週刊雑記帳(ブログ)

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どうせ評価指標は変わるんだよ

僕は評価というものに対して結構懐疑的。
GPA、TOEIC、業績評価、などなど、世の中評価があふれているわけだが、それを追い求めることに対して否定的な態度を取ることが多い。
他人に評価されたい。
会社や業界などで評価されたい。
潜在的なのか意識的なのかは人によるが、多かれ少なかれ、これらは行動に影響を与える。
評価されるように資格を取る。
評価されるように学業成績を上げる。
評価されるように求められている能力・技術を身につける。
評価というのは、行動を誘導するような性質があるので、当たり前と言えば当たり前。
この辺りは、「評価の性質」にも書いたとおり。

しかし。
僕は評価を上げるための行動、というのはやりすぎると間違うと思っている。
目先の評価のために、今日はこれをやる、今週はこれをやる、今月はこれをやる。
一見主体的に自分の行動を決めているように見えるのだけど、実は他者の決めた評価指標にしばられている。
そして、評価は仕事人生が終わるまで、場合によっては死ぬまで付きまとう。
本当にそれでいいのだろうか。
気づいたら、自分の人生は他者に支配されていた、なんてことになるんじゃなかろうか。
いつからだったか、そんなことを考えるようになった。

評価指標がいつまでも変わらないのであればまだいい。
評価を追うことで、評価される能力が蓄積され、それなりに成功できる。
ただ、評価指標というのは、ある時突然、ガラッと変わってしまうことがある。
それは、自分の努力とは無関係な、外からの事情によって起こることがほとんど。
例えば、機械の導入によりそれまで評価されてきた職人技術が評価されなくなる、なんかがこれ。
GPAなんて、卒業してしまったらそれっきりほとんど役に立たないので、評価指標としてはガラッと変わることがあらかじめ予定されている。
世の中、そういうものであふれている。

だから、僕は、あまり評価や評価指標にこだわらず、自分で大事だと思うことを自分で決めてやるようにしている。
もちろん、仕事をしていれば評価・評価指標が重要になる場面もある。
その場合は、いくらかはそれをこなすものの、自分で決めた行動基準を最大限尊重する。
基準はいろいろあるのだけど、楽しいか否か、も結構重視している。

さて。
なんでこんなことを考えるようになったかといえば、おそらく高校時代・大学時代の不景気のせい。
かなり重い不景気がやって来て、多くの中高年がリストラにあった。
もちろん、身近なところでも結構あって、そういうのをよく目にした。
そして、リストラにあった中高年サラリーマンはなかなか再就職ができなかった。
この時、リストラする側やそれを眺めている若手の論理は、会社の中でしか通用しない技術・能力しか身につけていなかったのだから仕方ない、といったものだった。
成果主義時代、どこでも通用する技術・能力を磨いておく必要があったのに、それを怠ったからだ、と。
若かった僕も、一理あるなと思わないではなかったが、この論理、たぶん間違っている。
リストラする側の本当の理屈は、不景気で約束していた高い給料を払えなくなったからで、再就職できないのも不景気で人が余っていたから。
それに、会社の中でしか通用しない技術・能力というのは、その会社の中ではかなり評価される評価指標に沿ったものだったはず。
評価を追い求めて、評価指標に沿った技能・能力を獲得した結果、不況で評価指標自体が大きく変わってしまい、役に立たなくなってしまった。
そういういった側面を目の当たりにした結果、評価や評価指標なんて脆いもんだと思うようになった。

まあ、そんなわけで。
どうせ評価指標なんて変わる。
だったら、自分の内側に自分自身で大事なことを決めて、他人の評価とは少し距離を置いて日々の行動を決める、というのもいいんじゃないだろうか。
そのほうが人生楽しいし。
評価が気になるまじめなそこのあなた、ちょっと立ち止まって考えてみてはいかがだろうか。

ではでは。
また。




鳥取駅にて。

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2023/07/01 10:27
最近大忙し。
鳥取市内にて。



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Update 2023/07/02
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