わるので、この辺りを複数見れるのもおもしろい。

以上が、進学するメリットの主だったもの。
あとは、指導教官と合わない、研究環境に不満、など、現状を変えたい人にも大きなメリットがあるが、これは研究に限った話ではないので書かない。

研究室を変えることのデメリット

メリットがあればデメリットもある。
一番のデメリットは、学部でのやり方がガラッと変わる可能性があること。
特に、学部の研究室があっていた場合は、院の研究室の方が相性や環境が悪くなるということもあり得る。
これは、クジを引き直すようなものなので避けようがない。
現在学部生で、教員との相性がバツグンだったり、専門分野や研究テーマにかなりマッチしていると感じていたりする場合は、このリスクを考えておきたい。
研究がサクサク進んでおり、今後も研究が捗ることが予想される場合は、あえて院で他大に移動する必要はないかもしれない。
この場合は、他大に出る代わりに学会や研究会に積極的に出て外の世界を知る、という戦略でもいいか。

学部の時の研究を投稿論文にしたい、という場合も、所属が変わるとうまくいかないことがある。
特に教員の研究費を使って研究をした場合、データは元の研究室の誰かが論文化する可能性がある。
これは予算の出どころからして、まあ仕方ない。
自分のところの学生だから教育の一環でスピード感に目を瞑ってもらっている場合もある。
教員の研究費が競争資金の場合や研究のアイディアが教員から出ている場合は、教員側のモチベーションとしてさっさと論文にしたいもの。
まあ、卒論のデータやその後の論文化については、学部の教員によるので、どういう方針か聞いてみるといいと思う。

卒論を自分で投稿論文化してもいい場合でも注意が必要。
新しい研究室ではそれをするだけの時間が取れないこともありうる。
進学先の研究室は卒論の研究分野とは多かれ少なかれずれることが普通。
新しいことも学ばねばならず、手が回らない、ということは想定しておいた方がいい。
また、まとめる段になっても問題が生ずることもある。
そもそも学部卒業程度の研究能力なので、自力で投稿論文にまとめるには難がある。
しかし、元のネタについて進学先の先生が面倒を見てくれることはあまりない。
特に卒論のネタを元に論文化して学振を狙うようなことを考えている場合にはこのデメリットはあまり無視できない。

最後に、もう一つ。
学部の土地を離れる場合は、息抜きに付き合ってくれる友人がいなくなる、というデメリットもある。
これは経験するまでは気づかないのだが、人によっては地味に利く。
まあこれは院生に限らず、新社会人になる人にも当てはまるが。
進学先が定員の大きな大学院だったりすると、同級生がたくさんいるのでこれを補える場合もある。


他にも、院で専門を変えることについても書く気でいたのだが、長くなりすぎた。
これはまた次に。
ではまた。




f:id:htyanaka:20210905130315j:plain 大昔の横浜にて。


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2021/09/04 20:27
夏の終わりに。
鳥駅ドトールにて。


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Update 2021/09/04
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大学教育の問題 その3 時間以外編

前回は大学教育の問題について、時間の観点から書いた。
今日はそれ以外の観点から書いてみる。
時間の話と全く独立の話ではなく、主には時間配分で教育以外のことに時間を使いたくなる要因が存在する、という話。

評価の問題

大学教員は研究者である。
その評価は研究で決まる。
いくら質の高い教育をやったところで、職業人としての評価は研究でなされることになる。
特に転職の際は、この要素が大きい。
大学教員は転職を繰り返してキャリアアップしていくパタンが多いため、研究に時間を割くモチベーションになる。
組織によっては内部昇進も含め、教育が評価されることもある。
ただ、この場合も、質の高さが評価されることはほとんどない。
せいぜい、担当した科目やその数くらい。
なぜか。

