週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

データ分析と論文執筆には時間がかかる(研究をしよう38)

卒業研究のスケジュールを考えるで、データ分析は遅くとも11月(1月末が〆切の場合)で終わらせておくように書いた。
ただ。
どうもこのあたりが全然伝わっていないように感じることがある。
そこで、今回はこいつに絞って詳しく書いてみようと思う。

論文執筆、プレゼン資料作りには時間が必要

まず。
単純に、論文執筆とプレゼン資料作りには時間が必要である。
これに2ヶ月ほど見ておいてほしい。
単位のためのレポートを徹夜で仕上げた経験から、3日か、まあ1週間もあればできてしまう気がする学生もいるようだが、まず無理と見ていい。
よほど書くことを訓練してきた学生であっても、フルの論文を書くのは初めての経験。
いろいろなことを確認しながら書くことになるので、1週間で書ける、なんてことはまずありえない。
僕が書くとしても、分析が完璧に終わっていて学会発表等の発表済みで構造が固まっていたとして、草稿で1-2週間、寝かして直しも含めて+2週間といったところか。
それを初めての経験の学生さんが書くわけだから、それ相応に時間がかかる。
まあ、初稿提出までに数週間、そこから直しも含めると2ヶ月はほしい。

初めての卒論。
初稿の時点でもうほぼ仕上がっているということはまずない。
うちの場合だと、真っ赤にコメントが入り、それをもとに考えることになる。
コメントの大半はかなり初歩的なもので、文がおかしい、意味が通らない、論文としての体裁が整っていない、引用へん、などなど。
これらについては、いずれ別に記事にまとめるが、とにかく、真っ赤にところせましとコメントが書かれる。
場合によっては、この本を読んで文の書き方を学べ、この資料を読んで論文の書き方を学べ、なども。
よって、ここからが時間がかかる。

もちろん、プレゼン資料についてもそう。
論文の内容をもとに資料を作るのだが、論文が文中心なのに対し、プレゼンは図が命。
論文のどの部分をどのような効果的な図にするか、これを考えて作成するのはそれなりにテクがいる。
今までの発表とは勝手が少し違うので、ここでも時間が取られる。

それでも、論文執筆・プレゼン資料の内容がしっかり固まっていればいいのだが、卒論生の場合はそうはならない。
よって、さらにここに別の時間が必要になる。
これについては、次の項で書く。

考える時間が必要

ある程度、書く内容が固まっていて、あとは文にするだけ、であれば書く以外の時間はそこまでいらない。
例えば、僕ら(職業研究者)が論文を書くときは、内容をすでに学会発表等で発表していることが多いため、わりと書く内容は固まっている。
この場合は、ひたすら文字にしていけばいい。

しかし、卒論生の場合はそうはいかない。
卒論生の場合、内容について学会にて発表済みということはほぼない。
このため、構造がしっかりしている、分析が完璧、ということもほぼない。
なぜ、学会発表をすると、これらがしっかりするのか。
これは、発表にあたり、内容を精査し、図表で結果を見える化して、考えながら資料を作るから。
この過程で、内容がかなり整理される。

分析結果から、どんなことが言えるのか。
提示した仮説を支持する結果はどれなのか。
結果をどのように提示していったら、わかりやすくロジックが通りやすいか。
メインの結果に加えて、サブの結果から言えることは何か。
仮説を支持できなかった場合、それはどうしてなのか。
思いがけない結果が出た場合、それはどうしてなのか。

予想していなかった研究上の不備はあったのか。
あったとすればそれはどんなもので、結果・結論にどんな影響を及ぼすのか。
それは致命的なのか、改善点は何か、次に研究をするとすればどのようなものが考えられるか。
どんな質問が予想されるか、どう答えたらいいか。
学会発表済みの場合は、実際に他の研究者から質問・コメントをもらっている場合もある。

まあ、平たくいうと、考察、ということになるのだが、これらを一生懸命考える。
考えて考えて考えて、なお考える。
その上で、論の展開・構造を固めていく。
問題点については、可能なものは発表内容に組み込む。
受けそうな質疑については、あらかじめ備えておく。

学会発表ではこういうことをやっているので、発表済みの場合は、これらの内容をひたすら文字に落とし込んでいくだけの作業になる。
書くことについての内容と構造がすでにある程度あるため、時間はその分少なくて済む。
卒論生はこの部分について、論文を書きながら、プレゼン資料をしながら、同時並行でやることになるのでその分時間がかかる。

追加分析の時間が必要

卒論生の場合は、さらに必要な時間がある。
それは追加分析の時間。

卒論生の場合、分析は仮説をもとにごく基礎的なもののみしかしないことが多い。
研究初心者であるため、それ以外思いつかない、といった方がいいかもしれない。
仮説をもとに分析していればまだいい方で、ほとんど何をやっていいかわからずパニックになっているような場合、分析自体が不十分なまま論文執筆・プレゼン資料作成などのまとめ作業に入ることも多い。

しかし。
この場合は、まとめの過程で必ず追加分析が必要になる。
自分の結果から考察したことについて、追加分析をして補強したくなった。
当然やっておくべき基礎的な分析を落としていた。
書きながら結果のおかしな点を指摘され、よくよく調べてみると分析方法が間違っていた。
こういうことは頻発する。

