週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

むちゃいうな、若者

かつて若者だった自分への説教も兼ねて、今回のこのネタ。
研究業界は競争が激しい。
お仕事を得るのも大変で、常に研究業績を評価されて、ダメなら業界からバイバイされる。
世代間格差も激しい。
その世代によって、就職のしやすさ、評価の厳しさが違う。
そして、年々厳しさが増している(最近は若干緩和したかも)。
このせいか、僕らの業界は若手のシニアに対する視線がきびしい。
仕事できないなら、さっさと若手にポスト譲って引退しろよ、的な言葉はわりと聞く。

こういう若手のシニアに対する姿勢、うちの業界特有かと思えば、どうもそうではないらしいことに最近気づいた。
シニアのせいで若手の活躍の場がない。
シニアのせいで若手世代が損をしている。
老害なのでいなくなってほしい。
そろそろ、シニアに足を突っ込み始めた人間としては、ドキドキするお言葉。

気持ちはまあ、わからないではない。
ただ、それと同時に、以下の声も聞く。
シニアには仕事を引退してほしい。
でも、引退シニアを金銭的に支えるのは嫌だ。
定年延長していつまでも居座られるのは嫌だけど、シニアを支える社会保険料は払いたくない。
などなどが、この構図のよく聞くもの。
ここまでくると、大変な疑問が浮かぶ。
え、じゃあ生活は??どうやって生きるの??と。
これは、若いころには考えもしなかった疑問で、自分がある程度歳をとって、シニアの生活に対する解像度が上がったせいだと思う。

もうお気づきの方も多いと思う。
超高齢化時代、この2つの主張を両立させることはできない。
社会保険料を払いたくないのであれば、シニアには長く働いてもらわなくてはいけない。
逆にシニアに早く引退してほしいのであれば、現役世代は彼らを支えるコストを払わねばならない。
そうでないと、シニアは生活できないし、生きていくことができない。

いや、どちらも嫌だ。
さっさと仕事を引退してもらって、社会保険料もしぼろう。
これを実行するとどうなるか。
結局のところ、現役世代に返ってくることになる。
シニアたる親の面倒を見るのは現役世代の子どもの役目になる。
引退して無収入になった親の金銭的なサポートは間違いなく子どもの役割になる。
結局、社会保険料を絞った分以上の負担がやってくる。
さらに、子どもがいないシニアについては、公的な扶助の対象になる。
我が国では、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するゆえ。
社会保険料の部分が、税金に置き換わるだけで、問題は全く解決しない。

結局のところ。
シニアには働けるうちは長く働いてもらって、その分サポートの負担を減らすしかない。
というのが、僕の行き着いた今のところの考え。

なお、研究業界に限って言ってもやはり同じ。
シニア全般なのか、研究できなくなった人なのか、対象はさておき、引退して去れというのは業界として社会に対して無責任だと思っている。
去った人たちの仕事はどうするのか。
稼げなくなった場合の、その人たちのサポートは誰がするのか。
最終的には、社会がなんらかの形で負担することになる。

こんなことを書くと、雇用が不安定な若手の反感を買うかもしれない。
が、そのために若者我慢しろとは思っていない。
かつてひどい目にあった若者の一人として、若手の雇用も安定的にすべきだし待遇も良くすべきだとも思っている。
この2つはバランスをとりながら両立させる必要がある。
これについて突っ込んだ話を書こうと思わないではないが、長くなるのでそのうち気が向いたら別に書く。

では今回はこの辺で。
また。




たぶん皇居お堀周辺のどこかではないだろうか。

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2026/06/28 16:38
休暇中。
溝の口のドトールにて。



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Update 2026/06/28
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歳をとること、健康のこと

オレも歳をとったなぁ、と思うことには、最近健康のことを気にするようになった。
もともと、そういうの、あまり気にするタイプではなかった。
好きなものを好きなタイミングで好きなだけ食べればいい。
栄養バランス、運動・生活習慣なんのその。
歳をとっても食の好みはわりと変わらない。
つまり、脂っこいものは食うし、ラーメンはじゃんじゃん食べる。

そうこうしているうちに、40代も中盤となった。
聞いてはいたんです。
聞いてはいたんですが、実際に経験することになるわけです。

まず、体重が簡単に落ちなくなる。
気を抜くと肥える。
肥えてもわりと自制すると元に戻すのは簡単だったのが若い頃。
残念ながら、最近はそう簡単にいかない。
前の2倍くらいの努力をもって体重を落とす必要がある。
結構大変。

次に。
疲労回復力が弱る。
疲れがなかなか抜けない。
まあこれは、忙しさが年々ひどくなっているせいなのか、回復力のせいなのか、完全に切り分けができない。
できないのだが、このくらいの疲れならこのくらいの休養で抜ける、という経験則が役に立たないので、やはり回復力の劣化は否めない。
うむむ。

そしてそして。
健康診断の値が無傷ではなくなる。
なんだかんだ、引っかかるように。
間近だと、胸部レントゲンで引っかかって精密検査行きとなった。
同世代の同僚・友人の話を聞いても、この種の話題は尽きない。

