研究業界において、選択と集中ということがずっと言われてきた。
選択と集中というのは、経営的な考え方で、伸びる分野を選択しそこに集中的に資源(金と人)を注ぎ込むという考え方。
研究業界では、主に研究費も含めた研究関連の予算について選択と集中ということが言われ、実行されてきた。
民間経営者層、コンサル・シンクタンク系、財務省系の意見として多く、これに選択される側の一部研究者がのっかって力を持ってきた印象を持っている。
ただ、この考え方。
僕は大いに間違っていると思っている。
民間ではうまくいっても研究業界ではうまくいかない。
そういう類のものではないか、という意見を持っている。
そこで今回はこのネタについて書いてみる。
研究業界の状況
ここ何十年か、うちの業界ではこの選択と集中というやつがずっと行われてきた。
特に、国立大学界隈では、国立大学が独立法人化(独法化)された2004年度以降、かなりこの色が濃くなったと感じている。
独法化以降、国立大学の運営費は少しずつ削られてきた。
運営費というのは、文字通り国立大学を運営するのに必要な予算で、教職員人件費や設備維持費、研究費を含む。
これが減らされると、営利企業ではない国立大学としては、人件費や研究費、設備維持費などを削らざるを得ない。
もちろん効率化などの努力で減らせる分もあるだろうが、それは微々たるものであり、やはり経費予算の減額となる。
その結果、国立大学ではここ20年くらい、教職員を減らし、研究費を減らし、老朽設備の更新を先延ばししてきた。
様々な分野の研究者ポストが減り、大学からの研究費だけでは研究ができないほどに研究費は削られている。
ただ。
増えたものもある。
これは競争的な研究費。
企画書を出させて、それを審査して、良さげなものだけに研究費を出すという類のもの。
いわゆる選択と集中、というやつ。
政府が国全体の研究費を算出すると、全体の研究関連費はさほど減っていないので、選択と集中型の研究費が相対的に増えてきた、ということであろう。
このあたりは、 日本の研究力低下についての雑感 に詳しく書いた通り。
民間ではなぜ選択と集中は機能するのか
さて。
民間の人はなぜ選択と集中というのか。
限りある経営資源をある分野に集中させて、利益を最大化したい。
そういった発想からだと思う。
民間の会社の場合、なぜこの発想で機能するのか。
これは、選択と集中の切り替えが結構容易であるから。
市場にはあまた企業があるし、はやらないまでも細々と経営が続いていることもある。
ある企業で選択されずに切り捨てた部門があったとしても、必要になったら企業を丸ごと買収したらいい。
選択したものがだめだったら、それをさっさと切り捨てて、新しく選択し直す、というのが容易。
企業のレベルでもそう。
例えば、スタートアップ企業。
1つのスタートアップ企業が生き残る可能性はそこまで高くなく、だめだったら投資が引き上げられ、潰れてしまう。
ただ、起業に挑戦する人はたくさんいるので、次から次へと新しい企業が出てくる。
一度潰れたとしても、同じ人が別のアイディアで再チャレンジというのもしやすい。
人材のレベルでもまたしかり。
選択と集中で選択されなかった側の人間は、企業内で別の分野に移転したり、転職して別企業で同様のことをやる。
もちろんその中には、人材としても終わりを迎える人もいるかもしれない。
が、基本的には働かなくてはならないので、どこかで何らかの仕事をしていることが多い。
そこで、新たなスキルを身につけるなり、元のスキルを深めるなどして働くなどしている。
社会状況の変化で人材が必要になった場合、社外から調達できるプールのようなものが存在している。
このように、民間企業では、選択と集中が機能しやすい。
ただ、大きな企業の中には、どれが育つかわからないので、死なない程度に多様な技術や人材を雇っておく、というのをやる企業もあるらしい。
選択と集中はしているけど、選択されなかった分野の重要性もわかっているタイプ。
研究業界の選択と集中
研究業界ではどうか。
まず、分野から見てみる。
ある分野が選択され、ある分野が選択されなかった場合。
選択されなかった分野は研究の継続が難しくなる。
大学業界で起きている選択と集中は、それを行うための原資を非選択・集中分野から集めてきている。
選択と集中の対象外になると、研究そのものができない、となる。
こうなると、分野自体に人材がいなくなる。
研究ができないわけだから、大学院生が来なくなる。
論文数が少なくなるので、ますます大学院生が来なくなる。
