週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

日本語の論文は必要

英語は研究業界の共通語である。
よって研究者は英語で論文を書くべきである。
日本語の論文なんて不要。
研究業績としては評価しない。
この業界にいると、そういう極端なことをおっしゃられる方にお会いする。
と、いうか、それがスタンダードで疑われてすらいない分野もある。

ただ、僕はこの意見は間違っている、と思っている。
今回はこのネタについて。

なぜ、英語なのか

なぜ、論文は英語で書くべきなのか。
これは、英語が研究業界の共通語として認識されているから。
使用人口は非常に多く、英語が母国語でなくても研究者であれば英語ができることが多い。
そもそも、その言語系が必ずしも研究や高等教育に耐えられるとは限らず、母国語で研究ができないという国の人もいる。
こうなると最初から英語を使うことになり、研究業界における英語使用率が上がる。

そんなわけであるから。
英語で論文を書くと、世界の人に読んでもらえる。
限られた、閉じられた社会ではなく、広く世界に成果を発信して、批判にさらされてダメなものは淘汰され、いいものは他の研究に影響を与え、世界の研究業界の発展に寄与する。
査読(論文の審査)も英語であれば全世界の研究者によって行われることになり、母国語のみよりはレベルが高くなる。
こういったことを通じて、世界的に研究が進んでいき、専門知が発展していく。
知識は人類全体の財産である。
よって全世界で共有して発展させていくのがよい。
まあそんなところか。

この意見自体には異論はなく、その通りだと思っている。
ただ、僕の場合、知識を共有する人の範囲が業界スタンダードとズレている。

想定読者は誰か

これは当たり前のことなのだが、論文は誰かに読んでもらいたいから書く。
誰に読んで欲しいのか。
主に世界の研究者に読んでほしい、ということになると、これは共通語の英語で書く、というのが理にかなっている。
世界中の研究者に問うて、誰かがそれを受けて別の研究をする。
問題があれば、叩かれたり議論になったりする。
そういう営みを通じて人類の知識が積み上がっていく。

ところが。
これが分野毎に異なる場合がある。
文化や社会制度などの違いから、日本国内の研究者間でまずは情報を共有したい、という場合もある。
例えば、日本の教育制度の問題点について論じるときなんかは、想定読者は国内の研究者ということになる。
この場合、いちいち英語で書く必要はない。
というか、文化や社会制度が大きく異なる海外研究者向けに書く場合と、それを共有している国内向けに書くのとでは書き振りが異なり、後者の方が深い議論が可能。
英語で書く方が質が低くなりかねない。

想定読者が研究者でない場合もある。
例えば、教育系だと現場の先生、医療系だと現場で働く看護師や福祉職の人だったりする場合があるか。
行政で生かすということになると、公務員にも読んでほしい。
この場合、英語で書くと読んでほしい人に読んでもらえない。
医療系で研究しない医者がターゲットという場合なら、まあ読んでもらえるかもしれないが、多くの非研究者は英語という時点で敬遠をする。

想定読者は誰なのか、は結構大事なポイント。
分子生物や物理学など、世界共通の知を作っている分野の人にはわからないポイントかもしれない。

学生教育と分野の発展のため

僕は脳科学や心理学の中でも、実験を用いた研究を専門とする。
研究室の運営方針としては、自分で興味ある分野を探して自分で研究テーマを探す、というものなので、必ずしも学生さんが実験をやるとは限らない。
が、それにしても、あまりにも実験を選ぶ学生さんが少ない。
というか、一時期まで皆無だった。

今どきの学生さんにとって実験はつまらないのかなぁ、などとずっと思っていた。
しかし、ある時に気づいてしまった。
脳科学や心理学の実験研究は、人類共通のこころの機能の解明を目指しており、想定読者が世界中の研究者となりがちなため、日本語の論文がかなり少ない。
その点、面接や観察を用いた質的な研究、日本語の質問紙を用いた研究は日本語の論文も多い。
すると、日本語で書かれた論文から入る学生さんは、実験研究の論文にたどりつくことなく、研究テーマが決まってしまう。

いやいや、英語で読めよ、と思うかもしれない。
でも、大学院生ならともかく、大学生くらいだと英語で論文を読むのはハードルが高い。
それでも、論文の存在に気づけば英語でも読む。
ただ、探すところまで英語、ということになると、相当にハードルが高くなる。
結果、日本語の論文が多い分野を卒論のテーマとして選ぶ学生さんが増える。
学生さんの多くは学問以外の分野で働くことになるので、卒論で研究をかじった人は業界外からその研究分野の応援団になってくれる可能性があるが、そういう人が著しく減ることになる。
長い目で見ると、分野の発展にとってかなりのマイナスだと思う。

もう一つある。
多くの大学生・大学院生は、学位論文を日本語で書く。
この時、質のよい日本語の論文がたくさんあると、これらがお手本になる。
質のよい日本語の論文の存在は教育上極めて重要で、日本の大学教育の質に大いに影響する。
これは学生教育をやるようになって気づいたこと。

税金で研究をする意味

前にSNSで、研究に税金を投入する意義を問うのを目にしたことがある。
なぜ、税金で研究をするのか。
海外で研究したものをそのまま輸入すればいいじゃないか。
別に海外に行ってその国のお金で研究すればいいじゃないか。
基礎研究なんてどうせ人類共通の知な訳だし、国にお金ない今、それより重要な分野もあるでしょ。
この問いに対して、問われた研究者たちも唸ったもの。

僕は、これの答えの一つが、母国の社会に研究知を還元することだと考えている。
そして、その手段として、日本語で質のよい論文を書く、というのが大変有効だと思っている。
もちろん、日本語の専門書や一般書でもいいのだけど、一次情報として研究成果が日本語でアクセスできる、というのはアドバンテージがある。
読み方は特殊な訓練が必要なのだけど、日本語でアクセスできることで知が研究業界の外にも開かれる。
研究者ではなくても、なんとか読んで研究知にアクセスできる。
母国語で書かれていることで、これができる人が大幅に増える。
その社会に広く知が還元されるのであるから、税金で研究を行う意義は大いにあるということになる。
この特殊な形が、前段で書いた学生教育に活かす、だったり、研究者以外の想定読者に活用してもらう、だと思う。

幸いにして、AI翻訳技術はどんどん向上している。
今後は、母国語で論文を書いて、訳したものを各国の人に読んでもらう、というやり方だってあるのではないかと思っている。

なお、米国の研究予算は世界でも群を抜いて多いという。
これは、米国社会が研究について理解がある、ということの現れ。
ただ、その背景として研究が母国語(英語)で行われていることと無関係ではないと思う。
税金で行った研究がすべて英語で研究者以外もアクセスできる形で論文になる。
これが米国社会の恩恵にならないわけがない。



と、まあ、日頃から考えていたことをまとめてみた。
科学や研究の記述に耐えられない言語系もある中、日本語はこれが可能。
だったら、母国語で科学や研究をできるメリットを最大限活かす、という視点も必要なんじゃないだろうか。
そんなわけで、僕は日本語の論文は必要という立場。

では、また。




ニコタマか。


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2023/09/22 20:55
花金に酒も飲まずに。
川崎にて。



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