こういうのが続くと。
否応なく、健康に意識が向く。
長生きしたいとかそういう意識ではない。
独身ゆえ、そういう意識は全くない。
が、生きるのであれば不具合はしんどい。
不具合をなくして生きていきたい、というところから、健康志向になるわけ。
若い頃、オレはそんなの気にせず太く短く生きるなどと放言していた己の不明を恥じつつ、実に平均的な中年意識に。

ただ。
オレの場合、元々の健康意識が極めて低い。
少々の健康意識が高まったとて、世の中年世代健康志向の人がやっていることから考えると全然大したことがない。
3食同じ時間にちゃんと食う、タンパク質は意識的にとる、体重が増えたら少しだけ食を気をつけ運動に心がける、生活リズムを大切にする、程度。
なんだかんだで、ラーメンは大盛りで食うし、同じメニューは食べ続けるし、酒も飲む。
書いている限り、なんだか健康志向では全くないような気がしてきた。
してきたのだが、これが10年後どうなっているか、ちいとばかし気になるところ。
やっぱ、食の好みがさっぱりしたものに変化して、酒をやめるとか、そういうことを言い出すのだろうか。
いやー、ないな。
酒も飲んでそうだし、ラーメンも大盛りをやめるくらいで相変わらず食べてそう。
まあ、答え合わせは10年後、この記事を引用しつつやることとしよう。

ありゃー、なんとも平坦でおもしろくも何ともない記事が出来上がってしまった。
まあこんな回もある。
ではまた。




それでもやめられない、ラーメン。
これは大好きな羽田のラーメンショップの大チャーシューかな。

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2026/07/05 19:59
日曜日の夜に。
鳥駅スタバにて。



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Update 2026/07/05
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役に立たないから学ばない、の間違い(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 20)

三角関数なんて将来なんの役にも立たない。
英語を使う職業にはつかないからいらない。
歴史?学ぶ意味がわからない。
だから、学ばない。
多く見られる言説である。
かくゆう、若き日の自分も犯した考え方。
というわけで、今回はこのネタ。

将来役に立つことだけ学ぶことは可能か

無理である。
なぜならば、将来を完全に予想することは不可能だから。
将来に自分が何をしているのかがそもそもわからない。
ある程度の方向くらいは自己決定できるかもしれない。
ただし、将来に向かって思った通りに進むことなんてほとんどない。
そもそも、若いうちは生きている時間が少ないため、知っていることも少ない。
新しいことを知るにつけ、自分の興味や将来のやりたいことなんて簡単に変わる。
いや、おれはブレない。
将来は絶対にこうなる!
という人であっても、挫折はする。
こちらが強い想いを持っていたとしても、自分以外の要因で自分の将来は変わる。
そして、将来が変わるたびに、「将来役に立つこと」も変わる。
将来役に立つことだけ学ぶ、というのはかなり難しい。

では、仮に将来が完全に思い通りになったとしよう。
その場合であれば、「将来役に立つこと」だけ学ぶことはできるのか。
これもまた難しい。
なぜなら、実際にその将来を経験しているわけでも、将来の職業に必要な知識も持ち合わせているわけでもないから。
将来何が必要で、何が役に立つのか、という知識自体が間違っていることが多い。
例えば、僕の専門分野、心理学で考えてみる。
この分野、生物学や数学の基礎知識が極めて重要になるのだが、果たしてそのことをちゃんと認識している高校生や高校の先生はどの程度いるだろうか。
英語の能力もかなり大切。
これが中学生やその先生となると、全く知らないことの方が多いと思う。
おそらく、これを読んでいる心理学以外の人は、へーそうなんだ、と思われた方が多いはず。
つまり、将来の方向性が変わらなかったとしても「将来役に立つこと」だけ学ぶことは難しい。

いや待て。
そのあたりはちゃんと調べて、効率よく「将来役に立つこと」だけを学ぶことはできるんじゃないか。
こんな声も聞こえてきそう。
いいや、しかし。
それも無理であろう。
と、いうのも、時代ともに必要な知識・役にたつ知識は変わるから。
将来働いているであろう分野も日々進歩している。
社会全体で、技術革新や知識・理念の進歩もある。
すると、10年後20年後、必要とされる知識・技能は今とは異なる可能性が高い。
学んだものの、遠い将来には直接的には役にたたず、代わりに役に立たないと切り捨てた何かが役に立つようになっているかもしれない。

神様でもない限り、将来のことはわからない。
だから、将来に何が役に立つかもまた、我々は知り得ない。

役に立たない知識・技能の間違い

そもそも、役に立つ知識・技能を身につける、という発想が間違い。
もちろん、分野において必要な知識・技能というのはある。
明らかに必要なものであればそれを学んでおく、ということを否定はしない。
問題は、「役に立たない」と切り捨てた知識・技能は本当に役に立たないのか、ということ。
ある知識を「役に立たない」と主張する人は、そもそもその知識・技能を学んでいない、身につけていないことが多い。
その場合、役に立った経験を持っているはずがない。
「役に立たない」とする知識・技能の本質がわかっているとも思い難い。
つまり、「役に立たない」という主張そのものが間違っている、ということが多い。
例えば、三角関数がどういうところで役に立つのかは、学んだ上で、必要なシーンがやってこないとわからない。
僕も、中高生の頃は三角関数がなんの役に立つのかはわかっていなかったが、生理学で聴覚系の機能を学ぶ上で必須の知識であることに気づいた。
他にも、生理学系の理屈の部分や、心理統計の基礎で頻出した。
学んでいたから、そこに対する抵抗があまりなく、先に進むことができた。
そういう例は、枚挙にいとまがない。

