週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

本の紹介,「アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで(赤木 和重(著),ひとなる書房)」

アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで
赤木 和重(著)
難易度:☆


研究業界にはサバティカル休暇というものがある。
研究休暇とも言われる。
大学に何年か務めるともらえ、一定期間(長いと1年間)通常の業務が免除される。
この期間を利用して、充電したり研究したり他機関に留学に出たりする。

さて。
この本は、そんなサバティカル休暇を利用してアメリカに留学したとある研究者が書いたもの。
特別支援教育発達心理学を専門とする研究者がサバティカル休暇を利用してアメリカへ。
シラキュースという街に家族と住むことになった、その時の体験に考察を添えてをまとめたもの。
これが大変おもしろかった。

このシラキュースという街、アメリカの中では貧困が深刻な地区。
そんな最貧地区の公立学校に著者のお子さんが通うことになる。
学校に通う保護者から見た、アメリカのリアルな公教育の姿が描かれる。
最貧地区の公立学校というと荒れていて怖いという先入観があったが、意外にもそんなことはない。
ただ、貧困ゆえの問題はもちろん存在し、そのリアルな姿を見ることができる。

また、インクルーシブ教育や保育についても描かれる。
インクルーシブ教育とは、ざっくり言うと、障害のある者とない者が共に学ぶ仕組みのこと。
日本でもこの流れで教育政策が進められている。
この本では、シラキュースで見た異なる形のインクルーシブ教育や保育の実態が具体的な体験を中心にまとめられている。
日本とはまた違ったインクルーシブ教育の形があり、それぞれが示唆に富む内容で興味深かった。

この本は以下の3点が特におもしろかった。
1つ目は、アメリカの公教育の話。
アメリカでは新自由主義のもと、学校や教員の評価を行い、競争原理を使って予算配分や場合によっては学校の廃止を行なってきた。
これは、日本の教育改革を唱える人たちの主張とも共通するものがある。
一足先に改革を行なったアメリカの公教育とその制度について、その帰結としての実態を知ることができる。
日本のおける教育改革や教育に対する政治家の姿勢を考えるときの参考になる。
このトピックに関しては、 「崩壊するアメリカの公教育――日本への警告」 という本もおすすめ。

2つ目は、文化と教育の話。
海外、とりわけアメリカの取り組みは日本で参考にされやすい。
ただ、アメリカで成功しているものが日本でも成功するのか。
この点について、日米の教育現場や子どもたちの違いを紹介しながら、文化的な違いを考慮して考察。
アメリカの文化ゆえのアメリカの教育システムであり、アメリカ型を安易に日本に入れるとうまくいかない可能性についても考えさせられた。

3つ目は、超インクルーシブ教育の現場について。
著者のお子さんが後半に通った、小さな私立学校。
ここは5歳から中学生まで共に学ぶ学校で、異年齢教育が基本。
個人個人が違うことが前提の学校で、障害のある子どももたくさんいる。
ここで行われる超インクルーシブな教育について、具体的に描かれておりおもしろかった。
インクルーシブ教育とは何か、転じて、教育とは何か、考えさせられた。
詳しくは書かないので、ぜひ本文を読んでいただいて。
この部分だけでも決して損はしないと思う。


少し長くなったが、特別支援学校、小中高など学校種によらず、教員を目指すすべての人に読んでほしい本。
もちろん現職の教員にも読んでほしい。
自分の実践や教育に対する姿勢や哲学について、少し揺さぶりをかけられる、そんな本だと思う。
保育現場の話も厚く、幼稚園や保育園で働く人にもおすすめ。
もちろん、子を持つ保護者も楽しめる。
教育に興味あるすべての人にオススメな一冊。




福岡県のとある場所にて。


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2021/03/02 20:16
火曜日だけどお疲れ。
自宅にて。



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Update 2021/03/02
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震災10年

あの日、僕は福井のとある大学にいた。
脳波実験をしていて、実験室の外で実験用のモニタを見ていた。
14時46分。
ゆっさゆっさと静かに揺れ始めた。
天井にぶら下げていた、予備の脳波電極がゆっくりと揺れていた。
小さくゆるい周期で少し長めのその揺れを感じながら、
あぁ、これは遠くで大きな地震が起こったな、と思った。

実験はすぐ終わり、後片付けをして、のんびりとPCのモニタを開いた。
大変なことになっていた。
近くの部屋の先生がテレビを持っていると言うので、中継を見せてもらった。
津波が街を流す映像は衝撃的であまりにも現実感がなかった。

数日後。
テレビは原発を映していた。
余談を許さない危険な状況だとアナウンス。
ある瞬間、アナウンサの慌てた声が響く。
建屋が、さっきまであった建屋がありません。