追加分析、再分析、確認の分析、生データの確認、の末に誤りに気づき真っ青、やり直しやり直し。
これらの時間はかなり必要になると思っておいた方がいい。

添削待ちの時間が必要

考えていない人が多いのがこれ。
ゼミ生が複数人いる場合、指導教員に添削依頼を出して、すぐに添削結果が返ってくることはない。
大学教員は、大学生が考えているよりもはるかに忙しい。
1、2、3年生(加えて、大学院)の授業とその準備・採点業務、入試の準備に入試、学内委員会関係、その他諸々のお仕事お仕事お仕事。
年度末は極めて忙しい。
これらに加えて、自分の研究をやっている。
このことは、この辺りにも書いていること。

そんなわけで、単純に時間がない。
添削の依頼を受けても数日、場合によっては1週間かかってしまうことがある。
僕の場合、初稿段階の卒論の場合1人に3−4時間かかる。
ただ、1日のうち3−4時間まとまって時間が取れることはほとんどなく、細切れの空き時間を使ってコツコツ進める。
たまたま、うまいこと時間が取れた場合はすぐに添削結果が返すが、このあたりはなかなかすぐにというわけにはいかない。
最優先で進めるものの、かなりお待たせすることもしばしば。

あと、忘れている学生も多いのだが、一応教員にも休養は必要。
土日休日は休みだし、平日も時間帯によってはプライベートの時間である。
このあたりは意識しておきたい。
前に、学生さんが教員のレスポンスが遅い、と不満を漏らしていて、いつ添削依頼したのか聞いたところ、金曜の夕方に依頼、不満を漏らしていのが月曜日午前中、ということがあった。
それは無理筋だぜ、と説明したら納得して反省していたけど、これはよく耳にする話。
教員だって、家族との時間を大事にする、息抜きをする等の休養時間をとる、というのは必要な時間である。
それも含めて、論文執筆のための時間を計画しておきたい。

寝かす時間、ゆっくり考える時間が必要

ラストはこれ。
書いたものって、意外と寝かす時間やゆっくり考える時間が重要である。
これに1−2週間くらい使いたい。

書き終えて、読み返していると、パッとアイディアが降りてくることがある。
これが思いがけない追加分析と発見につながるというのはある話。
そうでなくても、ふとした瞬間に構成のアイディアが浮かんできて手直しする、というのはよくある。
うちの卒論生でも、早く仕上がった組はそれでおしまいということはなく、一応書いたけど納得いっていない部分、について寝かしながら考えて修正する、というのはよくやっている。
この、書いたものを寝かす時間、ゆっくり考える時間、というのは、結構必要な時間だと思っている。

この時間、僕も自分の論文については意図的にとる。
なお、週間雑記帳ですら、寝かす時間は可能な限り取るようにしている。
おそらく、全ての書き物を熟成させるために必要な時間だと思う。



と、いうわけで、今回はここまで。
卒論生・修論生のみなさまは、初期の段階でくれぐれもこの辺りをしっかり意識していただいて。
では、また。




旅をしていたら遭遇した、いつぞやの出雲おろち号。
出雲坂根駅か。

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2024/02/13 13:20
3連休延長戦。
川崎駅タリーズにて。



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Update 2024/02/13
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研究でやってはいけないこと〜捏造編(研究をしよう37)

前回は盗作はいけないよ、ということを書いた。
せっかくなので、もう一つの研究不正、捏造と改ざんについて。
まあ、学部学生レベルでの捏造は盗用と比べるとそんなにないのだけど、改ざんはその重要性がわからずやってしまう、ということもないとは言えない。
どのくらい重いことなのか、やばいことなのか、解説する。

捏造、改ざんとは何か

まず。
前回にならって、文部科学省(2014)の定義から見てみよう。

捏造
存在しないデータ、研究結果等を作成すること。

改ざん
研究資料・機器・過程を変更する操作を行い、データ、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。


わかりやすい不正だとは思う。
盗用の時のように、どこまでがセーフでどこからがアウト、みたいな話は必要なく、ちょっとでもダメ。
ただ、コレは意図してしか起こせないので、不注意で起きてしまったということはないのが特徴。
まあ、普通に考えれば実に当たり前なのだけど、なぜかコレに手を染めてしまう人が出てしまう。

なぜダメなのか

研究という営みは、まだわかっていないことに対して、その証拠を手探りで見つけていくとこと。
その証拠の根幹をなすデータに嘘を混ぜるのは、どうあっても許される行為ではない。

我々は基本的に嘘がないことを前提で研究論文を読む。
仮に嘘が混ざっていたとしよう。
これは、単にその研究が示す事実が間違いなだけ、ということを意味しない。
嘘のデータを元に書かれた研究論文を読んだ他の誰かが、コレはすごいと同じことを試すことになる。
結果、嘘は再現されることなく、時間と研究費が無駄になる。