だいたい「役に立たない」知識・技能というのは存在するのだろうか。
僕は、「役に立たない」知識・技能、という捉え方自体が間違っていると思っている。
あらかじめ、役に立つ立たないが決められるというのがおかしい。
おそらく、これは逆で、自分の持っている知識・技能を役に立たせて生きていく、というのが正しい。
またまた、心理学で例を考えてみる。
数学の基礎をしっかりと勉強していると、統計的な記述に苦がないため、数値を扱った研究を学んだり研究手法を選択したりすることができるようになる。
数学を早い段階で切り捨ててもう全くダメな場合、相当な苦労をするか、なんやかんや理由をつけて統計を避けたり数値を扱った研究全般をパスするという選択をすることになる。
英語ができる場合は、英語の教科書や論文を読んで入力情報を増やすことができる。
学びの幅も研究の幅も広がる。
英語で論文を書くということもできるかもしれない。
英語ができることで、こういう選択をすることができる。
逆に、英語を切り捨てていた場合、英語を使わなければ進めない研究分野は選ぶことが困難になる。
生物学の知識を持っていると、心に対する見方の深さが増す。
心と脳や身体はかなり大きく関係しているのだけど、両方の知識があってそのことに初めて気づくことができる。
これらの例のポイントは、数学にしても英語にしても生物学にしても、学んでいる最中にはどう役に立つかわからずに学んでいるところ。
そして、身につけた知識・技能を道具として使えることで選択肢が増え、その選択肢を選ぶことで、結果として役に立っている。
身についていないがゆえにある知識・技能を使えない場合、それを使う状況が選択されず、結果として役に立たない。
わかるだろうか。
逆なのである。

身につけた知識・技能というのは、生きていく上で選択できる武器のようなもの。
どこで役に立つかはよくわからないが、持っている武器が多ければ多いほど、どこかのシーンで役に立つ可能性がある。
そして、武器の幅が広ければ広いほど、思いがけない事態に対応できる。
もちろん身につけた武器の中には使わないものもあろう。
ただ、それは結果論であって、やってくる事態によっては使う可能性があったし、今後使う可能性はまだ残っている。
そもそも、役に立っているのか認識することすら困難な場合もあり、知らず知らずのうちに役に立っていた可能性だってある。

「役に立つこと」だけを効率よく学ぶ、というのは、一見スマートに見える。
ただ、不測の事態に極めて弱く、平均的な選択しかできなくなる脆さを持つ。

では、何を学んだらいいのか

これは高校生までと、大学生以降で異なる。
高校生までは、すべての教科について「役に立たない」などと切り捨てず学びたい。
高校生までの教科と内容は、学問の分野、産業界など、幅広い大人たちが、これは必要だよね、と議論の末に優先順位が高いものが並んでいる。
武器としては汎用性が高い。
ここで重要なのは、点数を取ることではない。
苦手でも、一通りやってみる、ということが重要。
全く切り捨てていた場合に比べ、苦手でも一度やってみた場合の方が、いざ必要になった場合の構えや土台が断然違う。

次に大学生以降、社会人。
これは決まった方法がない。
僕の場合は、自分が必要性を感じる分野、興味を持った分野、全く知らない分野、の3つに分けて、それぞれが1:1:1になるように学ぶのがいいと思っている。
必要性を感じる分野は、近いうちに「役に立つ」であろう知識・技能を得ることができる。
興味を持った分野は、ただただ知的好奇心を満たしながら楽しく学びつつ、武器を増やすことができる。
全く知らない分野は、埋もれている前2者のお宝を探す旅。
いかがであろうか。

お、長くなった。
最近長くなりがちでいけねぇや。
というわけで、今回はここまで。
ではまた。




いつぞやの、甲子園


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2026/08/09 20:00
休暇を使って。
鳥駅スタバにて。



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Update 2026/08/09
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合理的配慮と環境整備(特別支援教育教材シリーズ)

特別支援教育の授業やっていて、必ず扱うのが「合理的配慮」という概念。
2024年からは民間事業者にも義務付けられたのだが、まだまだ浸透しているとは言い難い。
それもあって、頼まれれば民間事業者も含めて積極的にしゃべりに行くようにしている。
本記事を読んでご要望がございましたら、コンタクトしていただいて。

冒頭から早速横道にそれた。
この、合理的配慮。
学生に教えていても、なかなか理解が難しいよう。
なので、今回は受講生を想定して、この概念について説明して行こうと思う。
よくある質問や、理念や思想的経緯なども書く。
特別支援教育との関係についても最後の方で。

