週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

ファースト・プライオリティ

20代の頃。
誰かにファースト・プライオリティを意識しておけ、と教わった。
自分の人生において、一番大事にしたいことは何か。
これを明確にしておくといいよ、というような意味だったと思う。
これは結構役に立つアドバイスだった。
家族を持つことなのか、仕事なのか、趣味のうちのどれかなのか、恋愛なのか、友人関係なのか。
生きていくと、日々選択の連続である。
時には、迷うこと、悩むこともある。
平時に、自分の人生で最も重視したいもの(ファースト・プライオリティ)は何なのかを明確にしておく。
その上で、迷ったらこいつを基準に選択肢を選んでいく。
その場で悩んだり場当たり的に考えるよりは、いい選択ができる。
そうすることで、人生、間違った方向に進みづらくなる。
このアドバイスはスッと入ってきて、以来20年くらい意識していている。

例えば、就職。
どの業界にしようか。
採用通知もらったけど本当にこの仕事でいいのか。
そういった時、ファースト・プライオリティを持っておくと、選択が簡単になり間違いも起きづらい。
高収入だけ大忙しなお仕事と安定しているけど収入はそこそこなお仕事、いずれも選べそう。
ファースト・プライオリティのような基準がない場合、収入や忙しさ、やっていけるかの自信、仕事の楽しさ等々、「仕事」に付随した判断基準のみで意思決定を行いがち。
また、友人にうらやましがられた、とか、採用先の企業に熱心に口説かれた、など、自分以外の基準で決めてしまうことも出てくる。
しかし。
この時、ファースト・プライオリティは一段高い位置から判断基準をくれる。
趣味の音楽を楽しみたい、という基準を持っていたら、それを奪うような選択肢は選ばなくなる。
のんびり生きていきたい、という基準なら、バリバリ働くことを求められる仕事はなし。
仕事で自己実現、なら、それを基準に選んだらいい。

ただ、ここで重要なのは、「人生の」ファースト・プライオリティであるという点。
個別個別で言うと、お金持ちがいい、仕事は楽しい方がいい、プライベートが充実した方がいい、と、領域ごとに望ましい方向があるのは当たり前。
ではなくて、全体として、総体として、自分の人生において何を一番大事にするのか、という基準であるのがポイント。
そう考えてみると、意外とこいつの設定は難しいかもしれない。
収入はそこそこでいい、忙しすぎるのは嫌だけどそこそこ充実していてほしい。
その根底には、おそらく明確に意識されていない何らかの基準がいるはず。
それらに共通する何らかの価値基準があるのかもしれないので、それが何なのか、明確にしておく。
もちろん、相反する別の価値基準から出てくる願望もあるはずで、その場合はどちらを優先するかあらかじめ調整しておく。
ファースト・プライオリティを明確にしておこう、とは、まあそういうこと。
これをやると。
必然的に、ファースト・プライオリティのためにこれを大事にしたいというような下位の基準が出てきたり、2番目・3番目に大事にしたいこと、となども練られていく。
一番大事にしたい価値観を頂点として、判断基準が階層構造に構築されるイメージ。
自分が、何を大事に生きていきたいのか、意識できるようになる。

え?
お前はどんなファースト・プライオリティを持っているのかって?
そんな大事なこと、文字にはしない。
が、そのファースト・プライオリティの下に、のんびり生きるとか、早くパパになるとかそういうのがあった。
全く違う生き方しているじゃないかって?
、、、ばーかばーか、ふんだ、おとといきやがれってんだ。
そうはいっても思い通りにならないのがまた人生なのだよ。
ただ、それでもファースト・プライオリティを意識しておく、というのは有益。
いや本当に。

長くなったので、今回はここまで。
ではまた。




横浜かな。

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2026/02/15 19:58
休暇中。
鳥取駅スタバにて。



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Update 2026/02/15
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酒と人とトトロのエネルギー補給上京日記

そろそろ限界である。
そういうわけなので、ちょっと上京してエネルギー補充をすることにした。
今回は趣向を変えて、人と会う、を中心に予定を組んだ。
一人でのんびりも結構好きなんだけど、今回は人と会いたい気分だった。

出発は20日の金曜日。
前日にあらゆる〆切仕事を片付け。
られるわけもなく、朝の飛行機で東京到着後、多少のお仕事。
のち、いざ千葉へ。
本日のメインは、前任校時代の先輩。
この先輩との酒は実に楽しい。
数時間酒を飲みながらひたすらゲラゲラ笑ってお開き。
この先輩は極めてほめ上手な人で、大いにほめてもらっていい気分でご帰還。
大いに酔っ払い。