福島には僕の友人がたくさんいた。
宮城も然り。
彼らの多くが多かれ少なかれ震災の影響を受けた。
ある友人は身内を津波で亡くした。
別の友人は子育てのため県外へ疎開した。

多くの人たちが原発の危険を嘆いた。
震災の被災者に同情した。
復興は重大な関心事だった。
原発はもはや動かすことは難しい空気感だった。
ある人はボランティアに参加し、ある人は募金をした。
僕も震災直後からおかしなテンションになった。
自分にできることを何かしようとした。
なんだか毎日フワフワした気分だった。

あれから、数年が過ぎ。
想定外の事態は想定し得ないという矛盾を抱えながらいくつかの原発は動き始めた。
震災関連の予算は減らされていった。
報道はどんどん減り、世間の関心も薄れていった。


震災から10年。
当時を振り返りながら、そんなことを思った。
いつまでも悪い出来事を見つめるのはしんどいことなれど、まだ終わっちゃいないのだよね。
まだ生活が震災前に戻っていない人もたくさんいる。
原発事故の後処理ままだ道筋すら見えない。
原発の事故が起きてしまった場合のことはその想定自体が欠落したまま。
忘れてはいかんよなぁ、と思った次第。




f:id:htyanaka:20210307194632j:plain 福島は心の故郷なのだよね。
残念ながら福島の写真は見つからず。
これは、横浜か。

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2021/03/07 19:47
日曜日おしまい。
鳥駅スタバにて。


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Update 2021/03/07
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夜行列車のはなし

今はもう残り少なくなったが、僕が大学生くらいまでは夜行列車というのが存在した。
夜に、東京駅、上野駅の在来線ホームに行くと、行き先案内板には全国の地名が並んでいた。
これらの駅に行けば、本当に全国各地どこにでも行くことができた。
南は西鹿児島(現・鹿児島中央)、北は札幌まであって、1時間に数本ずつ厳かに出発していった。
同じ行き先でも複数のルート・本数が用意されていて、それだけの需要があった。
例えば、今も残っている山陰方面行きのルートだと、今のサンライズ出雲のルートだけでなく、京都から豊岡を経て鳥取市を抜けて浜田へ至るルートもあった。
青森行きなんかはもっと多くて、オレが小学生の頃は10本くらいはあったと思う。

さて、この夜行列車。
コイツがとてもよかった。
側から見ていても特別感が半端ない。
ホームには旅人が溢れていて、それぞれが旅情というか旅愁というかそういうものを漂わせていた。
隣のホームは通勤ラッシュの日常なのだが、夜行列車のホームは別世界。
ゆったりとした空気が流れていて、旅のワクワクやら別れの寂しさやら、非日常の特別感があった。

これは日常にいる側から見ても同じ。
通勤ラッシュのホームでぼーっとしている時に、夜行列車が通過していくとうらやましくてたまらない。
車内にいる旅人がのんびりとビールを飲んでいたり、外の世界にカメラを向けていたり。
寝台車には浴衣がついていたため、浴衣でくつろぐ客なんかも。
ロビーカー(その名の通り車両丸々共用スペースのロビーになっている)や食堂車なんかがついていると、うらやましさは最高潮に。
まるで別世界。

これが、乗るという話なると、楽しさはひとしお。
流れる夜景自体もたまらないし、ホームの疲れたサラリーマンに対してちょっとした優越感も。
これらを見つつ、浴衣を着て音楽を聴きながらぼーっとする。
ちょっと気分を変えたい時は、ロビーカーやら食堂車やらに行って食事や飲み物を楽しむ。
寝台車だったりすると、疲れてきたらベッドに寝転がって本を読んだりする。
これがねぇ、たまらないんだ。

僕はこいつらにだいぶ乗った。
九州の祖父母宅への帰省、高校時代の友人たちとの旅行。
1番目の大学の地・秋田へ赴くときも上野から新潟経由の青森行きに乗ったし、大学院で札幌に行く時も北斗星という豪華な夜行寝台特急に乗った。
人生の節目なので、夜行列車旅情効果はいっそうだった。

あれから、時が経ち。
九州行きの夜行は全廃され、東北方面も北海道行きも無くなった。
福井在住の時に使っていた、しぶとく生き残っていた北陸夜行も消え、岡崎時代に使っていた東京行き夜行快速も先日ついに廃止された。
あの大変よかった夜行列車を思い出しつつ、時代の移り変わりを感じている、というわけ。
復活しないかなぁ、と思えど、難しいだろうなぁ、とも思う。

なお。
前半に書いた通り、実はまだ全廃ではなく、山陰・四国と東京を結ぶ便に2本、残っている。
興味がある方は、なくなる前にぜひ乗ってみるといいよ。
本当に、たまらないんだ。