合理的配慮とは何か

合理的配慮は、我が国では障害のある人に対する差別防止の文脈に位置付けられている。
簡単に言うと、障害があることによって生じる①社会的な壁を、②本人の申し出がある場合③過度の負担が生じない範囲で取り除くことを言う。
障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(障害者差別解消法)において行政機関や事業者(民間企業等)に提供を義務づけており、これをしないと差別と認定され、行政指導の対象になる。
具体的な法律条文はコチラ(7条、8条)

考え方としてはこう。
差別というのは、昔からの考え方では、ある人を他の人と同じように扱わないことを言う。
例えば、特になんの支障もないのにも関わらず障害を理由に施設の利用を断る、というのがこれにあたるか。
もう少しひどいものだと、同じように認められるはずの自由や権利を勝手に制約する、なんていうのもある。
黒人だからバスに乗れない、女性だから選挙権がない、なんていうのもこれ。

この古い差別観には問題があった。
例えば、車椅子の人を考えてみよう。
市役所の構造上、スロープがないような状況だったとする。
この場合、車椅子でない人と同じように扱うと、市役所の窓口に行けないことになる。
そうすると、他の人が当然に持つ、市民としての権利行使ができない。
駅の構造上、車椅子の人が自力で電車に乗れない場合、何もしないと移動の自由が奪われる。
つまり、障害があるという、多数派とは異なる特徴があるのにも関わらず、異なる特徴を多数派と同じように扱うことで、自由と権利が制限されるという問題が生じる。
古い差別観の1番のキモは、差別によって自由や権利が制約されるところにある。
だとするならば、自由や権利が制約されないように、異なる特徴に対しては異なる扱いをする必要があるよね、それをしないと自由や権利が侵害されるから差別になるよね、というのが新しい差別観の考え方。
これに則ると、自由や権利に社会的な壁(社会的障壁)があるのであれば、できる限りでこれを取り除かなければならない、ということになる。
これが合理的配慮の基本的な考え方。
よって、自由や権利を平等に保障する以外の、当事者がただ優遇されるというような、障害のない者との均衡が取れないものは合理的な配慮とはならない。

新しい差別観の根底には、障害の社会モデルの考え方がある。
障害に限らないのだが、この社会の仕組みや制度は、多数派によって作られている。
このため、どうしても多数派に最適化された仕組み・制度となってしまう。
なので、社会の仕組み・制度がマイノリティに合わないから障害などの問題が生じる。
そうなのであれば、社会の仕組み・制度の方が変われば、問題は減るよね、というもの。
詳しくは、「障害とはなにか」を読んでいただけばと。

なお、合理的配慮の考え方・概念は、もともとは宗教マイノリティの問題から出てきたもの。
障害の問題に限らず、あらゆるマイノリティの問題に応用可能である。
が、本稿は障害者の問題に絞って書く。

合理的配慮と環境整備

ここでよくある間違い。
合理的配慮とは、個人の申し出に基づいた、その個人に合わせた配慮のことをいう。
なので、視覚障害者みんなのために点字ブロックを設置しておくとか、車椅子の人のためにあらかじめスロープやエレベータを設置しておく、というのは合理的配慮には当たらない。
このような、全般的なバリアを減らす、というのはとても大事なものであるが、合理的配慮とは区別され、環境整備という。
学びたての受講生が時々間違うので、注意したい。

合理的配慮に対する誤解:①合理的配慮はわがままか

これは、合理的配慮とは何か、の後半に書いた通り。
この社会が多数派によって多数派に最適化された形で作られている以上、自由や権利を保障する義務は多数派を含めた社会全体にある。
基本的な自由や権利の保障なので、わがままや優遇とは違う。
ネットなどでは、わがままだなんだと当事者を叩いている論調が見られるが、今やそれは差別であることを心したい。
条約でも法律でもそう規定されているし、世界的な潮流を見ても、論理的に思考しても、差別であることは間違いない。
実社会で主張する場合、自分が差別主義者として見られるリスクはちゃんと頭に置いておきたい。
差別はいつでも無知から無邪気に起こる。

合理的配慮に対する誤解:②配慮する人の負担が大変すぎる

ニュースで時々合理的配慮義務違反の事例が扱われる。
例えば、鉄道会社へ無人駅での車椅子介助をお願いして、現場駅員が断ってしまった事例。
明らかな合理的配慮義務違反ということになるのだが、ネット論調を見ていると、駅員さんの負担が大変すぎるので配慮はやりすぎでは、というものをわりと目にする。

これは、配慮を義務付けられている主体に対する誤解がある。
配慮を義務付けられているのは、現場の駅員さんではなく、事業者、つまり会社等の組織全体に課されている。
合理的配慮の要件③である、「過度な負担が生じない」とは、組織全体で見た場合ということ。
末端の駅員さんが少なく彼らだけでは過度な負担であっても、大手鉄道会社全体であれば人数的にもお金的にも合理的配慮をする負担は大したことがないことが多い。
なので、合理的配慮を全社として提供できるような体制を整えて置く必要がある。

冒頭にあげた鉄道会社の車椅子介助の事例では、鉄道事業者は直ちに謝っているので、本社担当部局は問題を理解している。
おそらく、現場職員への研修や情報提供が徹底されていなかったのだろう。
体制があまかったのだとすれば再発防止策が講じられただろうし、現場のミスなら駅長以下本社より怒られたことと思う。