これは、教育の質、というものを評価することが難しいから。
おそらく客観的に数値評価することは不可能であろう。
それに対し、研究の場合、質はともかく数については出版論文数という形で評価しやすい。
評価には一般的にそれがしやすいものとそうでないものがある。
そして、評価しやすいもののみが注目されて大きく評価されるということになる。
こういうわけで、研究論文の数という部分が過大に評価され、それ以外のものは評価されにくくなる。
研究については、論文という可視化された成果物があるため、時間をかければ質の評価も可能である。
しかし、教育について、成果を可視化することがほとんど不可能なため、それもできない。
このため、教育の質向上に時間を使った者は評価されづらいし、ここに時間を使うことは一切の個人的利益につながらない。

ここに時間を使うためのモチベーションは、教育哲学とか理想とか義務・責任感とか、評価以外の軸によることになる。
ただ、現在、研究業界は競争がとても激しいため、そういう人間は下手すると淘汰されかねない怖さを持つ。
評価の厳しさは、この記事を読んでいただければ、わかるかと思う。
この辺り、研究一辺倒な評価を改め、研究以外の多様な仕事があることを認めるなど、業界全体の意識改革が必要だと思っている。

アイデンティティの問題

大学教員は専門家である。
少なくとも、なった当初、その多くは一線の研究者。
研究業界は競争が激しいので、そうでないとなかなか大学教員になれない。
また、それがゆえに、一線の研究者であり続けるり続けるためには研究に打ち込み続ける必要がある。
これと教育が両立するタイプの人もいるものの、これには置かれた環境と当人の能力の両方が必要。
やはり、研究以外に時間を費やした分、競争には不利に働く。
これが研究ができないくらいまでに過ぎると、研究者というアイデンティティに影響する。

まあ、これは仕方ない問題で、解決はなかなか難しい。
大学教育が研究(もしくは一線の実践)と同居することで成り立っていることから考えても、両者のバランスを考えながら組織経営を行うくらいしかないと思う。
研究時間が全く取れないくらい教育業務を割り振れば、研究のために教育を犠牲にする教員は一定する出てくるというのはやむ得ないと思っている。
そして、そういう大学教育の現場は増えてきている。

まとめ

とまあ、大学教育の現場にいる者として、雑観を書いてみた。
大学も多様なので、全ての大学で当てはまるわけではない。
が、時間の問題や研究・評価の問題は多くの場合で共通していると思う。
そういうわけであるから、時間の問題、評価の問題を解決しないことには、大きく大学教育がよくなる、ということはないように考えている。
研究業績評価主義の背景には、研究業界の過当競争に根本的な問題があるため、なかなか簡単ではない。
そんなことを考えながら、僕自身は経営者でもなんでもないので、目の前のできることに向かう日々を過ごしている。

なんだ、じゃあ学生としてどうしたらいいかわからないじゃないか、と思われる方もいることと思う。
そんなことはない。
濃淡はあるものの教育にモチベーションを持つ教員というのは存在する。
授業を聞いたり質問に行ったりを繰り返す中で、どういうタイプの教員なのか見極める。
その上でうまく教員と付き合っていったらいいと思う。
なお、僕は大学教員は多様である方が望ましいと思っていて、教育がやりたい人は教育に重きを置けばいいし、研究がやりたい人はそっちをメインにすればいいと思っている。
大学の教育は研究現場が教育と同居しているところにその特色があるので、講義にあまり力が入っていない研究重視タイプの教員であっても研究指導では大きな学びが得られるということはある。

さて。
もう一つ。
これらの問題を知った上で、国の大学政策を見てみる、というをぜひやってほしい。
大学教育は政治的にも社会的にもよく議論に上がる。
しかし、問題の本質はその議論で指摘されている点にあるのか。
提案されている方法で解決するのか。
今回書いたことをあわせて考えていただき、大学教育の現場の声を聞いていただき、その上で自分なりの意見を持っていただけたら幸い。

というわけで、長くなったが、このシリーズはこれにておしまい。
ではまた。





f:id:htyanaka:20210823215246j:plain 福岡わがふるさとの夏。


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2021/08/01 18:21
休暇中。
Drop In鳥取にて。


