週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

根拠をWebに求めるな(大学生のための学び方入門17)

大学で勉強をしていると、さまざまな調べ物をすることになる。
日々の勉強、レポート、卒業研究。
その中で、安易に使われすぎているなぁ、と思うのが、Webの情報。
今回はこのテーマで書く。


確かにwebの情報は便利ではある。
Wikipediaを中心とした詳しい内容に当たれるもの、難易度的に簡単なもの、など、検索をかけると知りたい情報にすぐたどりつけて大変便利。
よって、ついつい、頼ってしまう。
ただ。
Webの情報はかなりいい加減な、間違った情報が混ざっている。
日々の勉強や、学問系の調べ物で、Webを使う人が多いが、これらの場合はweb情報を避けるのが無難。
これらの行為では、「わからない」という理由で調べるということがほとんど。
しかし、「わからない」ということは、出てきた情報については、自分で真偽の判定ができないため、正しいものとして受け入れるしかない。
正しい情報も含まれるかもしれないが、間違った情報も一緒に取り込むことになる。
レポートや研究であれば、間違った情報をもとに作業が行われることになり、最悪間違った結論が導かれる。
勉強であれば、間違った知識を身につけることになる。
いずれも、無駄どころか、有害ですらある。
これは、AIの使用にも言えることで、このあたりは前に書いた通り。

普段から大学生と接していると、彼らが指導の中で間違ったことを書いてきたり報告してきたりすることはよくある。
これらは、学問的な事実から分析方法まで幅広い事柄について生じる。
そんなことは授業資料にも、論文にも、書籍にも書いてあるはずがない。
そこで、「それ、どこから得た情報?」って聞くと、たいていは「ネットで調べました」というのが返ってくる。
だよねぇ、という感想。

では、なぜwebの情報には偽物が多いのか。
それは、書き手がまた玉石混在だから。
そもそも誰が書いているかもよくわからないことが多い。
あまりに手軽に誰でも情報を発信できるため、内容について全然詳しくない人が書き手になれてしまう。
書く上で参考にしている情報や、知識レベルが担保されない。
顔が見えないだけで、書いているのは広告収入ほしさの同い年大学生、ってことだってありえる。
もちろん、専門家が書いているweb上の情報もあるのだろうが、どの情報が専門家のものかがよくわからない。
もし、専門家が書いていたとしても、どの程度力を入れて書いているのかはわからない。
そういうわけで、間違った情報がどうしても多くなってしまう。
これは、wikipediaレベルでもそう。

では、どうしたらいいのか。
基本は、ちゃんとした出版社の専門家の書いた書籍に根拠を求める、ことを徹底すること。
なぜか。
専門家が著者・編者として名前を明示している場合、通常は自分の信用をかけて書籍を出している。
間違いがある場合、専門領域内の仲間や世間様から信用を失う。
自分の名前に傷がつくわけ。
さらに、出版社のレベルでも信用をかけて編集をする。
いい出版社の場合、編集担当がかなり細かくチェックをかけて、間違った情報を減らす努力をする。
それでも間違いが含まれている場合は、間違っている部分について読者(専門家を含む)から指摘され、次の改訂で修正されることが多い。
こういう仕組みなので、ちゃんとした出版社の専門家の書いた書籍というのは正しい情報かなり多くなる。
根拠としてはweb情報よりも格段に質が高い。

特に大学生は「根拠をちゃんとした書籍に求める」を徹底したい。
理由は3つある。
1つ目はここまで書いた通り、間違った情報に自分の知識を守るため。
どんなに時間を使って一生懸命作業したところで、間違ったものがたくさん入り込んでしまってはどうしようもない。
無駄どころか有害ですらある、というのも前に書いた通り。

2つ目は、その作業こそが、正しい知識を得るための方法であり、大学生のうちに身につけたい技術であるから。
知りたい情報があるときに、どういう書籍にあたれば質の高い情報を得ることができるか。
どうすれば、より正しい情報に行き着くことができるか。
これは大学生のうちに身につけておきたい、重要な知の技術である。
で、身につけるためには、日々これを実践する以外に方法はない。
ちょっと面倒で、時間は取られるかもしれないが、必要なこと。
これができない人が、ゆくゆく歳をとって陰謀論やらなんやらの怪しい情報にやられてしまう。

3つ目は、このレベルの書籍を読む力を身につけるため。
大学生のうちに磨きたい力として、読む力があることは前に書いた通り。
「根拠をちゃんとした書籍に求める」ができるためには、そのレベルの書籍を読む力、を身につける必要がある。
webで情報を連れてくる大学生に、なんでそうするのか聞くと、書籍が難しくてわからないから、という答えが返ってくることが多い。
しかし、だからといって書籍を避けて簡単なweb記事に情報を求め続ければ、永遠に「ちゃんとした書籍」は読めるようにならない。
大学生というのはそういう技術を身につける訓練の期間でもある、というのを忘れないようにしたい。


そんなわけで。
根拠をwebに求めるな、ちゃんとした書籍に求めよ。
それを徹底するだけで、だいぶ正しさに近づけるし、能力が身につくよ、というお話。

なお、ここまで書いて気づいたが、「ちゃんとした書籍」の選び方がわからんかもな、と思った。
なので、次回はこのトピックについて書く予定。
ただ、結構長くなったので、今回はここまで。
ではまた。




山陰のどこか。

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2024/06/09 20:03
日曜日の夜に。
鳥駅スタバにて。



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Update 2024/06/09
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質疑応答虎の巻(研究をしよう40)

卒論修論の最後にやってくるのが、発表会。
発表については、過去にいくつか書いている。
発表をしようシリーズ
今回はその中でも、質問に関する応用編。
発表時の質問についての続編、と考えていただいて。

質問対応というのは瞬発力がいる。
何を聞かれるかわからず、いざ聞かれるとパニックになってしまうこともあろう。
しかし。
基本的にはコミュニケーションの1つでしかない。
聞かれたことをちゃんと理解した上で、丁寧にコミュニケーションを取ればいいだけ。
そう考えれば肩肘張らずに落ち着いて対応できるかもしれない。
いくつかポイントを絞って解説するので、ぜひ参考にしてほしい。
なお、この質疑応答のポイントは、研究発表以外の様々なシーン、例えば会社の会議などでも役に立つと思う。