ただ。
この種のニュースが出るたび、当事者に冷淡で配慮する側に同情的なネットの論調を目にすると、まだまだ合理的配慮の概念が一般に行き渡っていないなぁと感じる。

過度の負担とは何か

さて。
よくある誤解から先に書いたが、要件③にある「過度の負担」とは何か、というのが気になることだろう。
受講生からよくされる質問もこれで、具体的な基準はないのか、というものはよく出てくる。

具体的な基準については、定めようがない。
これは、事業規模や財務状況、求められた合理的配慮の内容によって、過度かどうかは個別事例ごとに変わるからである。
例えば、車椅子の人から駅にエレベーターがないから降りれない、配慮してほしいと申し出があった場合。
これが大手鉄道会社であれば、全体の人員に比して配慮はそこまでの負担ではないから、過度な負担とはならない可能性が高い。
ただ、求めたのが地方の小さな私鉄で、人員的にも経営的にもムリな場合は、過度な負担となる可能性がある。
同じことを求めても、両者にとっての負担が大きく異なるのはおわかりいただけることと思う。
このように、一律に「過度な負担」の基準を設けるのは難しい。

ただ、過度な負担を判断する観点はある。
以下がその観点。
・事業への影響の程度
・実現可能性
・費用・負担の程度
・事業規模
・財務状況
これらの観点について個別の状況を考慮に入れて過度な負担かどうかを判定する。

もちろん、合理的配慮を提供する側と求める当事者の側で判断が異なることもあろう。
この場合は、行政へ相談して不当な場合は指導してもらう、場合によっては訴訟に訴える、などをして事例を積み上げていくしかない。
このあたりの事例集については、行政がホームページ上で公表しているので、それらも「過度な負担」を考える参考になる。

本人の申し出がない場合

合理的配慮において忘れてはならないのが、本人の申し出がある場合、という部分。
配慮というのは、先回りしてどんどんやる方がいいように考えがち。
しかし。
それは本人の意思に反しているかもしれない。
配慮なんかなしに、みなと同じに扱ってほしいこともあろう。
先回りして、本人の意思なしに最初から異なる扱いをする、というのは差別的にもなりかねない。

まあ、これは障害の有無に関係なく、誰であってもそうではないだろうか。
放っておいてほしいこともある。
自分でどうにかしたいことだってある。
特別扱いしないでほしいことだってある。
誰であっても、自分のことは自分で決めるのが基本。
なので、配慮の申し出なしに先回りして配慮することは義務づけられていないし、すべきでもないと思っている。

特別支援教育と合理的配慮

最後に、特別支援教育との関係について。
特別支援教育という制度は、インクルーシブ教育の理念が根底にある。
インクルーシブ教育とは、障害者のある者とない者が共に学ぶのを基本として、障害のある者が地域の教育システムから排除されない仕組みのことをいう。
意味なく障害のあるなしで教育の場をわけたりせず、みんなで共に学ぶのが基本。
でも、ただ共に学べばいいかというとそういうわけではなく、障害のある子どもの個々の教育的ニーズ(支援の必要性)を埋めながら、その子が最大限能力を伸ばすことができるように教育するというのが大事という考え方である。
その子の能力を最大限伸ばすのに必要があれば、特別な学校の存在も否定はしていない。
そういう場合であっても地域の教育システムの中で誰も排除することなく教育を受けられるようにしよう、という理念である。
過去の記事では、「インクルーシブ教育と統合教育」が参考になるかもしれない。

このインクルーシブ教育。
障害者権利条約において、その内容が定義されている。
その中で、インクルーシブ教育の実現にあたり確保するものの1つとして、合理的配慮が提供されることが明記されている。
つまり、特別支援教育において、合理的配慮の提供は必須のものということである。
よって、特別支援教育の授業の中で大きく扱う内容になるわけ。

さらにいうと、合理的配慮は法律上、行政機関等や事業者に義務づけられたものでもある。
つまり、公立学校であっても私立学校であっても、合理的配慮の提供義務が生じる。
やはり、特別支援教育で大きく扱わざるを得ない重要な内容なのである。

ぜひ、きちんと理解していただき、障害のある者と関わる際、間違わないようにしたい。



さて、だいぶ長くなった。
今回はこのへんで。
ではまた。




津山ですな。
たぶん岡山へ向かう最中の一コマ。


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2026/08/03 22:08
寝る前に。
自宅にて。



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Update 2026/08/03
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空を見なよ / シャ乱Q(オレのスキなウタ No.3)




今の若い子は知らん人が多いのではないだろうか。
僕が中高の頃、わりと流行ったバンドにシャ乱Qというのがあった。
つんくがボーカルやっていたバンド、と言えばわかるだろうか。
つんくといえばモー娘。のプロデュースをした人。
そう、前回の記事からつながっている。

時々ものすごいヒットを飛ばすものの、常にものすごく売れていた、というわけでもない。
が、3つのバンドから寄せ集めで作られたせいか、一人一人の技術レベルが高い。
ギター、ベースに加えて、キーボードがいて、曲の厚みがあって、大変僕好みであったためよく聞いた。
楽曲は、つんく作曲系とはたけ作曲系があり、ずるい女は前者、シングルベッドは後者(ただし、作詞はつんく)。
どちらの系も違った良さがあるのだが、僕は断然はたけ系の楽曲が好き。