試して再現されない、ならまだいい。
嘘研究を根拠に、次の研究計画が立てられる。
それもいろいろなところでたくさんの計画が。
しかし、根拠となる研究成果が嘘なわけだから、論理的に間違った仮説や目的が導き出されてしまい、その研究はうまくいかない。
うまくいったとしても、結論や考察は論理的に破綻してしまう。
他の研究者の労力と研究費を奪うわけだ。
端的に言って、極めて迷惑である。

もっとひどいことになることもある。
例えば、医学研究であれば、その成果を元に治療が行われることになる。
効果がない治療が行われ、それに時間とお金が使われることになる。
とんでもない話だとは思わないだろうか。

そんなわけであるから、ほんのちょっとであっても許されない。
一度でもやったことがわかっている人は、もはや研究をやることはできないだろうし、一生、研究業界で信を得ることはないと思う。
在職中にやってバレたら、懲戒解雇もありうる。
そのくらい重い。

なぜ、捏造や改ざんをしてしまうのか

僕にはよくわからない。
研究の目的が、新たな知を創り上げること、であれば絶対にあり得ない。
なのだが、目的がそうでない場合は、確かに起こりうる。

まずあるのは、評価されたい、というものか。
研究成果が出ず追い詰められて、も、この類。
その昔、考古学のゴッドハンドと呼ばれた研究者が、実は捏造だった(自分で埋めて自分で掘り返していたらしい)ことがあったが、これは評価されたい、が捏造に繋がった代表例。

他にもある。
未熟で、仮説と事実の区別がついていない場合。
本人は正しいと思い込んでいて、捏造・改ざんは正しい事実を示すだけなので問題ないと思ってやってしまう。
仮説を信じ込んでいるため、正しいと思い込んで主客が逆になる。
仮説はあくまで仮説であり、その正しさを証明することが自分の仕事であることをわかっていないパタン。
これは、警察官や検察官が正義感をもって証拠を捏造する場合と同じ類。

卒論生・大学院生の場合も、理由としてはだいたいどちらか。
そもそも未熟なので、両方ということもあるかもしれない。
卒業・修了のために追い詰められて、とか、指導教員など立場が上の人に怒られないように、というのもあるか。
これらも悪評価を避けるためなので、広い意味では評価が動機ということになる。

なぜバレるのか

これは剽窃と比べるとバレるまでに時間がかかる。
論文自体がおかしいわけではないので、最初は性善説で受け入れられる。
問題はその後。
当然、捏造・改ざんされた研究結果を再現してみよう、という人たちが出てくる。
もしくは、その研究結果を基礎において次の研究をやってみる、という人たちも現れる。
ところが、そもそもが捏造・改ざんされた代物なので、当然再現できない、研究がうまくいかない、ということが続出する。
そうなると、うまくいかなかった研究者たちは疑い始める。
ナンカ、オカシイゾ。
これが端緒となって、捏造論文を穴の開くまで眺めて、データの不自然なところを見つける。
で、掲載学術誌や所属機関にクレームが入り、不正調査開始、御用となる。
なお、捏造する人はいろいろな研究で捏造するので、他の研究も調べられて芋づる式に悪事が暴かれることもしばしば。

他にもある。
例えば、周囲の人にバレてしまうというもの。
捏造されたデータというのはキレイすぎるので、あまりにそれが続くとおかしい、となる。
それに、研究室内の別のメンバーや隣の研究室のメンバーにバレてしまうということもある。
これも、所属機関に垂れ込まれて、不正調査の流れ。
悪いことはできない。

バレるとどうなるのか

基本的には、剽窃編と同じ。
不正認定ののち処分か、さかのぼっての学位取り消し。

問題は、剽窃に比べるとわかりづらいので、教員を巻き込んでしまうことがあること。
教員がデータの捏造・改ざんに全く気づかずそのまま発表してしまった場合、、、。
その教員も間違いなく処分の対象になる。
ちゃんと確認しなかった落ち度があるので、教員側も知らなかったでは済まされない。

無実なのに疑われてしまった時のために

この捏造、改ざん。
ことがことだけに、かなり厳しく責任を問われる。
そして、疑われたときの潔白の証明は自分でやらなければならない。

1番は、記録。
実験ノート、調査ノート常に記録して、ちゃんとデータをとっていることを記録しておく。
生データから分析を得て結果が出るまでもしっかりと記録しておき、何度も同じ結果が出ることを確認しておく。
生データを保存しておき、結果が捏造・改ざんでないことを証明できるように準備しておく。
そして、疑われたら、即座にこれらを提出して身の潔白を証明する。
これは、研究をする者の務めと心しておきたい。
これらの記録がない、ということは捏造・改ざんを疑われてもやむ得ない、というのが業界スタンダードであることを覚えておきたい。

詳しくは、 研究ノートを書こう(研究をしよう28) を読んでいただければ。


では今回はこの辺で。
また。




広島市内にて。

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2024/02/24 22:55
もりもり働いてございます。
自宅にて。



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Update 2024/02/24
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ノートはいい、筆記具はいい No.3

さあ。
このどうでもいいシリーズも最終回(シリーズはこちら)。
この上、何を書くことがるのか、と思われるかたもいるかもしれない。
いや、しかし。
まだまだたくさんある。
今回はマニアック編。