21日土曜日。
我が愚弟を伊豆より呼び出す。
飯を食い、茶をしばく。
特に何をするでもなくダラダラ過ごす。
これを人と会ったというのか、というくらい、何もしなかった。
夕方で終わり、東京の北の方へ向かう。
次は、担任していた回の卒業生と酒。
なんでも、いい日本酒barがあるからとのことで、連れていってもらった。
これが実によかった。
たんまり酒を飲み、卒業生とあれやこれや話、同世代のマスターとビックリマンシールの話で盛り上がり。
絶対またくる、と約束してバイバイ。
大いに酔っ払い。

22日日曜日。
昼までのんびり過ごし、調布へ。
調布市ではこの時期映画祭をやっている。
その一環で、ジブリ作品を1作劇場公開しているという。
今年は「となりのトトロ」。
昨年末にゼミ生(ジブリ好き)がやってきて、トトロの上映があるのを知っているか、という。
シラナイヨ、サッソクヨヤクダヨ。
で、その上映日がこの日。
大スクリーンで見るトトロは実によかった。
小さい画面では見えない細かな描写が見え、普段は聞こえない音が聞こえ。
大満足で、来年も来ることを誓い、次の場所、高田馬場へ。
同世代の元同僚と青森のお店で酒を飲む。
のち、カラオケへ。
同世代友人とのカラオケは実に楽しい。
大いに酔っ払い。

23日月曜日。
今日は小学校の時の友人と会う予定だったが、息子氏の部活が勝ち進み、お流れ。
カフェに行き、本を読んで音楽聞いてぼんやりして今に至る。
大いに酔っ払う、かは決めていない。

なお。
本当は本日帰る予定であったのだが、直前に24日の有給をとった。
よって、帰りは25日。
誰か飲みたい人がいたら声かけていただいて。
声がかからなければ、日高屋で一杯の予定。
大いに酔っ払お。

そんなこんなの、休日日記。
酒カス感のあふれる実に恥の多い、なんの役にも立たない記事でございました。
ではまた。




指定席。

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2026/02/23 20:09
休暇中。
南町田タリーズにて。



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Update 2026/02/23
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肉まんの悲劇

冬、寒い中食べる肉まんは実にうまい。
はふはふ言いながらかぶりつくと心の底から幸せな気分になる。
わっかるかなー。

さて。
ここ数年、冬になると困ることがある。
それは、仕事が大忙しになるということ。
後期は授業の数が多い上、卒業研究指導もあるとくる。
業務量コントロールが難しくなり、朝7時には出勤し、21時台の汽車で帰るという生活が続く。
ここで「困る」と書いたのはこの多忙さのことではない。
食事に、困るのである。
どういうことか。

朝7時に出勤するということは、当然朝5時前後には起きて、身支度・弁当作り・通勤ということになる。
前は、朝ごはんをきちんと作っていたのだが、ちょっとでも多く睡眠をとることを優先して自炊はカットとなった。
朝ごはんは某チェーン店の牛丼ということになった。
お昼は自作弁当。
問題は夜なのである。
なんせ帰りが遅い。
20時の汽車に乗れれば、かろうじて家で自炊飯が可能。
が、21時台となると帰宅は22時をすぎ、それからご飯をとなると寝る時間が遅くなる。
僕の仕事は日中の集中力がものを言うため、睡眠時間はこれ以上削れない。
だとすると、帰りに外食、と言うことになるのだが、やっているお店が某牛丼チェーンくらいしかない。
朝めしが牛丼なので、これはなし。
都会だと、ここで日高屋あたりが登場するのだろうが、いかんせんここは大都会鳥取。
そういうお店のレパートリーはない。
学食という手もあるのだが、思い立った時にはすでに閉じていることがほとんど。
カップ麺は常用すると身体に悪そう。
栄養的にも問題がありそう。
困った、困ったぞ。

で。
思い立った。
肉まん、がいいんじゃないだろうか。
調べてみると、カロリー的にも栄養的にも悪くない。
だいたい、遅い時間にジャンキーな高カロリーはよろしくない。
そこいくと、肉まんはタンパク質が豊富でオイリーさもない。
家路までにかぶりつけば、時短にもなる。
何より、この時期の肉まんは幸せを運んでくる。
これだ!!
間違いないやつだ!!
そんなわけで、夜ご飯の選択肢に肉まんが登場するに至った。