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大学教育の問題 その2 時間編

前回のつづき。
大学教育の問題は、大きくは時間がないというところに帰結するということを書いた。
なぜ時間なのか、今回は具体的に掘り下げていく。

教育には手間がかかる

当たり前のことなのだが、教育には手間がかかる。
そして、当然ながらこの手間が授業の質を上げる。
例えば、授業中にリアクションペーパー(疑問などを聞くアンケート)をとる、という場合。
集めてきたリアクションについて、学生へ回答したり授業改善につなげたりする必要がある。
これらにはいくらか手間がかかる。

授業日誌をつける、というのも授業改善でよく紹介される方法。
授業をした後なるべく早く、学生のリアクションや感じた問題点などを振り返って記録しておく。
これは書くだけでなく、振り返って改善するための手間も必要。
授業する前に授業内容を見直しておく、というのも、経験上、授業の質に影響する。

以上は、僕の授業で実践していることなのだが、わりと手前はかかる。
1科目だと大したことないのだが、何科目もあると結構な時間になる。
FD(教育に関する研修)や授業改善のための書籍にはこれ以外にも色々な取り組みがあるのだが、時間を考えるとなかなか導入できない。

高大連携を意識した授業となると、高校での各科目の授業内容なんかも把握しておく必要がある。
これは自分の授業を教える上で大事にしているのだが、指導要領は時々変わるのでアップデートに時間が必要。
他にも、学生さんの質問対応や細々した相談への対応など、時間をかけるべきポイントはたくさんある。
これらは、一連の教育改革においても重要とされているポイントであり、各大学推奨していることでもある。

ここでは、授業をよくするための手法ばかりをあげたが、当然授業自体を作り込むのにも時間を要することになる。
このあたりの大変さは、 大学の授業作りの大変なところ(大学教員・研究者という生き物4 ) でも書いているので、よろしかった読んでいただいて。

教育改革・大学改革による時間減

文科省主導で進められたものもある。
例えば、出張で抜けた分の授業は原則として補講が必要になった。
シラバスはていねいに書くことが求められ、これをやらないと大学評価に影響する。
教職科目等一部科目については、教える内容がある程度決めらるようになり対応に時間がかかるようになった。
FDの実施や出席率などが大学評価に影響するため、実質的に教育がよくなるか否かにかかわらず出席を求められ時間が取られる。
なお、厳格な出席管理が求められ、かつ出席が成績に影響しない、というのも文科省主導の教育改革による。
これらの教育改革は、ある意味では質のコントロールに一役買ったところはあるが、時間は取られることになる。

教育以外の業務についても大学改革が進められてきた。
評価を厳格にする、研究費を外部からとってくる、などなど。
時代に合わせた、組織改革(学部改組、大学院改組等)もこれに当たるか。
これらは一つ一つについて、相当な時間を取られる。
つまりは、教育にかけられる時間は減少することになる。

人員削減による時間減

特に国立大学で顕著な問題。
国立大学は法人化されて以降、予算がちょっとずつ減らされてきた。
ちょっとずつなので大したことないと思われるかもしれないが、そうではない。
組織の経費のほとんどは固定費(人件費等)なので、自助努力で経費削減するには限界がある。
研究経費を削り外部資金で補う、くらいしかできない。
それをやり終わると、人件費に手をつけることになる。
しかし、現役の給料を下げることは労働法制上難しい。
このため国立大学においては、退職教員の後任を補充しないということでの人件費削減が広く行われてきた。

しかし。
後任不補充の場合であっても、やらなければならない授業は残ることが多い。
この場合の授業負担は、単に数が増えただけの負担では済まない。
大抵の場合は、専門外隣接分野の担当になるため、授業を作るための知識獲得など、多大な時間を要することになる。
また、入試業務等の分担業務の担当頻度が増えるため、その意味でも時間が取られることになる。