質疑を理解する

卒論生レベルだと、質疑を受けても内容を理解できない、ということはよくある。
発表の場に緊張して立っているので、無理もない。
咄嗟のことでよくわからなかったということは起こりうる。
そうでなくても、質疑をする人が大学教員だったりすると、言葉が難しすぎてわからない、何を言ってんだコイツ?となることもあろう。
また、質疑自体がよろしくないこともよくある。
質疑を発する側も人間であるので、勘違いから、ナンセンスなものまで、玉石混在と見ていい。
なので、質疑に合わせて、正しい対応をする必要がある。

その第一歩が、質疑を正しく理解する、ということ。
コミュニケーションであるので、わからなければ臆することなく聞き返そう。
言っていることがよくわからないので、別の言葉でお願いできるか、と、単刀直入に聞き返していい。
少し意味がわかるのであれば、言い換えて、ご質問は〇〇ということでいいか、と自分の言葉で聞き返してもいい。
わかってもいないのに、質疑に答えを返していくのはコミュニケーションとして正しくないし、不誠実で大変よろしくない。
なお、僕も学会なんかで質疑の意味がわからなければ聞き返すし、多くの発表者もそうしている。
学生の場合、未熟なことはある程度わかっているので、遠慮することなく理解するための聞き返しをしてほしい。

その上で。
質疑には大きく、2つあるので、そのどちらであるのかも把握する。
1つ目は、純粋に内容の確認したり、わからない箇所をクリアにするための質問。
これは質問内容にあわせて新たに情報を提供して、相手に理解してもらうように努める。
まあ発表時間という制約がある中では、なかなかうまく伝えられないものなので、こういう質問は出てくるもの。
場の理解も進むので、しっかりと対応したい。

もう1つは、問題点に突っ込んでくる系の質疑。
結論・主張に対する研究文脈上の疑問と言ってもいい。
突っ込みポイントは、研究をしようシリーズの2−11を読んでいただいて。
早い話が、結論・主張に対する挑戦、と考えてもらっていい。
自分が1年も2年も考え抜いて進めたかわいいかわいい研究である。
出来うる限り、質疑を打ち返して守ってあげたい。
守備と攻撃側にわかれたゲームの守備担当をやっているという気分で、ライトに構えて、質疑応答を楽しんでいただくくらいがいいと思う。

この後は、この、守り方、に関するポイントをいくつか書く。
なお、質疑対応のポイントは以下の一点のみ。
研究の結論・主張を守ること
言い換えると、結論・主張の(1)新しさ、(2)正しさ、(3)研究文脈上の意義、に対する疑問をつぶしていくことである。
このことを常に頭に置いて質疑に応答していきたい。

あいまいな質疑をクリアにする

結構困るのが、あいまいで、質疑の意図がよくわからない質問。
ひどいのになると、何を聞きたいのかすらよくわからないことがある。
この場合は、前の項で書いたように、その意図と問題点をクリアにしていくコミュニケーションをすることになる。
この時に重要なのが、研究の結論・主張を関係を考えながら、意図・ポイントを聞きとっていくこと。

あいまいすぎて何を答えたらいいか全くわからない場合は、単刀直入に、何を知りたいのか具体的に教えてほしい、と聞こう。
あいまいながらうっすらとわかる場合は、自分の言葉で置き換えて、〇〇について答えればいいか、と確認する。
基本的に質疑で突っ込んでくる以上、研究の結論・主張と何らかの関係があるはずなので、そのことを頭に置いて推測と確認をするしかない。
なお、あいまいな質疑に関しては、質疑する側に問題がある。
よい質疑とは結論・主張をひっくり返すポイントをキリでひと突き、みたいなやつ。
結論・主張との関係を意識しながら切り返すことで、研究がわかる聴衆にはその辺りのことは伝わるものなので安心してほしい。

「今はその話はしていない」系質疑をかわす

あいまいな質問と似ている質疑が、これ。
研究的文脈やら何やらを全部無視して、外部から新たな論点を導入して論を展開して、質疑を行う。
ネット系言論人にはこれが得意な有名人も多い。
もっともらしく論を引っぱっていった上で、自分の土俵上に引きこ込んで問題点を提示してくる。
賢く見えるので、そうかも、と思ってしまいがちな質疑でもある。

ただ。
研究発表の場合、重要なのは、自分の研究の結論・主張を通すこと、この一点。
他の文脈を持ち込んで、こういう研究の視点の方がよかったんじゃないか、というような質疑がこれにあたるのだが、それは自分の研究の結論・主張には影響しない。
よって、この手の質疑については、そういう視点の研究も必要なことは理解するけど、今発表している研究はそういう研究ではない、と切り返した上で、自分の研究のアピールポイントをもう一度説明する、といった対応になる。
相手の主張する研究の重要性と、自分の発表している研究の結論・主張は基本的には関係ないはずなので、相手の土俵のらずに質疑応答に対応する必要がある。
それでもなお自説に固執してしつこく食い下がってきたら、そんな大事だと思うならあなたがやったらいいじゃないか、的な主張で倒そう。

もちろん、相手の主張に対する情報を自分の研究から提供できるのであれば、それを教えてあげると喜ばれる。
それができる場合は対応したい。
が、自分の研究から離れてはいけない。

問題点が間違いであることを主張する

続いては、キリでひと突き系質疑。
問題点をずばっと切り込んでくる質疑は怖いもの。
これのかわし方は2種類ある。
その1つ目が、問題点自体に対する反論。

聴衆はかなり短い時間で発表を聞いた上で質疑をしてくる。
また、発表者よりも発表内容に対する知識レベルが低いことがほとんど。
よって、当然、誤解に基づく問題点の質疑というのはありうる。
どの部分を誤解しているのかについて質疑内容等から把握し、そのポイントを軸に反論する。
もちろん、誤解点を把握するための聞き返しは構わない。