ノートに筆記具で書く、ということをずっとやっていると、当然のことならが筆記具にこだわりが生まれる。
僕の場合は20代中頃だっただろうか。
まず、いいボールペンに手を出すようになる。
書き味とか色味とかそれらがモノによって大きく異なり、これがおもしろかった。
そうなると万年筆に手を出すまでにそんなに時間はかからない。
国産の万年筆に手を出したの皮切りに、いくつかの万年筆に手を出す。
ペン先の材質がどうだとか、形がどうだとか、面倒くさいことを言い出す。
このあたりから、「書くこと」が文字列を並べること、から、手に伝わる感覚も含めて楽しむもの、に変わっていく。

ただ。
万年筆は高い。
そして、万年筆は、その名の通り長持ちする。
そうすると、新しいものに手を出す、というのは永遠には続かない。
お気に入りを長く使い続ける、といういうところに落ち着く。
すると。
次に行き着くところ。
それは、筆記具・万年筆好きとしてはもう既定路線の「インク」沼ということになる。

ご存知ない方のために説明しておくと、万年筆というのはインクカートリッジを差し込んで使う他に、インクをインク瓶から直に吸い上げて使うことができる。
本体にスポイトのようなものを取り付けて、インク瓶から本体に吸い上げる。
使うインクは本体と同じメーカーのものに限定されず、世界中の好きなメーカーのものを使うことができる。
これがね、大変おもしろい。
インク一つで書き味が大きく変わる。
同じ色名でもメーカーによって微妙に色も書き味も違う。
さらに、同じ製品でも古くなったり水分が抜けたりするとやはり色が変わる。
これが本当におもしろい。
こうやって、インク沼というイケナイ沼へとハマっていく。
僕はブルー沼にかなり深くハマった。

そして、このインク沼にハマった人が次に行き着くのがノート。
インクが裏移りしないとか、インク×ノート紙質で書き味がですね。

かくして、文章を作ること、ではなく、書くという行為が目的化したオバカサンが出来上がる、というわけ。
まあ、でも、楽しいのでやめる気はない。

と、いうわけで。
思考を広げる道具として、ノートと筆記具を使ってみてはいかかでしょうか。
まずはそこから入っていただくので構わない。
で、いずれ、ですね。

ではでは。
今回はこのへんで。
ちなみにこの記事は最近入手したJet Streamのパーカータイプのボールペンインクで書いている。
こいつの書き味は、たまらない。




職場で常用している万年筆とインク。
最後まで使い切れるようにインク瓶に工夫があるのもおもしろいポイント。


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2023/11/05 16:34
本日3本目。
鳥駅スタバにて。



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Update 2024/01/21
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わかりやすく伝える人は頭の良い人、なのか

SNSで「難しい言葉をいっぱい言うのは簡単」「わかりやすく伝える方が頭良い」というのを見た。
有名人の投稿だったので、結構注目を集めていたよう。
なるほど、確かに!みたいな反応が多かったか。
さっそく、知り合いの学生さんが、これを引き合いに出してなんやかんや言っていた。

さて。
これは正しいのだろうか。
そうすると難しい言葉は何のためにためにあるのだろうか。
そもそも頭の良さってなんだろうか。
一応僕は心理学もちょっとだけ詳しいので、これについて書いてみようという気になった。
まあ余興、お遊びの類。

まず、頭の良さからいこう。
頭の良い人、とはどんな人なんだろうか。
勉強ができる人?
理解力の早い人?
難しいことを知っている人?
ひらめきのすごい人?
いやいや、記憶力?
コミュニケーション能力お化け?
よく気付ける人、なんてのもあるか。
そして、冒頭の説明が上手な人。

並べてみると、実にたくさんの頭の良さ的なものがある。
実はこの「頭の良さ」、曲者である。
おそらく、人によって「頭の良さ」の意味が大きく異なり定義できない。
この辺りは心理学の知能とは何か論と似ている。
心理学において、知能とは何か、は心理学者間においても定義が多様で一致しない。
知能、という概念自体がつかみどころがなく、何とでも定義が可能だから、というのが原因。
これは、おそらく「頭の良さ」とほぼ同じ。

例えば。
その場で、パッと新しいアイディアを思いつく能力。
その場では全く思いつかないものの、時間をおくと誰も考えないようなアイディアを思いつく能力。
斬新なアイディア自体は思いつかないものの、他人の出した思いつきをもとに穴のないプランに詰めていける能力。
いずれも、「頭の良さ」を示す能力だとは思うものの、それぞれは別の能力で、それぞれに長短をつけるのが難しい、というのは「頭の良い」読者であればわかるはず。

難しいことを簡単に説明できる能力、も確かに頭の良さの一つであることは否定しない。
ただ。
「わかりやすく伝える方が頭が良い」かというと違う。
ここまでに書いたように、他の能力と比較してこちらの方がより頭の良さを規定するというのはわからない。
おそらく、それぞれは独立した能力で、比較可能なものではない。
特に、「難しい言葉を言う」よりも「わかりやすく伝える」が頭が良い、という部分はこの色合いが強い。
理由は、主には以下の2点。