この辺りの話は、 日本の研究力低下についての雑感 にも書いたこと。

教育にかかる時間についての見積もりや議論がない

さて。
教育には時間がかかり、そのための時間が少ない、というのはわかっていただけたと思う。
ただ。
僕が一番問題と思っているのは,これらのような教育にかかる時間に関する見積もりや議論が全くないことである。
FDでも文科省系の改革でも大学経営者からの提案でも、教育をよくしようという提案はたくさん出てくる。
これ自体はとてもいいことだと思っている。
しかし、これらが出てくるときに、その時間をどう確保するか、という議論が全くないのである。
ただし、何をやるにしても時間が必要。
教育にかける時間は、そのまま教育の質に影響する。
そうであるはずなのに、時間をどう確保するかの議論を聞いたことがない。
これは、大学一般に言えることで、研究においても同様。

1つの授業科目に、準備時間や改善の方略も含めて一体どのくらいの時間が必要なのか。
それを見積もった上で、その教員に必要な時間を与える。
こういう基本的なことがおざなりにされている。

大学教員も労働者なので、1日の勤務時間というものが存在する。
おおざっぱに7時間45分働いているとみなして、残業代の発生しない方法で働いていることが多い。
しかも、大学教員は研究業務が主たる業務になる。
業務時間の半分を研究時間として、1セメスタあたり4科目担当だったと仮定して計算しても1科目あたりの準備時間は週に1-2時間程度しか取れない。
計算上は、1コマの授業準備・改善に使える時間があまり多くない。
1セメスタあたりの持ちコマは人員削減により相当に増えており、この2倍以上担当しているケースも見聞きする。
そうなると、どうあっても授業の質の低下につながる。


まあそういうわけで、大学教育の質向上のために一番大事なことは、時間の確保だと思っている。
時間やお金をかけずに質を向上させる、というのは初期の余裕がある時にしかできない。
もうその時期はとっくに過ぎたと思っている。

長くなった。
今日はここまで。
次回は、時間以外の問題点を書く予定。
ではまた。




f:id:htyanaka:20210816223638j:plain ホームシック、横浜。


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2021/08/01 18:21
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Drop In鳥取にて。


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コロナの「自粛」の話

先日Twitterに以下のつぶやきをした。


すると、知り合いの学生さんの質問箱に、以下の投稿があったよう。



僕は質問箱をやっていないので、時々こうやって全く関係ない学生さんの質問箱にコメントが送られる。
毎度ご迷惑をおかけして、ごめんねごめんね。
見つけたらフォローするのだけど、今回はつぶやきだと伝わらないかな、と思ってブログ記事化することにした。

まず。
質問箱にある意見については、とても理解できる。
僕も鳥取に住む人間として、安易に県外と行き来してコロナを持ち込んで欲しくないと思っている。
僕自身も持ち込むような行動は控えるようにしている。
鳥取県のページを読んで、感染状況に応じてリスクに応じた行動を心がけている。
これをやっている人はそれなりにいると思っている。

その上で。
やはり冒頭のつぶやきのように、自粛は無理して行うべきではないと思っている。
これは去年から繰り返し言っていること。
人それぞれ抱えている背景や人間としての特性は多様である。
よって、ある人が我慢できることであってもある人にはとてもしんどい、ということはあり得る。
ふざけているように見えて、もう限界ギリギリでこれ以上我慢すると病む、という人もいるかもしれない。
県外の自宅には病気の親族がいて、ここで会わないともう会えないという場合もあるかもしれない。
他地域から大学に進学したものの、地元のような人間関係が築けていないような人もいるかもしれない。
その人が抱えるつらさや苦しみは多様で、背景や人格特性もまた同様。
そして、それらを他人が全てを知った上で、完全に理解して納得することは難しい。