この反論がうまくいくと、質疑者は理解が深まり納得する。
同時に聴衆の理解も深まるので、しっかりと対応したい。

問題点が正しい場合

キリでひと突き系質疑の2つ目。
問題点が正しい場合。
この場合は結論・主張への影響についてを軸に反論する。
質疑でなされた問題点自体は正しいとしても、結論・主張への影響は全くなかったり、軽微だったりすることは多い。
僕はこのような問題を、クリティカルな問題ではない、と呼んでいる。

クリティカルな問題ではない場合は、その問題があったとしても結論・主張には影響はないことを説明する。
自分のデータで反論する、論理で反論するなどの方法がある。
「おっしゃる通り、〇〇な可能性はあると思います。ただ、その場合はこっちのデータはこうなるはずなのですがそうはなっていないので、結論には影響はないですし、先行研究の××というデータからも〇〇である可能性は低いのではないでしょうか。」
みたいな返し。

この質疑対応は結構難易度が高い、ように見えるのだが、そんなことはない。
なぜなら、そういう問題は、発表者はあらかじめ把握している可能性高い。
自分の研究について、脳が汗をかくほど考えていれば、こういう問題点には気づいているもの。
あとは、あらかじめそれに対する反論を用意しておくだけなので、切り返しの瞬発力があまりいらない。

では、クリティカルな問題点だった場合、つまりその問題点が、結論・主張にもろに効いてしまう場合はどうしたらいいのか。
卒業研究はかなりタイトな時間制約があるため、当然こういうことはありうる。
その場合は、おっしゃる通り、と認めるしかない。
認めた上で、では次に何をすればその問題点をつぶせるか、これを応答として提供する。
今後の課題とさせていただく、は、勉強不足感が否めない上、自分の成長にもつながらないのでできるだけ避けたい。
今後の課題はいいとして、それをどうやって潰せばいいのか、自分の研究でどうしておけばよかったのか、このあたりを誠実に説明する。
ただ、この問題点をあらかじめ把握している場合は、最初から発表に組み込んでおくほうがいい。
研究の限界、あたりに記載しておいて軽く説明しておき、質疑で突っ込まれた場合には詳しく解説、というやり方もある。



と、まあ、質疑応答について書いてみた。
わりと高度だけど、研究以外の場面でも役に立つ技術だと思う。
ぜひ、研究の場を利用して技術をみがいていただたて。

今回はこの辺で。
では、また。




たぶん、高松港

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2024/06/02 20:03
ぐーたら記念日だよ。
鳥駅スタバにて。



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質問力を鍛える〜研究編(研究をしよう39)

さて、前回授業編を書いた。
今回は、研究編。
よって、学生のための学び方入門ではなくて、研究をしようシリーズに。
ただ、研究の中で鍛えられるというだけであって、大学生のうちに身につけておきたいより一般的な意味での質問力と意味合いもある。
研究のみでしか使えないということではないので、その辺は誤解なきよう。

授業で鍛える質問力は、疑問点を見つける力、それを言語化する力、それらに加えて質問度胸、がメイン。
コンテンツの理解を助ける、というところに力点が置かれていた。
ただ、研究で鍛える質問力は、正解に迫るためのテクニック。
授業編の1番最後に書いた、矛盾点をつく、というのがやや似ている。

社会に出ると、その段階で答えが存在しないことがかなりある。
最もらしく聞こえる他者の意見について、質疑を通じてその真偽を見極める、というのは結構大事な技術になる。
もちろん、これを自分の内に向けることもできる。
自問自答した上で、よく練った案を出す、というのが極めて役に立つのはいうまでもあるまい。
研究編で鍛える質問力は、こうした真偽の見極めに必要な質問力と思っていただいて差し支えない。
社会に出た後、仕事をする上でかなり役に立つので、研究活動の中でぜひ身につけてほしい。

では、いざ本編。

レベル0:質問度胸をつける

この段階と次の段階は、授業編でも身につくこと。
ゼミなど研究発表の場で、他者に必ず質問をするようにしよう。
必ずわからないことを見つけ、それについて質問することで質問度胸をつける。
いざ質問するとなるとドキドキしてなかなか言い出せないもの。
ただ、これは慣れみたいなものなので、どんどん質問するようにしよう。

ただし、質問については吟味して、自分が思いつく中で1番難しいものにする。
これは発表者とその場にいる人たちに対する礼儀でもある。
早い段階で質問度胸をつけたら、次の段階へ進んで意味のある質問ができるようになりたい。

なお、レベル0は、質問力を鍛える〜授業編も参考になる。

レベル1:質問瞬発力をつける

研究編の質問で難しいのは、限られた時間で質問を作らなくてはならないところ。
授業の場合であれば、後々資料を見返しながらリアクションシートやメールで質問するという方法もある。
が、研究の場での質問は、発表時に付随した限られた時間で行わなくてはならない。
これが結構きつい。
集中力を最大限発揮しながら、わからないポイントを考え、その中から1番重要そうなことを質問にする。
質問を言語化する時間も限られおり、瞬発的にポイントをつかみ、考えた上で言語化して相手に投げかけなくてはならない。
このスタイルの質疑応答は、社会に出ても会議を中心にかなり必要となるシーンが多い。
大学卒業しても身についていない人が多いので、質問ができるだけでも結構なアドバンテージだと思う。

ただ。
おそらく最初はうまく質問が考えつかない。
そこで、最初のうちは、研究発表についてあらかじめ予習をしておき、場合によっては質問を考えておくなどの準備が必要。
論文紹介のゼミなら、あらかじめ論文を読んでおき質問を考えておく。
学会や研究報告会などの研究発表の場では、研究の発表資料や関連論文をあらかじめ読んでおく、などが考えられるか。

準備をしっかりした上でゼミや発表に臨んだ場合、自分で質問を捻り出すのも訓練になるが、他者の質問もかなり勉強になる。
なるほど、この材料からこういうポイントを質問するのか、と他者の質問から学ぶことができるのも、ゼミや発表会の醍醐味。

レベル2:知らないことを質問をする

まずは、発表の中からよくわからないことを聞く。
素朴なものでもなんでもいい。
一回の発表を聞いて全部完璧にわかる、なんてことはないはずなので、何かは出てくる。
この段階の質問が出て来ない場合、発表に集中できていないか、疑問を言語化することができていないかのいずれか。
練習だと思って果敢にチャレンジしたい。

