週刊雑記帳(ブログ)

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障害とは何か

障害とは何か。
今回はこれについて書いてみる。
僕の障害観と考えていただいてかまわない。

世の中、障害という言葉があふれている。
発達障害、知的障害、視覚障害聴覚障害
障害という言葉はついていないが、特別支援教育には肢体不自由や病弱といった障害種もある。

さて。
障害というものをどう捉えるのか。
世間の素朴な理解としては、「できない」に注目することが多いか。
「できる」人が多い中で、「できない」人がいる。
見ることができない、聞くことができない、歩くことができない、文字が読めない、などなど。
「できる」が一般的な中で、なんらかの事情で「できない」を持っている人がいて、これを障害と捉える。
多くは疾患や怪我などから生じると考えられており、健康でない状態から生じるものという捉え方。
これを医学モデル、といい、障害を個人に由来するのものとして捉える、古くからある考え方である。

一方で、「できない」を社会の仕組みに求める考え方もある。
これを社会モデルという。
例えば。
足が悪くて歩けなかったとしよう。
しかし、車椅子という道具が社会にあれば移動はできる。
その社会において、エレベータがあらゆる施設に設置され、段差が全て取り除かれ、移動に関してなんの問題も生じなければ、移動に関しては障害がある、とはもはや言えない。
同様に、歩けなかったとしても、歩ける人と全く同じ生活を送れる社会であれば、障害は生じない。
このように、社会の仕組みが障害を生んでいる、という捉え方が出てきた。
この社会モデルが現代的な障害の捉え方で、障害関係の国際的な宣言・条約、各種法規・制度はこの考え方を基礎に置くようになってきている。

と、まあ、ここまでは知っている人も多いことと思う。
障害関係の教科書を読めば、必ず書いてあるし、授業でも必ず習う。
ただ。
教科書的な記述はこの辺りで止まっていて、これ以上深められていることは少ない。
社会が障害を生み出しているので、生み出さないように社会を変えていけばいい。
そのために、環境を整備したり、個別に配慮したりしよう、という流れの記述が続くことが多い。

まあ、それはその通りなのだけど、ここではもう少し、障害の捉えを深掘りしてみたい。
社会が障害を生み出す、だから障害を生み出さない社会にしよう。
こういうことを言うと、必ずでてくる意見が、配慮しすぎるのは大変、コストがかかりすぎるから無理、とかそういう否定的なもの。
これらの意見に対してのカウンターとしては人権等の権利保障の観点からのものが多い。

今回はちょっと角度を変えて。
そもそも、なんで社会において障害が生まれるのだろうか。
こう問いかけると、たいがい出てくるのは「足が動かない」「目が見えない」等の医学的な何かがあって、それが社会において不利になるから、という答えが返ってくる。
医学モデル的な理解。
しかし、医学的な何かが起点となって、社会において障害が生じる、というのの本質はどこにあるのだろうか。
なぜ、医学的な何かがあると、社会において障害が生じてしまうのだろうか。

これは、社会がマジョリティによって作られるから。
社会というものは、多数派によって平均的な人間に合わせて作られている。
一方、「足が悪くて歩けない」「目が見えない」「文字が読めない」などの特性を持った人は、マイノリティーであることが多い。
そのため、多数派によって作られた社会にてうまく適応できない、ということが起こる。
これが障害である、というのが僕の障害の捉え。

この捉え。
簡単な思考実験をしてみると容易に理解ができる。
例えば。
ある社会において足が悪くて車椅子の人が9割で多数派だったとしよう。
すると、社会の構造や仕組みを作る人が車椅子に乗っていることが多いわけなので、自然と段差は無くなるし、階段による上下移動を前提とした構造は作られない。
車椅子であることがなんらかの不利に働くような構造や仕組みは無くなるはずなので、そもそも社会において障害が生じない。
目が見えない人が多数派なら、視覚による情報伝達手段はほぼ使われないだろうし、文字が読めない人が多数派なら音声による案内が街にあふれることになる。
つまり、障害というのはマイノリティである個人の持つ特性が、マジョリティの作った社会に合わない、ということが本質である。
この構図は、障害のみにとどまらず、性的マイノリティなどさまざまなマイノリティの問題に共通している。

マジョリティによって作られる社会がマイノリティに合わない、というのは仕方ない部分がある。
人間の想像力はそんなに強くない。
自分以外の人が持つ何かについて想像することはそんなに簡単ではない。
その結果として、最初に出来上がったものがマイノリティに合わないというのはどうしようもない。
ただ。
だからと言って、マイノリティはマジョリティの作った社会に合わせろ、というのはどうだろうか。
たまたまマジョリティであった人が、こちらもたまたまマイノリティであった人に、数の力で何かを押し付ける、というのは乱暴で正当性がない。
想像力が及ばないことが要因でマイノリティに合わない社会が作られた。
だったら、最初に出来上がったものがマイノリティに合わないことがわかった時点で、マイノリティの声を聞いて手直ししていけばいいし、構造や仕組みを直し難い場合は個別に配慮したらいい。
コストがかかろうが、少々手間がかかろうが、障害が生じる背景を考えるに、そうすべきものだと思っている。
ここまで掘り下げると、マイノリティに対して「わがまま」「自分勝手」というような批判は出てこないのではないだろうか。

以上、僕の障害観を文字にまとめてみた。
これは今の考え方で、いろいろな事を知って考えていくうちにまた変わるかもしれない。

では今回はこのへんで。
また。




たぶん鳥取市内。
散歩中に撮った。


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2024/04/06 21:26
本日2本目。
鳥駅スタバにて。



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Update 2024/04/06
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