ところが。
その肉まんのやつに、なかなか出会えない。
運が悪いのか何なのか、売り切れに出くわすことがかなり多い。
退勤時点で、肉まんの腹を作り始め、駅のコンビニに滑り込むも、ない。
仕方ないので別のコンビニに行くのだけど、やっぱない。
泣く泣く、代替夜飯焼きそばパンを買ってトボトボ歩くこと数回。
こういうの、僕多いのです。

で。
ついに。
選択肢導入1週間後、とうとう。
肉まんと出会えた。
中華まんのケースに、1つだけ、煌々と白く輝く肉まんがいたのだ。
ビックサイズの豪華なやつ。
わーい。

や:「肉まんください!」
店:「〇〇円になります」
や:(ん??安くないか?)
レシートを見ると謎の値引きの印字がある。
ラッキーと思ったその時だった。
店:「肉まんラスト出ましたー。」
との掛け声とともに、中華まんのケースの電源が落とされメンテナンスが。
そう。
そうなのです。
肉まんはこの時間は追加補充しない。
そして、残っている奴らはこれより前の時間に見切り割引販売をしているというわけ。
この日はたまたま売れ残りが遅くまでいただけで、これまで出会えなかったのは必然だったということがわかったわけでございまして、、、。

そんなわけで、夕飯肉まん化作戦は失敗に終わったよ、というお話。
はぁ、実にくだらない、何の役にも立たない記事。
まあ、たまには許していただいて。

では、また。




松江?いや、津山だ。

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2026/02/15 20:39
休暇中。
鳥取駅スタバにて。



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Update 2026/02/15
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政治と学問の話

何年か前に、政権に意見をいう研究者に対して、なんで日本の政府のすることにいちいち反対するのか、と文句を言っている人を目にしたことがある。
とある与党議員さんが、特定の研究分野に対して、反日的な研究分野に研究費を出すのはどうなのかと発言していたこともある。
日本学術会議という日本の学術の代表的な組織の委員を決める際、学術会議が推薦した新しい委員のうち何人かを政府が任命しなかった、ということもあった。
今回は、政治と学問の対立の「なぜ」を書いてみようと思う。
ついでに、政治と他の力との対立まで話が広げてみたい。

まず。
政治と学問は、対立するものである。
これは、両者の目指す目的が異なるので、当たり前のこと。
政治は、「社会をこうしたい」という目的があって、さまざまな様々な力を行使していく。
「社会をこうしたい」の源泉としては、その社会・文化の価値観があったり、宗教があったり、社会の対立や主導権争いがあったり、民衆や権力者の感情があったり。
こういう様々な背景の中から、「社会をこうしたい」という方向性が生まれ、時の政治権力があらゆる力を使ってこれを成し遂げようとする。
ポイントは、理性や事実だけでなく、主観や直感、感情などをごちゃまぜにした何かが、政治の源泉であること。

一方で。
学問分野の目的は、学術・研究の方法を用いて、もっともらしい事実を見つけては積み上げていくことにある。
知識を作っていく作業、と言い換えてもいい。
そのために、かなり専門的なトレーニングを積んで、コツコツと小さな知識を積み上げていく。
もちろん、積み上げたものは間違っている可能性があり、分野内の構成メンバーが議論や批判、再現性の検証を行いながら、ちょっとずつ真実っぽい知識を作り上げる。
長い間の積み重ねで、正しい、とされていたことが、全く新しい視点や証拠でガラガラと崩れることすらある。
この辺りは、別シリーズにも書いているので、よろしければ読んでいただいて。

さて。
この、政治と学問の目的の違いを前提すると、対立は必然的に生じる。
政治が「社会をこうしたい」と力を行使する際、それが学問的な事実に反する場合なんかはわかりやすい。
社会問題を考える際、事実認定が学問的な理解と異なる場合なんかもそうか。
そもそも、政治権力とその背景にある力の源泉(例えば、政治権力の支持者)は、学術的なトレーニングを受けていない。
当然、素朴で直感的な理解で問題を認識し、改善しようと力を行使することはありうる。
学問的な理解とは異なることをわかりつつ、政治的な目的を達成するために権力を行使することもある。
こういう時に、政治と学問が対立することになる。