なお、自分のわからないことは、その場の多くの人もわかっていないことが多い。
純粋に知らないから説明してくれ、でも、ゼミの場くらいなら問題はない。
あまりに基礎的なことで、それを自覚しているのであれば、次回以降はちゃんと勉強して聞かなくて済むようにする、などの自助努力は必要。
時間は有限なので、自分の勉強不足みたいな質問は最小限にしたい。
でも、教育の場では、しないよりははるかにマシだと思っている。

レベル3:場の理解を助ける質問をする

知らないことを聞く、の高等なバージョン。
知らないことの中には、知識としてただ教えてもらう類のものと、研究の本筋を理解する上で知らなくてはならないものがある。
ある程度質問慣れしてきたら、知らないことの中でも、研究の本筋を理解するのに必要なものを選んで質問するようにする。
この手の質問は、その場で発表を聞いている別のメンバの理解の助けになる。
わりと喜ばれるタイプの質問。

もう一段進むと、場のために意図的にそれをやる、という質問テクもある。
発表というのは、する側も不完全なもの。
それゆえ、研究の本筋を理解するのに情報が足りない、あいまいな点、などが入りこむ。
これについて、質問して追加情報を聞き出したり、確認をしたりして、場に追加の情報を提供する。
これはかなりいい質問で、これができるようになるとかなり武器になる。
就活のグループディスカッションなんかだと、いい意味でかなり目立つ。
社会に出ても会議なんかでは重宝され、ファシリテーターとして会議全体の力を引き出すキーマンとなれる。

レベル4:本質に関係ある疑義を質問する

研究発表にしろ会議にしろ、発表者の主張に対してあれやこれや議論して、一定の結論を導き出すためにやる。
研究だったら、その研究がどんなロジックでどんな結論(主張)をしているのか。
それは正しいのか、それともそうではないのか。
会社の会議でも同じで、発表者がなんらかの主張をしていて、その主張は正しそうなのかを判定するためにやることが多い。

すると、質問自体も、本質に関係あるものの方が意味があるということになる。
その方法論だと、その結論に至るには情報が足らないんじゃないか。
分析のこの部分がわからないんだけど、それがわからないと結論が正しいかがよくわからない。
先行研究と発表の整合性はとれているのか。
結論・主張にいたるロジックがわからなければ、それをクリアにする。
こういったことを質問する。
これによって、発表内容への理解が深まる。

質疑のレベルとしてはなかなかで、これができるとどこでも一目置かれる。

レベル5:結論・主張をひっくり返す質問をする

レベル4の究極な形がこの質問。
発表者は「〇〇である」という主張をする。
が、これが間違っていることはわりとある。
これを質問という形であぶり出す。

発表者の行う主張というのは間違っていることがある。
これは、意図的な場合と気づいていない場合の両方がある。
こういう情報を質問によって引っ張り出して、場合によっては結論をひっくり返す。

前提のこの部分は根拠として正しいのか、なぜそう考えるのか。
このデータの取り方だと、その分析はできないのではないか。
仮説の設定にいたるロジックに飛躍があるのではないか。
先行研究のこの部分と結果は矛盾していないか、どう考えたらいいのか。
などなど。
卒論発表会などで教員がしてくるであろう、大変イヤなタイプの質問を思い浮かべていただければいいか。
国会中継の野党の追及や、裁判でのやり取り、記者会見の記者による追及などもこの部類のものがある。

議論の場、討論の場における質問というのの大きな役割がこれ。
なぜ、会議をやるか、発表討論会をやるか、というと、内容の正しさをみんなで吟味する、というのが大きな目的。
理解ができているというのは前提として、で、発表内容は正しいのか、我々はこれを信じていいのか。
これを判断するために行う。

よって、主張をひっくり返す質問というのはかなり重要。
裏を返すと、これができる能力を有しながら、主張をひっくり返す質問ができない、主張をひっくり返せない、ということになれば、それは信じていい、ということでもある。

ちなみに。
このレベルの質問力は、自分が発表者になった場合にも生きる。
自分の発表内容について、研究について、自分で突っ込むことができるということ。
あらかじめ自分で高度な想定質問で突っ込んでおいて、その穴を潰しておく。
こうすることで、自分の研究や発表内容はかなり洗練される。


なお、このレベル5の話は、これ自体で1本記事が書ける。
いつか気が向いたら書いてみようと思っている。
が、長くなったので、本日はここまで。
ではまた。




羽田空港にて。


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2024/05/05 17:27
休暇だよ。
横浜のお気に入りタリーズ2号にて。



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Update 2024/05/05
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研究における選択と集中について

研究業界において、選択と集中ということがずっと言われてきた。
選択と集中というのは、経営的な考え方で、伸びる分野を選択しそこに集中的に資源(金と人)を注ぎ込むという考え方。
研究業界では、主に研究費も含めた研究関連の予算について選択と集中ということが言われ、実行されてきた。
民間経営者層、コンサル・シンクタンク系、財務省系の意見として多く、これに選択される側の一部研究者がのっかって力を持ってきた印象を持っている。

ただ、この考え方。
僕は大いに間違っていると思っている。
民間ではうまくいっても研究業界ではうまくいかない。
そういう類のものではないか、という意見を持っている。
そこで今回はこのネタについて書いてみる。

研究業界の状況

ここ何十年か、うちの業界ではこの選択と集中というやつがずっと行われてきた。
特に、国立大学界隈では、国立大学が独立法人化(独法化)された2004年度以降、かなりこの色が濃くなったと感じている。
独法化以降、国立大学の運営費は少しずつ削られてきた。
運営費というのは、文字通り国立大学を運営するのに必要な予算で、教職員人件費や設備維持費、研究費を含む。
これが減らされると、営利企業ではない国立大学としては、人件費や研究費、設備維持費などを削らざるを得ない。
もちろん効率化などの努力で減らせる分もあるだろうが、それは微々たるものであり、やはり経費予算の減額となる。
その結果、国立大学ではここ20年くらい、教職員を減らし、研究費を減らし、老朽設備の更新を先延ばししてきた。
様々な分野の研究者ポストが減り、大学からの研究費だけでは研究ができないほどに研究費は削られている。

