僕が大学生の時。
大学の授業にはひどいものが残っていた。
授業のレベルが学生に全くあっていないもの、準備を全くしていないと思われるもの、教科書を読み上げるだけのもの。
学生のことを考えて練られた授業というものもあったものの、ひどいものもいくらかあった。
これが、僕が一時期大学教員になりたくなった動機でもある。
この辺りは、別の記事にも書いた。
当時、それがよしとされていたわけではない。
昔から行われてきた学生置き去りの大学教育は当時すでに問題になっていて、いろいろと改善されてはいた。
その後も大学教育の質向上は課題とされ、さまざまな取り組みがなされてきた。
FD(Faculty Development、教育の質向上を目指した各種研修)、授業アンケートの導入、シラバスに基づく授業の実施、休講分は補講を原則とする、などなど。
昔に比べると今の大学教育はずいぶん改善された。
ただ、今なお、大学教育がよろしくない、と感じる人はいると思う。
では、これ以上大学教育がよくなるのか、といえば、現状ではなかなか難しいと思っている。
これは個人の問題というよりは、大学という仕組みの問題に起因する。
教育をする側の人間として、この問題について考えてみたいと思う。
今回は導入編。
まず。
ここ20年の大学教育の改革で、古い時代の問題点はだいぶあぶり出されて改善された。
実践的な積み上げと共有も進んだ。
何をやれば大学教育がよくなるのか、わかっているものも多いと思う。
しかし、実践するだけの時間がない。
大きくはこの問題が大きいと思う。
時間がない理由は様々ある。
教員削減の問題、1つの授業にかかる準備時間の議論がない、大学改革によってより時間が必要になった、など。
研究者が教育を行う、という従来型の大学教育の限界もあるかもしれない。
ただ、大きな原因は時間だと思っている。
言い訳じみているかもしれないが、教育は準備にいくら時間をかけるかで質が左右されるのは間違いない。
そして、その時間がとれない、というのは事実として存在する。
この議論を抜きにはこれ以上の質向上は難しいと思っている。
次回は問題を深く掘り下げていく。
が、今回はここまで。
ではまた。
門司港駅か。
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2021/08/01 14:47
休暇中。
鳥駅スタバにて。
Update 2021/08/01
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