で、いろいろスキなウタはあるのだけど、まずはこのウタを。
彼らはこのウタの前にリリースした「ズルい女」でミリオンヒットを飛ばしているのだが、正直そっちはよくわからなかった。
このバンド何がいいんだろうか、というのがその時の感想。
が、その数ヶ月後に出たこいつにやられた。

最初はサビにやられた。
メロディラインがとても良くて、スーンとする。
テンポはそんなに遅くないはずなのに、バラード的に心をつかんできやがる。
続いて、Aメロ・Bメロの動きもスーンを誘ってくる。
最終的には、イントロのギターの入りでクルようになってしまった。

何がいいんだろう、と、今回じっくり聞いてみたところ、圧倒的にベースラインがよい。
メロディーラインとは別な、とてもオシャレな動きをしていて、要所要所で心地よく響く。
ドラムも地味にいい動きをしていて、こいつもたまらない。
ここに、心地よいギターとつんくの声乗るのがたまらない。
うーん、でもやっぱ圧倒的にベースラインだなぁ。

これが出た当時、僕は中学3年生。
こいつをカセットに吹き込み、ウォークマンに入れて何度も聞いたもの。
その後、高校時代のカラオケではだいぶお世話になった。
いつか、バンドでやってみたいと思ってはいるが、ボーカルを探すのが難しそうだなぁと思っている。
まあ、そんな大好きな一曲。

ではでは。
今回はこの辺で。
また。




尾道にて。

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2026/07/04 21:50
臨時休暇になった土曜日。
鳥駅スタバにて。



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Update 2026/07/04
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研究仲間と学会と一生の付き合いの話(大学教員・研究者という生き物18)

先日、学会に行ってきた。
正確には、学会の研究大会という。
学会とは組織のことを指す言葉で、「学会で発表」という使い方で出てくる「学会」はその中の学術会議のことを指していることが一般的。
組織によって呼び方はまちまちで、大会、学術会議、研究大会、など、名称の違いはあるものの意味はだいたい同じ。
最先端の研究を成果を発表して、いち早く情報をシェアして議論をする。
それによって、論文にまとめるときに役にたつ情報を得ることができる。
同業者との交流から新たな共同研究がはじまったり、知り合いの知り合いと飲んだりして学会内の知り合いが増えたりする。
僕の場合は、ゼミ生を連れて行って勉強の場に活用したり、あまり詳しくない分野の研究を知ったり、分野全体の流行りを把握しに行ったり、という目的でも使っている。

今回はこの学会に関するこぼれ話。
僕らにとっては当たり前なんだけど、よくよく考えたら一般的にはかなり変わっているな、と思ったりしたので、それについてダラダラ書く。

僕らの業界、キャリアのスタートは大学院もしくは学部の卒業研究というのが一般的である。
〇〇大学何某研究室、という所属があり、そこの研究室で上は教員から下は学部生まで、日々一緒に活動しながら研究を進める。
大学院レベルになると、研究室単位では専門領域としてはかなり狭くマニアックにメンバーが集まっていることが多く、例えば僕の修士の時はおでこの辺りの脳領域に関連した高次脳機能研究でまとまっていたし、博士はfunctional MRIというこれまたマニアックな機械・技術を中心にまとまっていた。
ほとんどの場合は自分で研究室を選んでいるので、自分の希望に沿った専門からキャリアがスタートする。
民間だと希望通りにいかないこともよくあるので、これはうちの業界独特な部分。
また、その分野の若手人材が密集しているのも一般の会社にはあまりない特徴。
新入社員として配属された部署に、同じような仕事をする新人若手があまりいない、という現場は多いと思う。
が、研究の現場は、少なくとも博士研究員(博士号取得後の任期付き研究職)くらいまでは同じくらいのキャリアの若手が近くに何人かいる、というような状況は少なくない。

まあそんな若手時代を数年過ごすことになるので、この時代の知り合いは特別な関係になる。
ウェットな関係、とかドライでないというわけではなく、特別な関係。
なんというか、同じ釜のメシを食った仲間、というような関係に近いのではないかと思う。
同じ釜のメシを食ったことはないのでよくはわからんけど。
僕は人間関係、わりとドライな方なのだが、やはりこの時代の同期・先輩・後輩には特別感を持つので、関係としては業界の人にある程度共通するものだと思う。

そんな特別な関係の研究室仲間。
若手時代を過ぎると、全国各地場合によっては海外へと、散り散りに散っていく。
そして、ほとんどの場合はもう同じ場所で働くことはない。
一般の会社だと、どこかの現場でまた机を並べる、フロアや建物が一緒のところで働く、なんてことがあるが、うちの業界はこれがかなり稀。
なぜかといえば、若手の頃の研究室仲間は専門が一緒で、たいていの組織はその専門領域の人材は一人でいいから。
だから、ある大学学部で同僚として一緒に働いていた人と、別の大学学部でまた一緒になる、というのはまだありうるが、研究室仲間が同じ職場になんてのは相当珍しい。
よほどの大手の大学で学部違いとか研究所で似た専門の人がたくさい集まっているとかでないとまあない。