対立しやすい分野、というのもある。
例えば、憲法学。
憲法は政治の行使できる力を規定していたり、できないことを規定したりしている。
政治権力にとっては、憲法さえなければこいつもできるのに、ということはよく起こる。
そこで、解釈でこれを「いいや、これはできるんだ」と言い張ることも出てくる。
それが、憲法学における学術的理解や解釈と大きく異なれば、憲法学者が政府に対して異を唱えるというが起こる。
憲法という法の性質上、対立しやすい。
これが顕在化したのが、2015年の集団的自衛権の安保法制の時で、政権与党側が用意した参考人憲法学者すら、国会で憲法違反の意見を述べた。
学問的には間違っていることを、政治権力がやりたくなる、というのはあること、というわかりやすい例。

これは歴史学なんかもそうで、歴史学の緻密な研究の末に作り上げられた学術的な理解に、政治家が素人的な素朴な知識を披露したり、その知識をもって歴史学のこの研究者は反日だ、なんてことを言い出す、なんてことが起こりやすい。
僕の研究分野である、脳機能や基礎心理学は、たまたまそういうのが起こりづらいが、それでも学術的にとっくに否定されている「脳科学的事実」をもとに誤った政策が進められそうな時は、反対意見を表明せざるを得ない。
もう1つの専門である、障害児教育分野にいたっては、いつ対立が起きてもおかしくない分野である。
このことは、同じ学問の世界でも、理系の研究者にはわかりづらいらしいが、考えてもみてほしい。
医学・生物学の知識積み上げを完全に無視して、ワクチンは効かない、とか政治権力が言い出したら、医学生物学界隈の研究者はその政治権力に反対意見を表明するのではないだろうか。
工学分野で、それは危険でしょ、ってわかっていることを政府が進めようとしたら、やはりそれはおかしいと意見を表明すると思う。
このように、学問と政治の対立、というものは生じやすい。

ただ。
このような政治権力との対立は、別に学問に限ったことではない。
マスコミは事実をみんなに知らせるのが仕事なので、対立しやすい。
権力が分立している司法や独立機関とも対立は起こりやすい。
アメリカのトランプ政権なんか見ているととてもわかりやすく、しょっちゅう別の立場の何かと対立している。
ここ最近だと、独立しているはずのFRB中央銀行的な制度)の議長と対立の末、圧力をかけ、ついに刑事捜査の対象にしてしまった。
これも、政治権力がやりたいこと(FRBの例だと、金利を下げたい)と独立機関の目的(FRBの例だと、通貨と物価の安定)の対立の構図。

では。
こういう対立をどう評価したらいいのか。
これは、僕は餅は餅屋を基本に評価したらいいと思っている。
事実に迫るのであれば、学問の世界の専門家の言うことには一定の正しさがある。
独立性が規定された組織が政治権力に対立するこというのであれば、その組織が目指す目的に照らして主張は最善のことを言っているはず。
そう評価すると大きくは間違わない。
政治は権力を行使して社会を良くする・変えるという意味では、価値判断を含むので「誰か」の主観に引きづられがち。
政治というのは守備範囲もやたら広いので、1つ1つの事実認定は甘くなる傾向がある。
その結果、間違うというのは往々にしてある。
他の何かと対立している場合は、「政治の間違い」に気づくチャンスになると思って、対立している相手の主張を評価してみるのがいいと思っている。
政治権力と対立している何かに反射的に「反日」なんてレッテルを貼って、政治権力と一緒になって敵視するのは、あまり賢明じゃない。
政治家本人でこれをやっている人がいるのだとすれば、それは民主主義国家の政治家としては政治家の資質に欠けるとも思っている。

ずいぶん長くなった。
今回はこの辺で。
また。




倉敷かな。

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2026/01/25 19:36
仕事が終わって。
鳥取駅南モスカフェにて。



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Update 2026/01/25
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衆議院選挙2026雑観

今回の選挙は色々と思うところがある。
よって、ちょいと情勢分析でもして、書いてみようかなという気になった。
何が争点で、どう見たらいいのか、考えてみようと思う。
ずーっと昔に書いた選挙の思考の一事例の亜種と思っていただけたら。
政治的信条などのスタンスは、上記のリンクの最初に書いてあるので参考にしていただいて。
まあ、簡単に書くと、無党派で自由と民主主義の理念が好き、戦争は嫌い。
なお、なんの専門性もない一人の主権者としての個人的な考えであることは言うまでもない。