ただ。
増えたものもある。
これは競争的な研究費。
企画書を出させて、それを審査して、良さげなものだけに研究費を出すという類のもの。
いわゆる選択と集中、というやつ。
政府が国全体の研究費を算出すると、全体の研究関連費はさほど減っていないので、選択と集中型の研究費が相対的に増えてきた、ということであろう。

このあたりは、 日本の研究力低下についての雑感 に詳しく書いた通り。

民間ではなぜ選択と集中は機能するのか

さて。
民間の人はなぜ選択と集中というのか。
限りある経営資源をある分野に集中させて、利益を最大化したい。
そういった発想からだと思う。

民間の会社の場合、なぜこの発想で機能するのか。
これは、選択と集中の切り替えが結構容易であるから。
市場にはあまた企業があるし、はやらないまでも細々と経営が続いていることもある。
ある企業で選択されずに切り捨てた部門があったとしても、必要になったら企業を丸ごと買収したらいい。
選択したものがだめだったら、それをさっさと切り捨てて、新しく選択し直す、というのが容易。

企業のレベルでもそう。
例えば、スタートアップ企業。
1つのスタートアップ企業が生き残る可能性はそこまで高くなく、だめだったら投資が引き上げられ、潰れてしまう。
ただ、起業に挑戦する人はたくさんいるので、次から次へと新しい企業が出てくる。
一度潰れたとしても、同じ人が別のアイディアで再チャレンジというのもしやすい。

人材のレベルでもまたしかり。
選択と集中で選択されなかった側の人間は、企業内で別の分野に移転したり、転職して別企業で同様のことをやる。
もちろんその中には、人材としても終わりを迎える人もいるかもしれない。
が、基本的には働かなくてはならないので、どこかで何らかの仕事をしていることが多い。
そこで、新たなスキルを身につけるなり、元のスキルを深めるなどして働くなどしている。
社会状況の変化で人材が必要になった場合、社外から調達できるプールのようなものが存在している。

このように、民間企業では、選択と集中が機能しやすい。
ただ、大きな企業の中には、どれが育つかわからないので、死なない程度に多様な技術や人材を雇っておく、というのをやる企業もあるらしい。
選択と集中はしているけど、選択されなかった分野の重要性もわかっているタイプ。

研究業界の選択と集中

研究業界ではどうか。

まず、分野から見てみる。
ある分野が選択され、ある分野が選択されなかった場合。
選択されなかった分野は研究の継続が難しくなる。
大学業界で起きている選択と集中は、それを行うための原資を非選択・集中分野から集めてきている。
選択と集中の対象外になると、研究そのものができない、となる。

こうなると、分野自体に人材がいなくなる。
研究ができないわけだから、大学院生が来なくなる。
論文数が少なくなるので、ますます大学院生が来なくなる。
いくらか来ていた大学院生も、非選択・非集中分野化により、ポスト数が少なくなり就職できなくなる。
その結果、研究者人口自体が減少し、ますます大学院生も来なくなる。
そのうち、元々いた力ある研究者が退職を迎える。
こうなると、今度は研究者養成ができるキーとなる研究者がいなくなってしまう。
さらに時間が経つと、その研究分野自体が風前の灯状態に。

こうなると、もはや、その分野の立て直しは容易ではない。
その分野のプレイヤーもそれを育成する教育者も、その分野を宣伝する伝道師(大学教員)もいなくなる。
これを一から再構築するという話になるので、かなり時間もお金もかかる。
社会の流れで、急にこの分野の研究・教育ができる人が必要になった!となっても、すぐには対応できない。
外から人材が集められればいいのだろうが、研究という営みの特殊性から簡単に入ってくることはできず、人材の養成にもかなり時間がかかる。
そもそも、人材を養成できる人材がいなくなっている場合もあるので、そうなるとお手上げ。
この辺りが、民間の選択と集中とは違うところ。

昔は、研究者養成ができる国立大学にも地方国立大学にも余裕があって、選択されなくても研究者として死なない程度の研究環境があった。
これが、多様な研究分野や研究教育人材をプールしていたのだが、そういうのが成り立たないレベルで非選択・集中分野の環境が悪化した。
今、選択されている分野が元気なうちはいいが、フェーズが変わった時、かなり困ることになる。
今選択されている分野の中には、注目されることもなく細々と研究を続けた末に、急に選択される側に回った分野もある。
細々と研究が続けられない環境だと、こういうことは起こり得ない。

研究業界は分散投資が必要

いやまて。
じゃあ、将来あたる分野をあらかじめ投資しておけばいいじゃないか。
ということをいう人もいると思う。
が、これは不可能である。
民間レベルでも、それができないからこそ潰れる企業がある。
多くのスタートアップ企業が失敗をする。
将来何が当たるか予想ができないから、とりあえずやらせてみて、うまく社会的時流に乗ったものが生き残る仕組み。
つまり、先が読めないことが前提の選択と集中、ということになっている。
研究業界においても、その分野が将来当たるか、は全くもって予想できない。
当たる当たらないは、研究で発見されるものにも依存するし、社会の予測不能な変化の中でも生じる。
iPSが注目されたのは前者だし、コロナについては後者のいい例。

なぜ選択と集中が民間でうまくいくかは先ほど書いた通り。
経済活動全体の中に、分野と人材の多様性を確保しやすい上、素早い立ち上がりもできなくはない。
そういう環境であるからこそ、選択と集中が機能しているところがある。
ただ、これは研究では機能しない、というのは書いた通り。

そうすると、研究業界ではどうしたらいいか。
これは、選択と集中の運用の方法を工夫しなければなるまい。
選択と集中自体はいくらかあってもいいとは思う。
しかしながら、非選択・集中分野が死なない程度に、という条件が必要。
具体的には、研究が細々と続けられるような環境の維持(人員・研究費とも)しながら、余ったお金や追加のお金で選択と集中をする。
民間流の選択と集中だと、業界の中で分野も人材も死んでしまう上、外部にそれらの多様性が保存されないのでうまくない。
つまり、死なない程度の分散投資と、その上での選択と集中ということ。