そもそも、自粛とは自分の意思で行動を制限すること。
特に今回のコロナのような場合は、自分のためというよりは社会全体のためにという理由の方が大きい。
そのため、自己の限界を超えてまで行うべきではないというのが僕の意見。
なんでこんなことをわざわざ発信するかと言えば、大学生はそのあんばいがわからない人がいるから。
初めての1人暮らしで、ただでさえストレスをためがち。
でも無理に無理を重ねて我慢をしてしまう。
気づいた時には、精神的に壊れる寸前だったり、壊れた後だったりする。
こうなると、学業を少し休まなくてはならなくなったり、断念しなくてはならなくなったりする。
大学生は不安定な青年期でもあるので、ヘタすれば自死に至る。
そんなに自分を追い込んでまで「自粛」する必要はないよ、ということ。
そういうのを果たして「自粛」というのか、というのもある。
言われないとわからない人もいるので、たまに発信するようにしている。

一方で。
冒頭の質問箱にあるような感染拡大のリスク、それらへの不安や不満があるのも事実。
これはこれで尊重しなければならない。
そういうのを踏まえて、一人一人ができる範囲で自粛する必要があるというのが僕の立場。
この辺り、鳥取県の呼びかけが優れていると思っている。
以下に引用するので読んでみてほしい。

人と人との接触機会を減らす行動を

不要不急の外出は控え、お盆は思い切った休暇や在宅勤務を実施しましょう!
その仕事、飲食会、イベントなどは、電話等でできませんか?日延べできませんか?
多くの人が各地から集まるイベント、同窓会などの中止、延期を検討できませんか?
会食は対策をしっかりした店で普段一緒にいる人とマスク会食を!

この夏は県外との往来を控えて

旅行や帰省を再検討し、「行かない」「呼ばない」「延期」の選択はできませんか?
この夏はできるだけ県外との往来を控え、電話などで温かい心を届けましょう!
やむを得ず往来する場合は、人混みを避ける、県外の人との会食を控える、PCR検 査を受けるなどリスクを考慮した行動を!

基本的な感染予防対策の徹底を

マスクの着用、こまめな手洗い・消毒、エアコン使用中も定期的に換気を!
(周囲の人と十分距離を取って適宜マスクを外し休憩など、熱中症対策も)

強制はせず、個々の事情をくんだ上で、「自粛」をお願いをしている。
「自粛」とはどういうものかをよく示した呼びかけだと思う。

不届き者に腹が立つ、叩きたい、というのは感情としては理解できる。
ただ、それをやって追い込まれるのは大抵は声の小さな弱っている者だったりする。
まあ、こういうのはコロナに限らないので、気をつけたい。




f:id:htyanaka:20210808130953j:plain 長年単身地方暮らしをしている中年の僕が苦しいのだから、
そりゃ若い学生さんはもっと苦しいだろうと思うのだよね。
鳥取市内にて。

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2021/08/08 13:21
休暇中。
鳥取市内にて。


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Update 2021/08/08
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大学教育の問題 その1 導入編

僕が大学生の時。
大学の授業にはひどいものが残っていた。
授業のレベルが学生に全くあっていないもの、準備を全くしていないと思われるもの、教科書を読み上げるだけのもの。
学生のことを考えて練られた授業というものもあったものの、ひどいものもいくらかあった。
これが、僕が一時期大学教員になりたくなった動機でもある。
この辺りは、別の記事にも書いた。

当時、それがよしとされていたわけではない。
昔から行われてきた学生置き去りの大学教育は当時すでに問題になっていて、いろいろと改善されてはいた。
その後も大学教育の質向上は課題とされ、さまざまな取り組みがなされてきた。
FD(Faculty Development、教育の質向上を目指した各種研修)、授業アンケートの導入、シラバスに基づく授業の実施、休講分は補講を原則とする、などなど。
昔に比べると今の大学教育はずいぶん改善された。
ただ、今なお、大学教育がよろしくない、と感じる人はいると思う。

では、これ以上大学教育がよくなるのか、といえば、現状ではなかなか難しいと思っている。
これは個人の問題というよりは、大学という仕組みの問題に起因する。
教育をする側の人間として、この問題について考えてみたいと思う。
今回は導入編。