なんのための解散か

今回の解散はちょっと不思議である。

我が国の仕組みとしては議院内閣制をとっている。
議会が内閣を信任して、その上で内閣がその職責を果たす制度と認識をしている。
現在の内閣も信任の状態は続いており、特に問題は生じていない。
国民が選んだ議会構成員を内閣が解散して信を問うというのが解散という行為だと考えると、解散にはそれなりの理由が必要なはず。
議会から不信任を突きつけられた、とか、内閣が通したい重要法案が議会で否決された、とかそういった類のもの。
任期満了が近いので、いいタイミングでやって国政に穴をあけないようにしようというのも理由としてはわかる。

今回はそういう理由が全くない。
高市さんが演説で言っているのは、高市さんが首相でいいのか否か、連立の枠組みが変わったからこれでいいのか、という理由なのだけど、議会が信任している時点で解散までして問うほどの理由になるとは思えない。
そもそも、前回の衆議院選挙が2024年10月なので1年半もたっていない。
選挙ごとに800億円強の費用がかかるそうで、そう軽々しく頻繁にやっていただいては困る。
さらに、このタイミングでの解散は、来年度予算成立の年度内成立が危うくなる。
また、気候が厳しく選挙の実施自体の負担が大きい時期でもある。
今回は予算審議のスケジュールを見据えてか、選挙期間が異様に短く、国民が考える時間もあまり与えられていない。

そんな中、わざわざ解散して選挙をやるに足る理由が僕にはわからない。
期待で上がっている高い内閣支持率で追い風のうちに選挙をやって議席を増やそう、という理由ならまあわかるが、国民の側にどんなメリットがあるのかというと全然わからない。

争点は何か

では。
今回の選挙の争点は何か。
高市さんが首相でいいか否か、連立の枠組みが新しいものでいいか否か、を一応争点として掲げてはいる。
が、これは争点になり得ない。
なぜなら、そもそもその点で与野党間に争いがないし、世論的にもなんの論争も起きていないから。
選挙で自民党が数取れず、公明党が出て行ったので、現有勢力の中から新たな連立先が出てくるのは当たり前だし、連立先が維新ということで想定の範囲。
この点については、自民・維新双方の支持者から、特に問題視する声は上がっていなかったはず。
だから、争点ではない。

高市さんが首相であるということの是非はどうだろうか。
これについても、支持率がかなり高く、議会から不信任決議が提出されたこともないので、なんの争いもない。
選挙がなければ、今頃野党も首相と認めた上で国会審議をやっていたはずで、その点には争いはなかったはず。
首相になってから半年しか経っておらず、実績評価という意味での是非も難しい。
よって、こいつも争点にはならない。

消費税減税については野党は反対しないだろうからやろうと思えばできる。
責任ある積極財政についても、積極財政の部分はやろうと思えばできるだろうし、できない時に初めて解散するのがスジだと思う。
よって、これらも争点にはならない。

では、何が争点か。
これは、この解散が何を目指しているのか、というのがキーとなる。
この解散で高市さんが目指しているのは、議席の上積みである。
勝てると踏んだから、解散した。
現有勢力図が変わる見込みがないのに具体的な争点が全くない状態で解散するということは考えられない。
つぎに。
勝ったら何ができるのか。
今のように、野党との議論で意見調整をしながら政策を進める、ということをしなくてよくなる。
しかも今回は国民の側に「これをしたい」というのを示していない。
これは、何をやるかは教えないけど白紙委任の状態で数の力をくれということ。
前首相の石破さんが少数与党のトップとして議論と意見調整に腐心してきた、ああいうのをやめたい。
僕にはそう受け取れる。
高市さんの選挙演説をよく聞くと、この点がにじんでいる。

もう1つ争点がある。
それは、統一教会の問題、裏金問題の幕引き。
これについては、自民党候補者の顔ぶれを見ればわかる。
統一教会問題や裏金問題に関連した候補者がかなりたくさんいる。
前回公認もらえなかった人、落選した人たちも、復活してかなりの数が公認候補になっている。
この候補者で選挙を戦って勝てば、国民はこれらの問題についてはもう許した、ということになると思う。
だって、そういう人たちだとわかった上で選挙で選ばれている。
スジは通っている
少なくとも、そういう人たちがたくさん議員さんになれば、この問題は力で抑えられたまま、幕引きになるだろう。
今回の自民党の公認候補リスト、結構わかりやすい政治的メッセージである。