じゃあ、研究室仲間、いくら特別な関係でも、どんどん関係性は薄れていくんじゃない?と思われた方もいるかもしれない。
が、そうはならない。
そこで登場するのが、学会。
学会というやつは、1年に1-2回開かれることが多く、一つだけではなく複数の学会に入ることもある。
すると、学会会場で古い仲間にバッタリと出くわすのだ。
両者が同じフィールドで研究をやっている限り、フツーに会う。
で、研究室時代に廊下で他愛もない話をするかのように話をし、近況や名刺を交換して、場合によっては夜飲みに行く。
同窓会のような特別感はあまりなく、日常の延長にたまにあるイベントのような感じ。
学会で今日会って、昔のように飯食ったり飲んだりして、明日また会うかのようにお別れする。
で、1年後2年後、まるで数日前に会ったばかりかのような感覚でまた再会する。
10年ぶりに再会という場合もあるのだけど、それでもやはり同じような感覚で再会・別れ、となる。
これは、業界人ならわりとわかってくれるのではないだろうか。

と、まあ、学会というのはちょっと不思議なコミュニティだよという話。
ちなみに、卒業生が大学院に進学するとかで同じ学会に所属することになった場合、付き合いはどちらかの引退までとわりと長い付き合いになる。
僕の同僚の先生が、学会でかなりご年配の大御所の先生に話しかけられていたので、どういう知り合いなのか聞いたところ、大御所先生氏が若手教員の頃のゼミ生だったのが同僚の先生だったとのことだった。
腐れ縁というのがもうここそこに、という世界だなぁと改めて思った出来事だった。

おお、いい長さ。
では今回はこの辺で。
また。




羽田エアポート。


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2025/09/06 19:30
学会上がりに。
仙台市内にて。



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Update 2026/07/20
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皇室典範改正のハナシ

今回は、大変ホットなこのネタ。
先週書こうと考えたものの、衆議院を通るのはもう少し先だと考えていたゆえ、先延ばしした。
ところが、あっという間に、たった数時間の審議の末、衆議院を通過してしまった。
と、いうわけで、今回はこいつについて書いてみようと思った。
一般市民が自分の政治的意見をちゃんと表明するのは結構大事なことだと思っているので、たまにこういうネタを書く。

さて。
今回の皇室典範の改正。
僕は反対の立場なのだが、いくつか理由がある。
これについてるる書いていく。

なお、「なにそれ」組のために軽い解説。
皇室典範とは皇室のいろいろなことを定めた、法律。
現状は、皇室のメンバーがどんどん減っていて、いずれ絶えるかもしれない。
これを食い止めようと今回改正という流れになった。
内容は、女性皇族が結婚したら皇室を離れるルールをなくすこと、旧皇族を養子に迎え入れられるようにすること、その養子の男系子孫に皇位継承資格が生じる、というもの。

昔々は側室制度があったので、天皇家の血が絶えないようにできたものの、現代的価値観ではそんなこともできず。
さらに、少子化の流れも考えると、男系子孫で皇族を維持するのはなかなか難しい。
一方で、皇室の伝統を重視するグループは男系子孫にこだわりたい。
現代的価値観と伝統的価値観のぶつかり合いのようなものが根っこにある、そういう問題だと思っている。

では、論点別にスタート。

決め方の乱暴さ

あまりに急すぎる。
もう少し議論を尽くすべきだし、国民を巻き込んで議論すべきである。
僕が反対するもっとも大きい理由はこれ。
みんなで熟議して、その末に決められたことであれば、まあ仕方ないかなぁと思う。
が、今回はそうではない。
急に皇室典範改正を今国会で成立、とか言い出した。
6/30に改正案が閣議決定、国会に出てきた。
で、7/10に衆議院で審議入りし、数時間の審議後、本会議で可決されてしまった。
あまりにも議論の時間が短い。
法案の問題点やいろいろな可能性をもっとしっかりと、国民を巻き込んで議論すべきであったと思っている。
継続審議にして、広く深く議論をすることもできたはずである。

なぜ、こんなことを言うのかというと、現在の天皇制は、憲法上、その地位が国民の総意に基づき象徴天皇(国民統合の象徴としての天皇)であるから。
現代的価値観が変化している中、今後の持続可能な皇室のあり方をどのような制度で実現していくかは、国民の議論抜きにあり得ない。
「国民の総意」「国民統合としての象徴」という意味をよくよく考えると、とてもこんな決め方はしてはいけない。
せめて、国会において代表者たちが真摯に誠実に内容を議論して多くの人が受け入れられる制度を目指すべきである。

皇室典範に限ったはなしではないが、高市さんはこういう強引なやり方が目立つので、総理大臣として支持できない。

男系か女系か

そもそも、この話。
冒頭にも少し書いたように、側室制度がなくなった上で少子化が普通になったことで、男系皇位継承で制度を維持するのが難しくなった、というのが本質だと捉えている。
それはそうである。
1組の親から2、3人しか子が生まれず、その上、男性子孫だけに皇位継承を絞れば、いつか絶えてしまう。
これは確率的に考えるとそうなってしまう。
そう考えると、側室を許容するか、女系天皇を許容するか、旧皇族の男系子孫を養子にするか、しか選択肢がなくなる。
側室は現代的価値観からたぶん難しい。
女系天皇は現代的価値観には合うが、皇室制度の伝統を重んじる派としては受け入れられない、といったところか。