まず。
思考は言語にしばられる。
これは心理学をやっている人ならご存知のはず。
言語が内面化したものが思考、というのが教科書的な説明。
どんな言語を操れるのかは、個人の思考を規定する。
つまり、難しい言葉を知っている人、使える人は、それだけ操れる思考の道具が多様で、思考も深く多様になる。
これが「頭の良さ」と関係しないわけがない。
そもそも、なぜ難しい言葉、なるものが存在するのか。
それは、難しくない言葉で表現するよりもその方が楽だから。
かなり分量が必要な説明がたった一言で済む場合がある。
その分、別の説明に時間を使うことができる。
難しくない言葉で表現するとニュアンスが難しかったり正確さが犠牲になったりするから難しい言葉が必要、というのもある。
便利だから難しい言葉が存在するわけ。
なお、難しい言葉を言う人は、難しい言葉がわかる人であることが多い。
これは、難しい言葉のまま難しいことを理解できる人、ということでもある。
これらのことは「わかりやすく伝える」能力とは独立で、これらが「頭の良さ」と関係ないと考える方が無理がある。
頭の良さとしてどちらが優位か、これを問うのがナンセンスであるのはわかるであろう。

問題点の2点目。
「わかりやすく伝えられる人」が必ずしも難しい言葉を理解する能力を有しているとは限らない。
当たり前だが、人は自分の操れる言語能力と理解力の範囲で物事を理解して思考する。
これは、難しいことを理解した上で「わかりやすく伝えている」のではなく、さほど難しくないようなもののみを理解した上で「わかりやすく伝えている」だけの可能性を生ずる。
わかりやすく伝える能力と難しい言葉を操る・理解する能力は別物なので、当然そうなる。
薄っぺらい知識についてわかりやすく伝える能力を、頭が良い、かと問われると、僕はあまりそうは思わない。

そんなわけなので、「難しい言葉を操る能力」を侮ることなかれ。
その過程で「難しいことをいっぱい言う」は出てくると思うけど、決して簡単なことではない。
もちろん「わかりやすく伝える能力」はこれはこれで高度な能力ではある。
「頭の良さ」としては、どちらも独立であり、どちらも大事だよ、というのが結論であり、言いたいこと。

なお。
頭の良さってのはね、こういう一見正しそうなものに簡単に騙されないことについても含まれるのではないだろうか。
まあ僕は、「頭の良さ」なる概念が、いまいちよくわかってないないのだけれども。

余興的お遊び記事はこれでおしまい。
ちなみに、冒頭の発言をした有名人、僕はわりと好き。
そこんところ、勘違いされないよう。
ではでは。
また。




とある雪の日の鳥取市内。

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2024/02/11 15:46
卒論提出ひと段落記念、大休養旅行。
南町田タリーズにて。



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Update 2024/02/11
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研究でやってはいけないこと〜剽窃編(研究をしよう36)

研究には、絶対にやってはいけないことがある。
学部生、未熟な院生レベルだと、これがよくわかっていない場合がある。
よくよく振り返ると、学部生向けにあまりこれに関する授業や講習がなかったりする。
ただ、これ、研究業界でやると犯罪に準じたヤバさがあり、処分を受けることになる。
例えば、論文提出後、卒業前に見つかれば、不正認定で留年は間違いない。
卒業後・修了後に見つかれば、卒業や修了、学位の取り消し処分がなされる。
悪いことをわかっていて軽い気持ちでやったとかなら本人が悪い、ということになるが、そもそもどこまでがダメかがわからん、ということなら、学生にも少し同情の余地がないではない。
ただ、こんなのは知っていて当然な上に、学則にやっちゃダメって書いてあることがほとんどなので、知らなかったでは済まされない。
なので、今回はこれについて書く。
いつもは読み飛ばす人も、こればっかりはしっかりと読んでおいた方がいい。

さて、今回はその剽窃編。
書くことと研究計画に関する不正、と思っていただいた結構。

論文の基本

論文が不正にならないためには最低限以下を満たす必要がある。
(1)自分のアイディアで計画を立て、自分で実施する
(2)自分で表現する

これは何も研究に限った話ではない。
あらゆる表現物やお仕事は多かれ少なかれこれらを満たす必要がある。
特に、(2)については、守らない奴らを罰する法的な枠組みがたくさんある。
そのくらい重要な事項であることを頭に入れておきたい。

これらを守らないのが、研究不正となる。
卒論生・院生は、基本的に自分で考えて自分で書け、というのが基本的な守るべき事項ということなる。

剽窃とは

文部科学省(2014)は盗用を以下のように定義している。

盗用
他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究結果、論文又 は用語を当該研究者の了解又は適切な表示なく流用すること。

剽窃は上記文書の中では言及がないが、一般的に他人の著作を自分の著作物の中に無断で使うことを指す。
盗用のうち、文書に関する部分を特に剽窃と言うと考えていただいて構わない。