今回の選挙は、以上の隠れた争点があって、それを自らへの期待という実績によらない、ふわっときた「人気」によってなんとかしようとしてる、と捉えている。

最後に

と、まあ、こんな感じで今回の選挙を見ている。
あ、あともう1つ。
この選挙騒動を通じて高市さんという人を国民に対してはえらく不誠実な人だな、と思うようになった。
今回の選挙、全く国民のことを考えているように思えない。
考えているのであれば、さっさと予算審議をして予算を通じて国民のためになるようなことをすればいい。
選挙だってそうで、衆議委員議委員の残り任期の長さ、予算審議の大事な時期、気候的・行事的に選挙に不向きな時期、選挙期間の極端な短さ、どれをとっても国民のためになることがない。
選挙をしないとできない政策が具体的になんなのかを語らないし、党首討論のような議論の場にも出てこない。
民主主義という価値観が好きな人間としては、こういうの、よくないなぁ、と思いながら見ている。
しかし、今回このやり方で与党が選挙で勝ってしまうと、このやり方はこれからの選挙戦略のスタンダードになっていく思う。


長くなったので、今回はこの辺で。
残りの選挙期間、もう少しいろいろな情報を入れて考えてみようと思う。
ではまた。




たぶん、二子玉川


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2026/02/02 23:35
遅くなってしまった。
自宅にて。



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Update 2026/02/02
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音楽のエッセイ

音楽をいつか研究したいと思っている。
が、壮大すぎてどこから手をつけていいかがわからない。
文献を追うところまではやっているのだが、具体的に問いを立てるというところまでいきつかない。
僕の専門だと、心理学か脳機能系の問いということになるのだが、おもしろさを感じているのはそういう分野の問いではない気がしている。
たぶん、「音楽とは何か」について、理論・理屈なりを考えたいのだと思うのだが、どうやってそれをやったらいいのか、見当もつかない。

だいたい、存在自体が不思議である。
言語は意思伝達機能、それもかなり明確に他個体に意味を伝える機能を持つ。
音を介して他個体に何かを伝える、というのは、何も人間の言語に限ったことではない。
例えば、鳥はさえずりを使って周りに危険を知らせたり、ナワバリを主張したり、メスへのアピールを行ったりする。
サルでも鳴き声を使って群れの他個体と情報をやり取りする。
人間の言語は、これが高度になったものと考えられる。
口と喉を使って音を作り出し、これを組み合わせることで語句とし、文法に沿って並べることで、かなり明確な意味が伝わる。
その言語圏でちびっ子時代を過ごすことで、自然と聞き分け、文法獲得および言語生成運動が可能になる。

さらに。
言語はあまりに複雑で洗練された体系である。
そのため、人間においてその機能は意思伝達にとどまらない。
自分の中で思考に使ったり知識体系の整理にも使ったりする。
文字言語の発明により、自己の内部にいた知識体系を他者と共有できるようになった。
人間の高度な知的能力と社会能力の両方を可能にしているのは言語に負う部分が大きい。

一方で。
音楽はどうだろうか。
一見、言語の延長のような気がするが、おそらく違う。
そもそも機能が全く違う。
言語は、意味をかなり明確に伝えるが、音楽はそういうものは伝えない。
言語を失った人が音楽は失わない、ということはあるし、その逆もまた存在する。
言語単独だと流ちょうに喋れない人が、音楽に載せると流ちょうに歌える、ということも現象として知られている。
この辺りから考えても、言語と音楽は違うものと考えた方がいい。

音楽の機能は何なのだろうか。
直接的には、聞き手の感情に何らかの作用をする機能がある、というのに異論がある人は少ないのではないだろうか。
現代になって、音楽を時間と空間を超えて、いつでも楽しめるようになった。
それゆえに、忘れがちだが、音を記録することができるようになったのは人類史で考えてごく最近のこと。
デジタル音源を駆使して自在に聴くことができるようになったのはここ数十年の話。
それまでは、音楽とは奏でる者と聴く者が同じ時間・同じ空間にいなければならなかった。
本質として、個人内で完結して一人だけで楽しむものではない。
このように、音楽も言語同様、奏でる側から聴く側へ、何かを伝えていると言えないだろうか。
伝えているのはおそらく感情である。
音楽は一方向伝達ではなく、演奏者と聴衆の双方向性を持つ。
聴衆は音楽を聴いて、自らも手を打つ歌うなどで音楽を発して、演奏者に返す。
それが演奏者に伝わり、演奏者の感情もまた高まる。
聴衆が演奏者に返す反応は音楽だけではなくて、歓声であることも多いが、運んでいるのはやはり感情である。
以上のことから、音楽の機能、その本質は、感情の相互伝達ではないかと考えている。