おわりに

おそらく、昔の国立大学が全体として分散投資型研究環境の受け皿になっていた。
給与等待遇はそこまでではないものの、まあまあな研究環境を提供して、研究したい研究者を惹きつけて、研究分野・人材の多様性を確保していた。
それが、国立大学法人化以降、ここのお金を削りながら、選択と集中のお金を増やした。
全体の予算を増やせないので、分散投資をやめて選択と集中を採用した感じか。
その結果、国立大学が全体として保持していた研究分野・人材の多様性が失われつつある。

これは、日本社会全体の問題として、ぜひ多くの人、特に業界外の人に認識してもらいたいと思って書いてみた次第。
国立大学の研究環境の問題は、また別立てで書いてみようと思っている。

では、今回はこの辺で。
また。




どこでしょ?!


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2024/05/03 16:54
休暇だよ。
横浜のいつものタリーズAにて。



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Update 2024/05/03
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教養とは何か、なぜ必要か

その昔、大学生のうちに教養を身につけよう、ということを書いた。
教養〜自分の幅を広げよう(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 2 )

しかし。
教養とは一体なんであろうか。
よくよく考えてみると、なんとなくのイメージで語っている。
数年前、知り合いの大学教員が最近の学生は教養が云々とぼやいていて、よくよく聞くと、教養とは何か、と聞いて出てきたのが名作の漫画で、それは教養じゃないだろ、と嘆いていた。
その人と話した感じだと、学術に共通している古典的な何かを「教養」と言っているようだった。
僕は教養をその教員のようにはとらえていないのだけど、何が「教養」か、については幅があるなと感じ、いつかこれについて書こうとあたためていた。
教養論のような高尚な学術的考察をやる気はさらさらなく、素人の考えを文字にしてみようという試みの類。
そのつもりで読んでいただければ。

教養とは

辞書を足がかりに始めよう。
まずは、新明解。

㊀文化に関する、広い知識を身につけることによって養われる心の豊かさ・たしなみ。㊁(自己の)専門以外に関する学問・知識。(新明解国語辞典 第7版)


次に、三省堂

すぐれた行動力・理解力の成長を助けるものとしての、広い知識と豊かな心(が持てるように自分を きたえること)。(三省堂国語辞典 第7版)

まあ、共通しているのは、広い知識とそれに伴う心の豊かさ、あたりか。

僕もだいたい同じような意味で使っている。
学術的な知識のみならず、文化、というところがポイントで、そういう意味では、漫画だって教養の範疇だと思っている。
文化は時代と共に変わってゆくし、芸術だって教養の一つに入る。
だとすれば、漫画だって広い知識に入りうるのではないか。

ただ。
「広い」知識、という点もまたポイントで、漫画にのみ偏っていたら、教養とは言えないとは思う。
また、作品の内容によってはただただ娯楽の範疇にしか入っておらず、「知識」の部分にハマらないものもあるかもしれない。
あるいは、「文化」、、、そもそも文化とは、、、やめておこう。
とても難しいので、ここではあえて定義せずに先に進む。

一方。
大学業界においては、教養というとカリキュラム上に位置づけられた一般教養のことを指す。
別名をリベラル・アーツといい、専門課程とともに大学教育の重要なものとして考えられている。
リベラル・アーツは、元々は中世ヨーロッパで大学が始まったときに学生が学ぶものの中核にいた。
大学における教養は、時代時代によって意味合いが大きく変わってきた。
自由人に必要な知識からはじまり、紳士のたしなみ、専門教育の前準備、専門知を制御するための必要な何か、などなど。
ようは、教養というのはコミュニティが属する個人に求める何らかの共通の知識などのことを指すと考えられる。
なお、大学における教養教育については教育の仕組みとしてあまりうまく回っていないように感じているが、これは横道に逸れすぎるのでいつかまた別の機会に。


さて。
教養とは何か。
改めて考えてみる。
今のところ、以下を要素とした何か、であることはわかっていただけたと思う。
・幅広い知識(あるコミュニティ内で求められる知識などを含む)
・幅広い知識を基礎とした豊かな心
・未知のものを理解する助けとなるもの
あとは、定義するのではなく、どんなときに役に立つのかを並べることによって定義に変えようと思う。

知っていることで行動や思考が変わる

知識は人の行動や思考を変える。
これに異論のある人はいないと思う。
人の想像力なんて大したことないので、知らないがゆえに間違ったことをしてしまう、ということはよくある。
知識の幅が広ければ広いほど、さまざまな分野でより正しい、より考え抜かれた判断をすることができる。
断片的であれ、幅広く知っていることが多ければ、想像力を働かせてそれを補おう、とすることもできる。

ニュースなんかを見ていると、無知ゆえに人を傷つけている例をよくみる。
SNSなどのネットでも同様。
そもそも、民主主義の社会においては、自分とは関わりのない社会問題についても主権者として政治的な意見を持たなくてはならない。
そういうときにも、教養というやつは大変に役にたつ。

なお、大学教育において一般教養が課されるのは、深くて狭い専門知だけではく教養的な知によって視野を広げ総合的に考える力を持つため。
専門知だけだと偏ってしまい間違うことがある、というのは歴史が証明している。
さまざまな分野の専門知をユーザーとして使いこなすためにも、教養ってやつは必要。

最低限の知識が参入ハードルを下げる

幅広く何かを知っている、ということは、それを深く学ぶというのをやりやすくする。
全く知らない、未知の分野ではなく、何となくうっすらと知っている。
そういう分野であれば、さらに深く学ぶのは全く一から学ぶよりもだいぶ楽。
長く生きていると、その分野を学ばなければならない、学ぶなんだほうがよい、という場面にはよく遭遇する。
このときに、全く知らないとそれを避けるという選択になりがち。
ちょっと知っている、ということが、本格的な参入ハードルを下げる。

だいたい、幅広い知識がなければ。
どこにどんな知識が眠っているか、そのことにすら気づかない、というにもなりかねない。
深くなくとも、幅広くものを知っているというのは、どこにどんな知があるのか、その手がかりを知っておくという意味でも重要。