何がアウトで、何がセーフか

まず、コピペ。
これは1発アウト。
1行でもコピペがあったら、アウトと思って欲しい。

次に、コピペしたものの一部表現を変える。
これもアウト。
基本的に大部分が同じなので、ダメ。
一部を他人著作から流用しているのでアウト、と言うことになる。
いや、これくらいバレないだろう、と思われるかもしれないが、バレる。
これについては、コピペはバレるを読んでいただいて。

基本的に、自分で書く、表現する、というのが必須。

次に出てくるのが、本や論文をコピペではなくて、真似して打ち込むこと。
これは、やり方の違いであり、コピペと変わらない。
他人に代筆してもらった、もバレにくいがダメ。
何度も言う。
自分で表現しなくてはならない。

セーフなものは何か。
まず、他人の言うことを論文で使いたい場合。
これは、引用という方法を使う。
原典を明示して、お作法に習って引き移す、もしくは要約する。
分量書き方その他いろいろお作法があるが、それに従っていれば剽窃には当たらない。
やり方に関しては、レポートの書き方本にあるので、それを参考にしてほしい。
この辺りが参考になる。
なお、剽窃・盗用・引用については、レポートの書き方本の基本として書かれており、論文を書くにあたりこれらの本の内容くらいは頭に入っていることが想定されているため、不正した場合、知らなかったが通ることはまずない。
聞いていないだけで、たいがいどこかで繰り返し説明されているはず、となる。

論文の表現としてどんなものがあるか、を複数の論文で確認する、というのはあり。
論文の表現や構造、というものはあって、自分の書いた表現がそれに当てはまっているかがわからない。
「示す」という表現は使っているのか否か、どういう時に使っているのかなど。
基本的に自分で書いていることを前提として、その表現の細部を確認して改めるというもの。
論文の表現技法を学んでいるだけなので問題はない。
盗んでいない、というのが大事なポイント。

詳しくは、論文の書き方本を読み込んでいただいて。

なぜバレるのか

教員がなぜ気づくのかについては、コピペはバレるを読んでいただいて。
これはすぐわかる。
こちとら、書き手のプロであり、読み手としてもプロであり、教育のプロでもある。
なめてはいけない。

では、いつバレるのか。
自分の指導教官をスルーできても、普通は複数人審査教官がいる。
副査だったり指導教官以外の主査だったり。
指導教官にバレた場合であれば、提出前であればキツイお説教ともに書き直しを命じられてことなきを得る場合も多い。
問題は、指導教官以外の教員にバレた場合。
これは、提出後審査のプロセスに入っていることが多く、不正認定の上、卒業延期となる。
おそらく、組織の教員全員に不祥事と共に名前を共有されることになる。

他にもある。
最近では論文を公表しよう流れがあるため、卒業後指導教官が公表するために内容を見直すことがある。
この過程でバレる。
僕が卒論生の論文を公表する場合、中身のチェックはかなり入念にする。
引用している場合、引用元の内容と照らして言い過ぎではないか、までかなりしっかりチェックする。
公表してから何か不備があると、学生の名前にも傷がつくので、そこはかなり慎重にやる。

他者からの指摘でバレることもある。
なんらかの事情で、論文が剽窃した元の著者の目に触れてしまうことがある。
その結果、これは自分の論文の盗用なのでなんとかしろ、と大学に垂れ込まれる。
こうなるともうどうにもならない。
著者以外の第3者が指摘することもある。
代筆していた人が告発する場合などもあるか。
最近は、剽窃をチェックするソフトウェアがあって、それでバレる可能性もある。
博士レベルだと、ひどい不正をやらかした人がきっかけとなり、過去の論文チェックが行われ、、、みたいなパタンもある。
怖いですな。

卒業後・修了後の場合は、不正認定委員会あたりにかけられ、認定されることになる。
時効がないので、いつバレるか全くわからない、ということに注意が必要。

バレるとどうなるのか

卒業・修了前だと、組織に処分され卒業・修了が延びる。
所属学部・学科では、不正の人ととして、名前が共有される。
ただ、これは教育上の措置であり、教育しようとしているだけまだいい。

では、卒業・修了後はどうなのか。
さかのぼって、卒業・修了が取り消され、学位が取り消しになる。
その時点で、職についている場合、これがどんな影響を与えるか、わかるだろうか。
特に、学位が仕事上重要な場合、それはそれは大変悲惨なことになる。

まあ、そんなわけで、不正はするなってこと。
こんな爆弾を抱えて生きていくくらいなら、留年・卒業延期の方がまだマシだと思わないだろうか。
不正をせずに、能力を身につけて卒業・修了した方が、社会に出ても活躍できるだろうし。


長くなった。
ではまた。




大雪の鳥取市内にて。


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2024/01/21 14:10
休日の大事さを噛み締めながら。
ドトール鳥駅にて。



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谷中研究室に関するQ&A:学部編

研究室(学部ゼミ)配属について、よくある質問をQ&Aとしてまとめてみました。
ゼミを決める時の参考にしていただければ幸いです。
なお、大学院修士編、もいずれあげる予定です。
また、研究室のあれこれについてはこちらにも書いています。
まだの人はお読みいただいて。

Q:特別支援教育には興味ないのですが、大丈夫ですか?