おもしろいのは、同じ伝達機能を持つ言語との違いである。
言語は、意味が明確なせいか、他者との衝突が起こる。
時に、言語で相手を批判しあい、攻撃しあい、傷つけあう。
そういう使われ方をすることは多々ある。
音楽にはそういうのがない。
音楽の好み、合う合わないというのはある。
が、相手をやっつけるのに使うということはできない。
音楽の好みについても、ある時好みでなかったとしても、聴いているうちにだんだん合うようになってくることもよくある。
ある場に音楽があると、その音楽の持つ感情を皆で共有し、新たに生まれる感情をさらに伝達・共有し増幅する。
そうやって、場全体で何らかの感情を共有し、共感する。
その場にいる人間の感情をある点に向けて増幅を伴いながら方向づける。
これを書きながら思ったのだが、泣き声や笑い声、涙や表情、と本質としては同じものを持っているよう。

で。
言語との違いをもう一つ。
それは、言語よりも文化の壁を越えるのが容易であること。
言語は小さい時に経験して習得した母国語が自分の言語の基本になる。
そして、母国語でない言語との間には高い壁がある。
発音・文法・語いなど、すべてでその言語特有のルールがあり、他の言語とは共有できるものが少ない。
言語の意思伝達機能として機能するためには、母国語として身につけているか、第二言語として大変な努力をして身につけるかする必要がある。
異なる言語間には大きな壁がある。
ひるがえって、音楽はどうか。
これは、かなり簡単に国の壁を越える。
言語が異なっていても、何を歌っているかわからないが、音楽から何かを感じることができるし、感情を共有することができる。
文化が異なっていても同様。
おそらく、音楽の基本構造は文化に関わらず似ていて、それは音楽が感情と強く結びついて生み出されるという本質を持つからではあるまいか。
例えば、感情がたかぶっている時は、発する音は大きく高く速くなりがち。
音というのは、身体を動かして発するわけだから、感情に支配されて身体の動きが生み出されれば、感情は直接音にのり、作り出す音楽を特徴づける。
当たり前と言えば当たり前。
感情による身体的な表出の特徴は文化的というよりは生物的な反応な可能性が高い。
そう考えると、文化の壁を越えるのがたやすい、というのは理にかなう。

こんなふうに考えていくと、音楽の持つ本質的な機能は感情状態の伝達と相互調整、共有あたりなんじゃないか、というところに行き着く。
存外、ミュージシャンが時々口にする、Love & Peaceなんてフレーズは、音楽の本質なのかもね、と思ったり。

音楽を使うのは人間だけ、というのも書きたかったのだけど、もうすでにムダに長くなっているので、コイツについてはまたいつか。
ではまた。




にゃーお。

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2025/11/08 19:16
休暇中。
鳥取えきなんスタバにて。



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突貫入院日記

夏前に職場の健康診断があった。
すっかり忘れた頃、検査結果が返ってきた。
結果はほとんどの項目で健康そのものだったのだが、1箇所引っかかった。
胸部X線、要精密検査。
肺がん精密検査が必要だという。
40代ともなるとまあ、あること。

実は、肺がん系要検査は過去にも引っかかったことがある。
前回は、精密検査でCTをとって、その時には影が消えていたので、なんかの炎症だったのかねぇ、で終わった。
で、今回も夏の終わりに時間を見つけて大きな病院に行ってきた。
CTをとって呼吸器内科の先生の診察。
僕より若いイケメンな爽やか先生だった。

先:「ん〜、、、」
や:「影ありますか。」
先:「ここ、ここにすりガラス状陰影があるでしょう。」
や:「はい。」
先:「タバコも吸わない。自覚症状もないんですよね。」
や:「ん〜、、、、ちょっと経過観察しましょうか。3ヶ月後またCTとります」
と、いうわけで、肺(腺)がん疑いは晴れなかったわけです。
この陰影が次回大きくなっていると、おそらく生検(患部から細胞とってくる)だろうなぁ、痛そうだなぁ、いやだなぁ、などと思いながら帰った。