いくらか来ていた大学院生も、非選択・非集中分野化により、ポスト数が少なくなり就職できなくなる。
その結果、研究者人口自体が減少し、ますます大学院生も来なくなる。
そのうち、元々いた力ある研究者が退職を迎える。
こうなると、今度は研究者養成ができるキーとなる研究者がいなくなってしまう。
さらに時間が経つと、その研究分野自体が風前の灯状態に。
こうなると、もはや、その分野の立て直しは容易ではない。
その分野のプレイヤーもそれを育成する教育者も、その分野を宣伝する伝道師(大学教員)もいなくなる。
これを一から再構築するという話になるので、かなり時間もお金もかかる。
社会の流れで、急にこの分野の研究・教育ができる人が必要になった!となっても、すぐには対応できない。
外から人材が集められればいいのだろうが、研究という営みの特殊性から簡単に入ってくることはできず、人材の養成にもかなり時間がかかる。
そもそも、人材を養成できる人材がいなくなっている場合もあるので、そうなるとお手上げ。
この辺りが、民間の選択と集中とは違うところ。
昔は、研究者養成ができる国立大学にも地方国立大学にも余裕があって、選択されなくても研究者として死なない程度の研究環境があった。
これが、多様な研究分野や研究教育人材をプールしていたのだが、そういうのが成り立たないレベルで非選択・集中分野の環境が悪化した。
今、選択されている分野が元気なうちはいいが、フェーズが変わった時、かなり困ることになる。
今選択されている分野の中には、注目されることもなく細々と研究を続けた末に、急に選択される側に回った分野もある。
細々と研究が続けられない環境だと、こういうことは起こり得ない。
研究業界は分散投資が必要
いやまて。
じゃあ、将来あたる分野をあらかじめ投資しておけばいいじゃないか。
ということをいう人もいると思う。
が、これは不可能である。
民間レベルでも、それができないからこそ潰れる企業がある。
多くのスタートアップ企業が失敗をする。
将来何が当たるか予想ができないから、とりあえずやらせてみて、うまく社会的時流に乗ったものが生き残る仕組み。
つまり、先が読めないことが前提の選択と集中、ということになっている。
研究業界においても、その分野が将来当たるか、は全くもって予想できない。
当たる当たらないは、研究で発見されるものにも依存するし、社会の予測不能な変化の中でも生じる。
iPSが注目されたのは前者だし、コロナについては後者のいい例。
なぜ選択と集中が民間でうまくいくかは先ほど書いた通り。
経済活動全体の中に、分野と人材の多様性を確保しやすい上、素早い立ち上がりもできなくはない。
そういう環境であるからこそ、選択と集中が機能しているところがある。
ただ、これは研究では機能しない、というのは書いた通り。
そうすると、研究業界ではどうしたらいいか。
これは、選択と集中の運用の方法を工夫しなければなるまい。
選択と集中自体はいくらかあってもいいとは思う。
しかしながら、非選択・集中分野が死なない程度に、という条件が必要。
具体的には、研究が細々と続けられるような環境の維持(人員・研究費とも)しながら、余ったお金や追加のお金で選択と集中をする。
民間流の選択と集中だと、業界の中で分野も人材も死んでしまう上、外部にそれらの多様性が保存されないのでうまくない。
つまり、死なない程度の分散投資と、その上での選択と集中ということ。
おわりに
おそらく、昔の国立大学が全体として分散投資型研究環境の受け皿になっていた。
給与等待遇はそこまでではないものの、まあまあな研究環境を提供して、研究したい研究者を惹きつけて、研究分野・人材の多様性を確保していた。
それが、国立大学法人化以降、ここのお金を削りながら、選択と集中のお金を増やした。
全体の予算を増やせないので、分散投資をやめて選択と集中を採用した感じか。
その結果、国立大学が全体として保持していた研究分野・人材の多様性が失われつつある。
これは、日本社会全体の問題として、ぜひ多くの人、特に業界外の人に認識してもらいたいと思って書いてみた次第。
国立大学の研究環境の問題は、また別立てで書いてみようと思っている。
では、今回はこの辺で。
また。
どこでしょ?!
-----
2024/05/03 16:54
休暇だよ。
横浜のいつものタリーズAにて。
Update 2024/05/03
Since 2016/03/06
Copyright(c) Hisakazu YANAKA 2016-2024 All Rights Reserved.