楽しめることが増える

と、まあ、ここまではよく言われていることで、そんなに目新しくもない。
僕が結構重要だと思うのは、実はこれ。
知っていることが増えると、楽しめることが増える。
これは、知的活動を楽しむ、ということだけではない。
もちろん、新しいことを知って知的な活動をすること自体はとても楽しいこと。

ただ。
そういうことではなく、知っていることが増えると、そのコンテンツ以外で楽しめることが増える。
例えば。
知っていることが増えると、笑えることが増える。
どういうことか。
笑い、というのは、既有知識が前提となっている。
知っていることが、ちょっと変化している、その変化の仕方におかしみを感じる。
つまり、多くの笑いやユーモアは、ある事柄を知っているからこそ、おかしみが湧いてくるというものである。
何かのパロディは、オリジナルを知らなければ笑えない。
とあるコミュニティで、ある知識を共有しているもの同士だからこそその笑いがわかる、というのは結構ある。

つまり。
知っていることが増えると、楽しめることが増えると同時に、笑いを共有できる相手も増える。
そして、これは笑いだけに限った話ではない。
持っている知識の幅が広いと、それぞれの知識を誰かと共有して楽しむことができる。
これは、教養の、意外と意識していない側面だと思う。

教養的態度が身につく

最後はこれ。
教養を身につけたいと思ったとする。
しかし、こればかりは簡単にはいかない。
やれることは、読書がメインで、あとは講演聴いたり人から話を聞いたりすることくらい。
読書も何冊も何十冊も何百冊も読むことになる。
で。
たーっくさん読んだあたりで気づくことがある。
それは。
自分の知っていることなんて本当に限られていて、知らないことばかりということ。
この態度が、結構大事だと思っている。

自分が知らない可能性を知っている。
それゆえに、その可能性を考えて行動する。
意見を持つとき、考えるときには、よく調べて学んでからにする。
それでも、自分が知らない可能性を頭の片隅においておく。
僕の主観だけど、この人は教養あるなぁ、と感じるのは、その人の持つ幅広い知識よりも、やり取りの中で出てくるこういう態度の部分が大きい。



と、まあつらつら書いてきたけど、今回はここまで。
教養とはなにか、は結局定義できなかったけど、まあこれはそもそもテーマが無謀すぎたんだと思う。
でも、辞書的な意味、大学における一般教養的な意味を包含した上で、ふんわりと何者で何の役に立つかはわかっていただけたのではないだろうか。
コスパやタイパとは反対のところにいる現代的には逆境にいるコイツだけど、よさ、ちょっとだけでも伝わっていたらうれしい。

ではまた。




智頭駅、だと思う。

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2024/04/22 22:45
寝る時間だ。
自宅にて。



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Update 2024/04/22
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引越し大失敗事件

ご出身はどちらですか?
これは気軽に投げられるわりに答えに窮する問いである。
生まれは福岡県久留米市
ただし、これは母方の実家出産だったせい。
居住地は横浜市で、小3まで。
その後、茨城、栃木と引越し、栃木で高校までを過ごす。
今も実家は栃木にあるので、ご出身は?と聞かれると、栃木なのかという気もしないではないが、ふるさと感があるのは横浜、福岡。
よって、どう答えたものか逡巡している一瞬の間ののちに、・・・ヨコハマです、と答えることが多い。

ややこしいのがこの後で、1つ目の大学で秋田、次に福島。
修士で札幌、埼玉と移り住み、就職とともに愛知へ。
その後、異動というか転職というか、そういうので、福井を経て、現在地鳥取にいたる。

そんなわけだから、引越しに関してはセミプロ並みの技術を有する。
なんたって経験回数が違う。
しかも、親の手伝いがあったのは秋田の1回のみで、それ以外はすべて自分でやっている。
ちょっとしたものである。

さて。
今回は、そんな自信と驕りが招いた、悲劇の物語である。

某所から某所へ移動することになった時だった。
お金のなかった僕は、ある悪いアイディアを思いつく。
業者頼まず、トラック借りて自分で引越ししたら節約になるんじゃなかろうか。
早速試算をしてみたところ、だいぶ安くつくことがわかった。
弟を雇って豪華メシをおごってもだいぶお釣りが来る。
さっそく、我が愚弟に連絡を取ってみると、引越し後にドライブがてら家まで送ってくれるのであればよい、とのこと。
この頃の愚弟、ドライブに目がない。
チョロい。

ただ、初めてのセルフ引越しである。
そこは慎重に段取りを決める。
まず、トラックはさすがに危ないので、オートマ・ハイエースに変更。
時間も1往復では危ないので、2往復で予定。
過去の引越し経験と荷物の量から、1往復でも十分だったが、予備で2往復しても余裕なようにした。
仕事後の夕方に弟と合流後、荷物を積み込み。
そのまま出発し、現地で一泊。
次の日の朝、荷物を積み下ろし、昼頃には家に帰還。
もう一往復必要な場合は、すぐに荷物を積み込み出発、夕方前には現地着、積み下ろして、夜遅くなる前に帰宅。
次の日の朝、レンタカーを返却して、そのまま大家チェック。
一日、最後のその地を散歩して別れを惜しみつつ、職場にあいさつ。
愚弟をドライブでもてなしながら家に送り届け、そのまま休暇入り。
なんて完璧な計画か。
予備のリカバリープラン時間まである。

パッキング等準備の時間も余念はない。
当時はわりと忙しく、経験上からも仕事後にコツコツ引越し準備をするというのは難しいと思っていた。
そこで、思い切って引越し前3日を有給にして、かなり早い段階に手続きを済ましておいた。
あとは、そこまでにやるべき仕事を終わらせておけばなんの問題もない。

ここまで聞いたみなさま。
だいたい読めてきた、あれだ、やるべき仕事が終わらんかったんだろ??と予想されることと思う。
が。
そうは問屋が卸さない。
物語は順調に進む。
やるべき仕事については、かなりフル回転で早め早めに取り組み。
なんと、有給取得の3日前くらいまでには終わっていた。
このためにですね、1、2週間くらいかなり無理をして平日・休日の業務時間を増やしたのでございます。