では仮に。
旧皇族の男系子孫を養子にする案で、この問題は解決するのだろうか。
少子化で、男系子孫に皇位継承を絞っていることが問題の本質であるならば、これはいずれ時とともに行き詰まる。
旧皇族であっても、同じ問題を抱えているわけで、いずれ旧皇族からも養子が出せなくなるはず。
そうしたら、また別の家系を許容して、連れてくるのだろうか。
歴史的に見て、我が国では天皇というのは不思議な力を持つ。
なので、天皇になる人というのは皇室内でしっかりとした教育を受けたしかるべき人になってほしい。
どんな教育を受けたかわからない人を外から養子にとって、その子が天皇になる、というのはちょっと怖いなと思う。
変な人がなると、国が乱れかねない。
変な人が養子になりたがる、ということになると、やはり国が乱れかねない。

そう考えると、女系天皇も受け入れるべき時期に来ているのではないか、と思っている。
象徴天皇ということを考えると、小さい頃から報道され、国民が親しみを持っている女性に天皇になってもらうというのは、なしではない。
男女平等という現代的価値観と適合するという部分も、象徴天皇という制度と相性がいい。

旧皇族でいいのか

今回の皇室典範の改正で旧皇族というものを調べた。
この旧皇族、ずっと明治天皇あたりから分かれたものと勘違いしていたのだが、そうではないという。
元々は伏見宮家から派生した複数の宮家で、伏見宮というのは600年前の天皇の子孫だということ。
今上天皇陛下とは36〜38等親も離れている。
ここまで離れていると、親類感は全くない。
本当にそれでいいのだろうか。

もし、旧宮家の男系男子が途絶えたら、男系男子はいても養子になってくれなかったら、どうするのだろうか。
次は、どこかで血筋がつながっている誰かを連れてくるのだろうか。
源氏の末裔でもいいのだろうか。
でも、臣籍降下した人を連れてくるって、そういうこと。
将来にわたって、天皇制度とその運用が不安定になることはないだろうか。
そういうことを考えた。
まだ、女系天皇容認の方が、安定的にな制度になるのではないだろうか。

当事者の意見を聞いたのか

皇族の方々は、政治に参加することを含め、人権が制限されている。
一方で、今回の話は自分たちの家族・親類の話でもある。
だからこそ、国民の側が当事者(皇族の方々)のことをよく考えて、制度改正を行う必要があると考えている。
自分たちのプライベートな問題が、自分たちの意向が全く無視された形で生じる、という悲しいことが起こってしまう。

例えば。
旧皇族から養子を取れるようにする。
これは現皇族の意向によって養子を取れるのか。
皇室典範改正案によると、皇室会議の議を経て、とある。
皇室会議のメンバーは、皇族2名と宮内庁の長1名、それ以外は政治家だったり裁判官だったりと、皇室外の人。
ある日、外から、皇族の維持という名目で養子が強要されるのか。
一般国民は、各々の意思で養子を取るものだが、そういう構造になっていない。
こういうことについて、法案に対して、国会で十分議論して答弁の記録を取るべきであったのではないだろうか。
それらを国民に示して、議論に巻き込むべきだったのではないだろうか。

女性皇族が残る話も同様。
現女性皇族は、結婚すれば皇族を離れるという制度で育った人たちである。
それが、後出しで、ずっと皇室に残ることになる。
当事者にとって、これは望む制度改正なのだろうか。
そうでないのであれば、決定プロセスの中でどのような合意形成や配慮があったのだろうか。
こういうことが、一切見えない。

象徴天皇制という公の制度のため、当事者が自分たちの家族・親類の決まりを自分たちで決められない。
そういう仕組みだからこそ、国民や政治家が当事者のこともよく考えて議論した上で制度を作るべきではないのか。

再び、決め方の乱暴さの話

ちょっと考えただけでも、これだけ出てくる。
国会でていねいに議論して問題点を洗い出して、法案の修正をしたり答弁の記録を残したりすべきではないだろうか。
それらを広く国民に発信して、国民を巻き込んだ議論をすべきではないだろうか。
これを書きながら、なるべく正しい情報を参照しようと探すも、整理された情報が少なかった。
衆議院を通ったのにも関わらずである。
そのくらい、急だったということ。

日本国憲法第1条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。
今回のような決め方をした改正案は、とても「総意」とはいえない、と思っている。
法案に先立って、「立法府の総意」が政府示されたが、与野党の複数議員がそうではないと発言している。
そう考えると、やはり「総意」ではないよなぁ、と。



と、まあ、久々の時事ネタ。
ちゃんと政治のことを考えるのは、国民が主権者である限り、主権者たる責任だと思っていて、たまに書いている。
ではまた。




どんどん暑くなってきた。

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2026/07/13 23:59
お仕事あがりに。
自宅にて。



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