大丈夫です。
障害に関することの他に、心理学・発達の分野で研究ができます。
教科教育について、その学習過程を心理学的に研究、特別支援的な観点(できない、に注目するなど)というようなテーマもありえます。
脳波計などを使って、生体から信号を計測するような研究もできなくはありません。
テーマに関してはかなり幅広く設定できます。

Q:特別支援の免許を取らないのですが、ゼミに入れますか?

問題ありません。
過去のゼミ生を見ると、免許なしが半分くらいいます。
なんなら、僕の授業を一つもとったことないという強者ゼミ生も何名かいます。

理由としては、心理学がやりたかった、発達研究がやりたかった、脳に興味がある、特別支援学校以外の仕事を志していて、障害のことを勉強(研究)したいと思った、などがあります。
幼児教育関係、小中高の教員志望組、研究志向、あたりの学生さんはわりときます。

Q:ゼミでは何をやりますか?

メンバーが順番に論文紹介をしていきます。
興味ある論文を自分で探してきて、メンバーと内容を共有する、というのが基本スタイルです。
3年生前半は研究論文の読み方、方法論の勉強、様々な分野の勉強などが中心になります。
これらを主な目的として、ゼミでの論文共有(発表)をしていきます。

3年生後半は、自分の卒論のテーマ決めるために、引き続き論文紹介していきます。
この時期は、ゼミで発表するために論文を読むのではなく、日常的にたくさん読んでいる論文の中から選りすぐりをゼミで紹介するような感じでしょうか。
3年最後に、研究計画の初版完成を目指します。
必要に応じて、方法論の勉強会なんかをやったりするのもこの時期。

4年生は前半に論文紹介と研究計画発表を。
後半になると卒業研究進捗報告会、大相談会と化します。

通常のゼミは以上のように進みますが、これに加えて、異学年合同のゼミ、というのを月1くらいでやります。

Q:どんな能力が身につきますか?

ちゃんとやる(時間をかける)と、学部レベルとしてはかなりいい線の研究能力が身につくと思っています。
と、同時に、研究したトピックに関しては、学内では1番詳しくなっているはずです。

ただ。
卒業研究、卒業論文は、あくまで教育上の教材と位置付けています。
これは、世間の大学教員の中ではマイノリティになるかもしれません。
作品としての研究の質の高さ、よりも、その過程で身につく研究以外の各種能力というのを重視しています。

人によって時間をかける領域が異なるため多様ですが、論理的な思考・説明などをする力はわりとみなさん身についている印象があります。
論理性と地続きなのが、問題発見解決の能力。
これもいいセン行きます。
他には、プレゼンする力、物おじせず質問する力、書く力なども鍛えられます。
副次的なものとしては、データを読む力、統計的素養、パソコンを操る力、なども。
全然エクセルができなかった学生が、卒業後職場でエクセルのエキスパート扱いされている、と報告を受けたこともあります。

Q:厳しい、と聞きましたが本当ですか?

うーん。
あまり、厳しくないと思います。
少なくとも、管理したり怒ったり、というのはないです。

厳しい、という部分を挙げるとすれば、研究全般に対しては理想論を言うので厳しく見えるかもしれません。
研究の質の部分に妥協して、いーよいーよ、なんてことは言わないので。
ダメなものはダメ、アマイものはアマイ、と言います。
その部分は厳しく見えるかもしれません。

厳しい、と言われるのは、たぶんゼミ生自身の研究を見る目が厳しくなるから。
ゼミ生自身の要求水準が上がるので、やることがたくさんになって他より忙しくやっているのが外から見ると厳しく見えるのだと思っています。
基本的に「好きにしたらいいよー。でも、それやると、こうなるよー。それでもいいなら、やったらいい。」というような、感じで選択はゼミ生にしてもらっています。

Q:放置、と聞きましたが本当ですか?

放置、ではなく、管理しない、が正しいです。
緩やかな注意喚起はしますし、指導は定期的にします。
求めれば最優先で対応するので、密にやりたい人はかなり密に、そうでない人は疎に。
そんなふうに進みます。

それを放置というのであれば、放置なのかもしれません。
なお、放置っぽいからやめたのに、これなら先生のところにしておけばよかった!というのは言われたことがあります。

指導では自由と自主性を重んじていますが、求められれば、時間は僕の研究よりもはるかに高い優先度を持って対応します。
ただ、アドバイスはいくらでもするけど、僕が決めて学生は指示通りやる、というのはしません。
それでは教育にならないので、意図的に避けています。

Q:能力に自信がありません。ついていけるでしょうか?

時間が使えるのであれば、気にしなくて大丈夫です。
ちゃんと育てます。
逆に、育ちたくない、育てられたくない、という場合はミスマッチなのでやめておくのが無難だと思います。

それと。
研究で伸びる伸びないは、これまでの学業成績の高低とはちょっと違うと思っています。
試験テクに長けていて成績が高かった学生が研究では伸び悩む、というのはよく見ます。
逆に、成績はそこまで良くないのだけど、研究ははまる、という場合もあります。
なお、大学教員は学生時代成績がよくなかったタイプが一定数います。
僕もGPAがあったならばそこまで高いタイプではなかったと思います。

Q:他にウリはなんですか?