おかげで、計画はトントンと進んでいた、まさに有休に入る前日の夕方のことである。
「やなかさーん。います?」
ボスの登場である。
「あなたさ、あとちょっとでいなくなりますよね。」
はい。
「で、出て行くまでに、これとこれとそれとあれをやって残しておいてほしいんです。」
え??
でも、僕、明日から集中的に引越しの準備、、、、。

と、いうわけで。
そこから3日、フル回転の追加業務こなしモードへ。
寝る以外の全ての時間を追加業務処理に費やし、ようやく有休最終日の夕方、完遂。
完遂と同時くらいに、弟から入電。
駅に着いたから迎えに来いとのこと。
職場からヘロヘロになりながら、駅に到着。
「なんか疲れてるね」という愚弟のセリフを聞きながら、我が家へ帰宅したわけです。

愚弟:「あ、、、あのさ。」
うん。
愚弟:「今日、これから、引っ越すんだよね?!」
うん。

愚弟が目にしたものは、段ボール箱の1つも組み立てられていない、生活感満々の我が家の中。
とてもこれから引越し荷物を積み込むとは思えない、普段の我が家。
本来であれば、ここで我が愚弟はキレ散らかしてもいいところ。
が、僕が史上最高レベルで落ち込んでいて、覇気がない。
あまりにも凹んでいるので、キレどころを失ったみたいで、
「な、、、なんとか、なるよ!がんばろう!手伝うからさ!」
と、励ましモードになる始末。

そんなわけで、そこから荷造りと積み込みを行うも、どうがんばっても時間切れ。
このままだと、2往復どころか3往復の可能性もあるため、仕方なく夜に出発。
朝方に第一便現着、夕方に第二便現着、次の日の深夜(新聞屋とパン屋より早かった)第三便現着。
特に第三便では、ご近所様に迷惑にならないよう、抜き足差し足の慎重な荷物搬入だった。
ほとんど、逆夜逃げ。

ヘロヘロになりながら、レンタカーをギリギリの時間で返却。
と、次は大家さんチェック、なのだが、これが、まだ荷物がだいぶ残っている。
多くは、最後に自分の車に積む予定のものだが、捨てるものも大量にある。
迫る大家さんチェック。
もはや戦場である。
迫り来る退去時間。
階段を登る大家さんの靴音。
ピンポーン。
あ、あの、退去時間1時間ずらせないでしょうか?
大家:「ダメですね。とりあえずさっさと全部外に出して。」


この後、無事(?!)部屋の受け渡しを行い、外に出されたゴミを処理センターに数往復運び、残った家財道具を車に積み込み。
愚弟を約束通り家まで送り届けたところで力つき、熱を出しましたとさ。
あとから気づいたのだけど、この間3日間弱、ほぼ寝てない。

軽いトラウマ級の出来事だったため、その後、セルフ引越しなんてバカなことはせず、セミ・セルフ引越しという工夫された手法を開発してですね。

そんなこんなの、久々、なんの役にも立たないお話。
ではまた。




たぶん、鳥取市内。


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2024/05/06 17:16
休暇だよ。
蒲田タリーズにて。



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Update 2024/05/06
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本の紹介,「沖縄のこころ: 沖縄戦と私(大田昌秀,岩波新書)」

沖縄のこころ: 沖縄戦と私
大田昌秀(著)
難易度:☆☆


1945年春。
東京大空襲から半月ほど過ぎた頃、沖縄戦が始まった。
4月に米軍が沖縄に上陸、6月に事実上沖縄から日本軍が消滅。
その悲惨さは耳にしたことがある人も多いと思うが、ちゃんと知らない、という人もまた多いのではないだろうか。

この本は、そんな沖縄戦について、その始まりから終わりまで、当事者視点を交えながらなぞった新書。
著者の大田昌秀さんは、1990年代に沖縄県知事をやっていた人。
沖縄県知事としての印象が強い人も多いことと思う。
元々は社会学者で、琉球大学の教授をやっていた。
この本は、その琉球大学在籍時に書いたもの。
沖縄返還の年、1972年に発刊された。

この本がおもしろいのは、大田さん自身が沖縄戦の体験者であるところ。
学者として第三者的な視点から書かれた他の本とは一味違う。
大田さんは元々沖縄県の生まれ。
沖縄師範学校(現在の教育学部)に在学中、軍に組み込まれ、一兵卒として従軍した経歴の持ち主。
千早隊という情報部門の兵士として、軍内情報伝達を担って戦った従軍記に、学者らしい客観的な事実を交えて、沖縄戦を描く。
戦争以前の沖縄が持つ歴史、本土との関係などの背景情報も適宜提供され、興味深く、一気に読み進めることができた。

本格的な戦闘が始まる前、戦闘中、その末期。
社会はどのような空気感であったか、戦場はどんな感じなのか、そういったことが生々しく伝わってくる。
民間人も巻き込み、県民の実に4分の1人が亡くなった、壮絶な沖縄戦を振り返ることができる名著。
戦争の本質を知ることができる。

戦争を肯定する時、そのリアルをあまり意識せずにその意見を持つことが多い。
が、そのリアルを知ると、戦争に対する見方はまた違ったものになると思う。
おそらく、戦争を経験した先人たちは、そのリアルを知って欲しくていろいろと書き残している。
この本も、そういった大田さんの想いを汲むことができる。

なお。
基地問題で沖縄がフォーカスされることも多い。
冷笑をもって基地問題に対する県民の声を受ける県外人もよく見る。
ただ、この前史を知っても同じような態度が取れるだろうか。
無知は罪とはよく言ったもので、ちゃんと知った上で、沖縄の基地問題を考える必要があると改めて強く思った。

内容についてはあえて詳しくは書かないが、読んで損はない本。
現代の日本を生きる者の教養として、読んでみてはいかがだろう。

では、今回はこの辺で。
また。




ニコタマの河原でボーッとしながら撮ったやつ。
たぶん。

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2024/04/29 17:27
GWだけれども。
職場にて。



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Update 2024/04/29
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