まず。
ここ20年の大学教育の改革で、古い時代の問題点はだいぶあぶり出されて改善された。
実践的な積み上げと共有も進んだ。
何をやれば大学教育がよくなるのか、わかっているものも多いと思う。
しかし、実践するだけの時間がない。
大きくはこの問題が大きいと思う。
時間がない理由は様々ある。
教員削減の問題、1つの授業にかかる準備時間の議論がない、大学改革によってより時間が必要になった、など。
研究者が教育を行う、という従来型の大学教育の限界もあるかもしれない。
ただ、大きな原因は時間だと思っている。

言い訳じみているかもしれないが、教育は準備にいくら時間をかけるかで質が左右されるのは間違いない。
そして、その時間がとれない、というのは事実として存在する。
この議論を抜きにはこれ以上の質向上は難しいと思っている。

次回は問題を深く掘り下げていく。
が、今回はここまで。
ではまた。




f:id:htyanaka:20210802061159j:plain 門司港駅か。


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2021/08/01 14:47
休暇中。
鳥駅スタバにて。


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エビデンスの話

エビデンスという言葉がある。
ここ20年くらいでよく聞くようになった言葉で、主張されている事柄についての科学的な裏付けのことをいう。
医学や心理学の臨床など、ケースバイケースで進める現場系分野でよく用いられるようになった。
SNSで主張されている言説に対して、エビデンスはあるのか、という指摘をする人も増えていて、そういった文脈でも見ることがあるかもしれない。

さて、このエビデンス
もともとケースバイケース系の現場で、職人技的に経験に頼って仕事を進めていたことへの反省から出てきた。
例えば、お医者さんが患者さんを見る際、経験的にこうするとよい、みたいなものがあって、それで進める治療法があったとする。
ところが、科学的にちゃんと研究してみると実際には思い込みで、その治療法は効果がないということが明らかになってしまう。
こういうことがあるので、科学的にきちんと証明して本当に効果があるのかを確かめることの重要性が言われるようになった。
この時の科学的な研究知見をエビデンス、というわけ。
例では、経験知とエビデンスが乖離しているものを挙げたが、もちろん両者が一致しているものも多い。

ところが。
エビデンスを重視する人たちの中に、少し極端な主張を聞くことがある。
エビデンスのないものは正しくない」という主張である。
研究者の中にさえこういう態度の人がいる。
この主張は正しいのであろうか。
みなさんはどう思われるだろうか。

僕はこの主張を支持しない。
エビデンスが重視されるようになったのは、エビデンスのない経験知や理論、モデルが間違っていることがあるからであって、それら全てが間違っていることを意味しない。
エビデンスがあるものに関しては、その主張の確からしさが高い、と考えてよい。
一方で、エビデンスがないものに関しては、主張の確からしさをエビデンスに求めることができないということだけを意味する。
もちろん、科学の手法で調べることが可能であるならば、エビデンスを得たほうがよい。
しかし、科学は万能ではない。
調べることができること自体、かなり限られている。

エビデンスのない経験知は全く役に立たないのか。
そんなことはない。
科学が発展する以前から、経験を積んだ専門家・専門職は活躍していた。
これは、その経験知がある程度正しく、役に立つということを示している。
理論やモデルについても、論理で緻密に組み立てられているものは多くあり、何十年も経ってから方法論的に可能になりエビデンスが得られ、正しさが証明されたものは多い。
よって、エビデンスなしであっても経験知や理論、モデルは十分役に立つ。
からしさのレベルが下がるだけで、全く間違っているとはならないわけ。
エビデンスがない場合、特に科学的な限界でエビデンスを得ることができない場合、これらに頼らざるを得ない。
たまにエビデンス原理主義者みたいなのがいて、エビデンスなき主張については全て無視という態度を見ることがあるが、ものすごくナンセンスだと思っている。

エビデンスと確からしさについては、おもしろいのでもう少し掘り下げて書いてみたい。
ただ、それはまた今度。
今回は長くなったので、これでおしまい。
ではまた。




f:id:htyanaka:20210726061841j:plain 智頭急行線の車内にて。

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2021/07/25 23:30
明日から仕事。
自宅にて。


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Update 2021/07/25
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