数年前、Twitterで教育はサービスだよ、とつぶやいたところ、主に学生クラスタから反響があった。
こちらから見えない形で反応しているものが多かったので、クソ、何言ってやんがんだ、バカタレ!!とお怒りの反応だったんじゃないかと思っている。
さて。
今回は改めてこう主張する。
教育とはサービスである。
まあ、サービスにもいろいろな意味があるので、ここでは奉仕、と捉えていただくとより正確か。
おまけ、という意味ではないので、そこは誤解なきよう。
まず、ありそうな反論が、それが仕事なんだからサービスもないもんだ、というもの。
おっしゃる通りだと思う。
仕事でやっているわけだから、職責を果たすべきである、というのはその通り。
プロとして教育業務を粛々とこなすべきである。
ただね。
教育というのは、終わりが見えない、やろうと思えばいくらでもすべきことが出てくる営みである。
授業の準備なんていくら時間を使っても完璧なんてことにはならない。
できる学生をもっとできるようにするための働きかけなんて無限にあるし、やる気のない学生をやる気なってもらうような工夫、もやはり無限にある。
どこまで行っても、ここでおしまい、というポイントがない。
もともと、教育というのは本質的にそういう営みのことを言う。
まあ家庭教育なんかを考えるとわかりやすく、時間だろうがお金だろうが、かけようと思えばいくらでもかけられるのが教育、というのがわかるのではないだろうか。
それでいて。
教育をする側には直接的な見返りは特にないのがまた特徴。
教育にいくら時間を使おうが、お金を使おうが、教育を受ける側には能力が伸びるというメリットがあるものの、教育をする側には特に直接得るものはない。
むしろ時間等の資源を使った分、教育する側の教育以外の側面の成果が阻害される。
大学教員だと研究に使える資源が減るし、幼少中高の先生なら時間使った分だけプライベートの時間が減る。
職業教員ではなくて、仕事において先任者が教育する場合はもっと大変で、時間をかけた分、自分の仕事にかけられる時間は減ってしまう。
にもかかわらず、教育の成果なんていうのは極めて見えづらいので、教育に対する組織からの評価は著しく低い。
もちろん教育の重要性をよくわかっている評価者もいるのだけど、なにせ見えづらいので評価にのらないことの方が多い。
教育ほど第3者評価が難しいものはあまりないと思っている。
すると。
教育に対しては悪目立ちしない程度にほどほどに取り組むくらいが本人とってはお得、ということになってしまう。
ほどほどに教育に資源を使って、評価されることに最大限資源を注ぎ込む。
個人の戦略としては、それが1番お得なのはおわかりのことと思う。
かくして、教育ほどほど・評価軸特化型ギラギラ勢が「デキる」職業人として幅を利かせることに。
しかし。
学校でも、会社でも、どこでも、教育熱心な人間というのはいるもの。
こういう人たちの教育に対するモチベーションは、自己の評価や利益というところから超越している。
教育した個人の能力が上がることにより、組織や社会が良くなる、という公的なモチベーションによる場合。
教育を先人としての義務と考え自らに職責として課している場合。
教育した個人が成長すること自体がうれしい場合。
自己の評価や利益に結びつかない形の、様々なモチベーションに支えられて教育に力を注いでいる。
教育は本質的に奉仕の側面が強い、というの、おわかりいただけただろうか。
これが「教育はサービスだよ」とつぶやいた真意。
周りにそういう先輩・上司・教員がいたら、そういう目をもって接してみるといいと思う。
どんなモチベーションであれ、あなたに伸びてほしい、と思っていることは共通している。
うまく関わって、自分を伸ばすための機会として活かしてほしい。
このタイプの人たちは、離れた後でも困った時に力になってくれることが多いので、相手の立場を理解してよい関係が築けるとなおよいか。
では、今回はこの辺で。
また。
たぶん、12月の横浜。
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2024/11/04 19:14
コーヒーを飲みながら。
鳥駅スタバにて。
Update 2024/11/04
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