教員へのアクセスのハードルが極端に低い。
お菓子の供給がある。
くらいでしょうか。

酒カスなのでねだると酒も飲めます。




修繕中の姫路城。


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2024/01/20 18:57
久々鳥取休み。
ドトール鳥取駅にて。



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Update 2024/01/20
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なぜ指導教員は前と言っていることが違うのか(大学教員・研究者という生き物 12)

なぜ指導教員は前と言っていることが違うのか。
卒論生・大学院生と話していると、時々こういうことを言われることがある。
これは結構よくあることらしく、場所・人を問わず、聞く。
そういえば、僕も院生時代、これに覚えがある。
え、それ、先生が言ったからやったのにー。
なぜそれやったのか?はないんじゃない?
そのことは前に先生に言って、うんって言ったじゃん!!
聞いてないとはひどい。
まあこんなところか。
前回と言っていることが真逆じゃん、なんてこともあるかもしれない。
なお、これは、指導教員に限らず、世の上司にも共通していると思うので、「指導教員」を「上司」に読み替えて読んでいただいてもそんなに外さないと思う。

さて。
指導される側だった僕や友人たちも時々ぼやいていたこと。
でもね、これ指導する側になると、なんで起こるかがよくわかる。
教員側は、それ以外の人が思っているのの数倍は忙しい。
一人で何件も指導学生を抱えており、他に授業もやっていて、事務仕事も多い。
特に、指導学生の部分が大きく、同時並行で全然違うテーマを数件指導している。
するとね、誰に何を言ったか言っていないか、このあたりがわけわからなくなりはじめるのだ。
もちろんそうならないように、工夫はする。
学生ごとにカルテメモのようなものを作ったり、前の指導した時に使った資料を見直したりもする。
ただ、そのメモも完璧には取れないし、メモする前に別の緊急案件で中断されたり、別の学生が間髪入れずに質問に来たりする。
そうなると、記録も残らず、振り返ることにも限界がでてくる。

それでも、なんとかなることは多い。
同じ資料に目を通してその場で考えれば、指導する内容はだいたい同じところに行き着く。
それで、その場で一生懸命考えながら、前に言ったことを思い出しつつ、指導する内容をその場で紡ぎ出す。
大体はこれで問題は生じない。
ただ。
人は気まぐれな部分もあれば、見落としもある。
前回うっかり見落としていた箇所があり、でも今回はそれに気づいて、その結果指導内容が異なるところに行き着く。
しかも、見落としていた事実自体に気づくことができない。
そんなわけで、言っていることが違う!ということになってしまう。
他にも、他の人への指導内容や指導で言った記憶が混ざってしまって、それがその場で思いつく指導内容を変えてしまうこともある。
日々指導しているので、与えられる文脈情報が刻一刻と変化している。
その結果、我が愚脳が導き出す出力内容も異なったものになってしまう。
おそらく、スーパー優秀と思っていた指導教員にもこういうことが起きていたのだと思う。
なお、これは自分の研究でも起きることで、Aだと思って作業を進めていたものの、作業しながら考えて行くうちに「これはAではなくてBなんじゃないか」と、考えを変えることはよくあること。
研究という営み自体に、そういう要素がある。
かくして、言っていることが違う指導教員が出来上がる。
僕は、これは避け難いとある程度あきらめていて、学生さんにその旨を伝えて、自分が前回言ったことの確認から入ることもしばしば。
間違うこともあるので、そういうことが起きたら指摘するように言ってある。

さて。
じゃあ学生(あるいは、上司に相対する部下)はどうしたらいいのか。
もうこれは簡単で、コイツ(指導教員か上司)は覚えちゃいないので、そのつもりで話す、資料を作る、に尽きる。
お前のこの指摘に対応して、こういう作業をやって、こうなった、とみせる。
まあ、ドラマやアニメでいう「前回のあらすじ」のような説明を少しつけるようなイメージ。
僕は自分の能力のポンコツさには全幅の信頼を置いているので、すまん忘れた、前回オレ何言ったっけ?と聞けるけど、そういう人間ばかりではない。
そこで、指導教員(や上司)にあらかじめ共有したい文脈情報を与えてしまう、というやり方。
これ、わりと有効で、僕が上司や共同研究者とやりとりする時にはこのやり方をするようにしている。
すると、結構スムーズに物事が運ぶ。
これはわりとオススメ。
あらゆるシーンで役にたつちょい技。

まあもちろん、そのくらい指導教員(あるいは上司)の側でどうにかしろよ!という意見はあると思う。
スジ論としては極めてごもっとも。
ただ、やってみるとどうも難しいのだ。
これはポンコツな側の僕だけでなく、スーパーエース級能力なはずの指導教員であっても起こる、というのがその難しさを物語っている。
まあ、スーパー優秀な人にはスーパーな量のお仕事・指導学生がやってくるので、やはり能力の限界を超えてしまうということなのだと思う。

ではでは。
また。




羽田空港にて。


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2024/01/21 14:10
休日の大事さを噛み締めながら。
ドトール鳥駅にて。



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