週刊雑記帳(ブログ)

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できないことは才能かもよ

大学生くらいになると、まあうすうす気づく思う。
人の能力って、生まれながらに平等ではない。
生まれながらに、歴然とした差が存在する。
同じ勉強をするにしても、血の滲むような勉強量が必要な人もいれば、一度聞いただけでさしたる努力もなく理解してしまう人もいる。
生まれながらの才能って、やはりあるのだ。
なんて夢も希望もない話を始めるんだ、と思われた方もいるかもしれない。
が、そんなことはないので、最後まで読んでいただきたく。

さて。
僕は今、先生を目指す大学生にいろいろ教えるのを仕事にしている。
地方の国立大学で、東大や京大のようにトップレベルの大学ではない。
そのせいか、時々あるタイプの学生さんに会うことがある。
自分の専門分野について、生まれ持った才能という点で自信がないというのだ。
専門分野を深める速度が遅く、劣等感というかコンプレックというか、そういうのを持っている。
TOEICが900点超えのような、高い英語力があるわけではない。
東大数学科のような高度な数学能力などない。
読んでいる人の中でも、思い当たる人、いるのではないだろうか。

ただ。
僕は「できない」というのも才能だと思っている。
何をバカなことを、と思われるかもしれない。
でも、よく考えてほしい。
「できない」というのは生まれ持ってその領域に特別の才能がある人は経験できないのだ。
経験するにしても、かなり高度なところでしかそうならない。
彼らは「できない」経験をしたくとも簡単にはできない。
一方で、「できない」経験をなんの努力もなくたくさんできてしまう人もいる。
生まれ持った才能と言えないだろうか。

こんなこと書くと、そんな才能なんの役にも立たない、バカにすんな、と怒られそうである。
でもね。
この才能は、教員になる、という点では武器になる。
多くの場合、学校には多様な子どもたちがいる。
当然、つまずくのは日常茶飯事である。
この時、自分でもつまずいた経験がある、というのが、役に立たないわけがない。
どこが難しいのか、わかる。
どうやって克服したのか、知っている。
つまずいた時の教え子の気持ちがわかる。
これは強い。
「できない」が多ければ多いほど強い。
トップのスーパーエリート学校の教員になるとか数学者や通訳などの専門家になるとかでない限り、高度な専門的能力よりも、教える力の方が役に立つ。
そして、「できない」を克服した数が多いほど、教える力は持ち上がる。

逆に専門領域の才能にあふれていて、その上で学校の先生になった場合、教え子の「できない」を理解するのに多大な努力を要することになる。
その努力をしなければ、難しくて何言ってるかサッパリわからない先生、というのが出来上がる。
小中高大と、そういう先生を見てきたのではないだろうか。
もちろんそういう先生も才能あふれるトップ層の生徒・学生には必要なのだが、それでは困る生徒・学生の方が多い。
そういう先生になりたいということであれば、確かに「できない」経験は役に立たないということになるかもしれないが、教員を目指す学生さんでそこを目指す人にはほとんど会ったことがないし、需要もそんなに多くない。
そう考えると、先生になる上で「できない」は才能になりうる。
ご理解いただけただろうか。
もちろん、教員志望でなくともどんな分野でも後進を育てる立場にはいずれなる。
そのときにも「できなかった」経験はきっと役に立つことと思う。

そんなわけだから、あまり専門的に才能ないんだ、なんてなげく必要はないよ、という話。
まあ「できない」を「できなかった」にするための努力は必要だけれども。
もう少し自信を持ってもよいと思う。
必要な専門性はのんびりと上げていけばいい。


ではまた。




オレの野球の才能はあんまだった。
克服も努力も大してしなかった。
でも楽しかったし、いまだに好き。


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2019/10/13 19:51
休暇中。
鳥駅ドトールにて。


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Update 2019/10/13
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