そして、大忙しな冬。
予定帳には完全に忘れていた、病院検査の文字。
そうだったそうだった、と病院に出かけた。
CTをとって、先生の診察室に入ると、CTの画像が2つ並んでいた。
一方が前回の、もう一方が今回の。
や:「消えてますね」
先:「消えてますね、すっかり無くなってます。」
や:「よかった」
先:「ですがですね。」
と、イケメン先生が今回の画像を別の断面に切り替えると、別の断面には前回のすりガラス状陰影とは全く違う、素人目にもあきらかにおかしい部分がぽっかりと。
や:「何ですか、これ。」
先:「感染症が可能性が高いとは思うんですが、自覚症状ないんですよねぇ?」
や:「ピンピンしています!」
先:「入院して、検査しておきますか。」
や:「え」

早い方がいいとのことで、その週、午前中に仕事して、入院して検査、次の日の朝に退院という運びになった。
どんな検査をやるのかといえば、胃カメラの肺バージョン。
肺の奥の方にカメラを入れて、患部を見ながら、水を注入・回収、それを検査するという。
場合によっては、患部の細胞を採ってくるという。
聞くだけで実にやりたくない。
絶対苦しいじゃん。

で。
その日がやってきた。
行くと、処置室に連れて行かれ、点滴+肩に筋肉注射。
点滴しているので、車椅子で検査室に連れて行ってくれるという。
人生初(たぶん)の車椅子移動。
本人はいたって元気なので、他者に車椅子を押してもらって移動すること自体がすでにおもしろい。
なんというか、そこはかとないアトラクション感。
ジェットコースターで上に連れて行かれる時のワクワク感がちょっと近いか。
ちょっとテンション高めで検査室へ到着。
爽やか先生が待機していて、これから麻酔をするという。
まずこれがいやなポイント1。
喉に麻酔とか、痛いじゃん。
歯医者で歯ぐきに麻酔注射だって結構痛いもん。
痛いの嫌い。

が。
そういうのではなかった。
注射ではなく、吸う、というタイプの麻酔だった。
麻酔薬を霧吹きのような機械でミスト状にしたものを吸う。
吸ってー、吐いてー、の先生の声に合わせて麻酔薬を吸い込んでいく。
喉は粘膜で出来上がっているので、おもしろいものでわりとすぐ効きはじめる。
まずは喉の入り口あたりの感覚が消える。
続いて、声帯が動かせなくなる。
なぜわかるのかというと、声帯を動かさないと声がささやきのひそひそ声になる。
極めつけは、気管や肺の奥の方も不思議な感じになる。
おそらくその辺りにも麻酔薬が届いて、そのあたりの感覚系の方々がお休みになられたのだと思う。

麻酔薬の吸引が全部終わると、車椅子から立たされて、検査台に寝転がる。
ちょうど、生理病理系の授業が呼吸器に入ったあたりだったので、自分の肺の映像を一緒に見ようと楽しみにしていたのだが、残念ながら寝転がった位置からはモニタは見えない。
その上、目の部分に目隠しの紙を被せられ。
残念!
ただ、モニタの位置が見えるところで、目隠しがなければ自分の肺の映像を楽しめたか、というとおそらくそうではない。
でしょう、苦しいもんね、と思われた方。
それは違う。
この後、口から喉にファイバーを入れることになるのだが、入れた直後くらいからの記憶が、ない。
気づいたら、入院病棟のベットの上に寝ていた。
後から診療報酬明細書を見たところ、せん妄云々というのがあったので、意識がおかしくなったのだと思う。

その後、2時間ほど安静にして、元気満々で病院食を食し、その後も徹底的に寝まくり。
14時間は寝たと思う。
ちょうど疲れがたまっていたのでとてもよい休養になった。
朝、楽しみにしていた病院食を食べ、元気いっぱいでX検査を受け、特に問題がなかったので退院許可。
実に快適な病院生活を送った。
病院の食事、オレの日常の食事より豪華でおいしかった。

その後、タクシーで大学に向かい、何事もなかったように午前中の授業から復帰、いつもの時間に帰宅となった。
誰も入院帰りって気づかなかったと思う。
そんなわけで、非日常体験をしたよーって話。
病院の食事、本当においしかった。
よく寝れて快適でとてもよかった。

では、今回はこの辺で。
また。

※なお、この記事がここに上がっているということは、検査の結果なんの問題もなかったということでございます。
大病闘病日記の序ということもあり得るが、その場合は治った後か、死んだ後に公開される予定ございます。




鳥取空港の夕暮れ。

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2025/12/30 18:49
休暇中。
横浜市内にて。



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Update 2025/12/30
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