では。
今回はこの辺で。




f:id:htyanaka:20210228230913j:plain サンライズ出雲車内にて。
浴衣付き、個室。
岡山かな。

f:id:htyanaka:20210228230917j:plain 車内でシャワーも浴びれるのだよ。
これがなかなか便利。


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2021/02/20 21:06
今週末は休み。
鳥駅スタバにて。


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Update 2021/02/20
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本の紹介,「電池が切れるまで 子ども病院からのメッセージ(すずらんの会,角川文庫)」

電池が切れるまで 子ども病院からのメッセージ
すずらんの会(編)
難易度:☆


世の中には、病気のため通常の学校に通うことができない子どもたちがいる。
ただ、我々には教育を受ける権利があるため、これを保障するために様々な仕組みが用意されている。
院内学級はそのうちの一つ。
正式名称を訪問教育という。
教員が家庭に出向く教育、病院のベッドサイドで教育を行う等、様々なバリエーションがある。
院内学級はその名の通り、病院内に教室を設置し、そこに入院中の子どもたちが通ってくる。
院内学級にも2種類あり、地域の小中学校の特別支援教室(病弱・身体虚弱)として設置するものと、特別支援学校(病弱)の分教室として設置するものがある。
この本は、前者の院内学級についてのもの。
なお、後者については 別の本を紹介しており、そちらもオススメ。

この本は、長野県のとある小児病院に設置された院内学級に通う子ども達の作品をまとめたもの。
詩や文章を中心に、絵などの美術作品も収録。
病弱教育を受ける子どもたちは、抱えている病気も様々。
長期入院だけど治るものから、何度も入退院を繰り返すもの、余命があるもの、など多様。
ある日突然命を落とすようなこともある。
そんな子どもたちの声を聞くことができる。
この本の作品はもともと誰かに向けて書かれたものではなく、教育の中で出てきたもの。
それだけに子どもたちの本音のようなものに触れることができる。

本の後半は保護者や教員、本人など、当事者たちの想いを綴った文章が載る。
これがまたよい。
作品を書いた子どもの当時の状況、院内学級を経て医療職を目指している将来の本人、院内学級の先生の解説等々。
普段知らない世界のリアルを垣間見ることができる。

病弱系の授業の副読本として調査したが、そうでない全ての学校の先生やその卵にもぜひ読んでほしい本。
もちろんそれ以外の子どもと関わる全ての人にもオススメ。
いろいろ考えさせられることと思う。

では今回はこの辺で。
また。




f:id:htyanaka:20210220184312j:plain 大好きな横浜にて。

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2021/02/20 18:02
今日は大変のんびりモード。
鳥駅ドトールにて。



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Update 2021/02/20
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成功の理由と失敗の原因と格差社会の話

成功するとお金持ちになり、そうでないとお金持ちになれない。
ある職業は収入が多く、ある職業は収入が少ない。
同じ会社でも、地位によって収入に格差が生じる。
仕事ができる人は富み、仕事ができない人は貧する。
新自由主義の中で、当たり前に受け入れられているこの考え方は、本当に正しいのだろうか。

まず、仕事のできるできない、成功するしないについて。
これらが自己のがんばりや生き方の結果としての能力差によって生じる場合、これらによる格差は正しいように思える。
しかし、本当に自己のがんばりや生き方のみで能力差は決まるのだろうか。
まず、人は生まれながらに持っている能力や特性が違う。
ものすごくがんばって成績上位にいる人もいれば、ほとんどなにもしなくても成績上位になれる人もいる。
また、能力をみがくのに適した生まれ持っての性格特性(気質)もあるはず。
さらに、生まれ育った環境も人それぞれ違い、能力をみがくのに適した環境やそうでない環境がある。
これらは自分で選び取ることができない上、能力差を生み出す要因としては大きい。
生まれながらにどうしようもない理由で能力差が生まれることは大いにあり得る。
これに加え、運の要素も大きい。
さて、そういう側面のある仕事の出来不出来や成功するしないに対する格差はどの程度正しいのだろうか。

仕事の価値によってお金が決まるんだ、という意見を聞くこともある。
例えば、経営者は新しい価値を生み出していて、単純労働者は新しい価値を生み出していない。
だから、収入に差が開くのだという論。
これも一見正しそうなのだが、本当だろうか。
確かに、腕一本で起業したり経営したりする人の仕事の質は高く、仕事の価値は高いかもしれない。
でもね。
じゃあその人の下で実務をこなしている人の仕事はその人よりも価値が低いのだろうか。
末端の社員の仕事の価値は低いのだろうか。
そんなことはないと思う。
会社という組織はみんなでお金を稼いできて、それをみんなで分配する仕組み。
稼いできたお金は、投資家に分配して、経営者から末端社員までやった働きに応じて分配して、将来稼ぐための投資に回す。
働きに応じて、という部分に、仕事の価値という理屈が使われる。
しかし。
そもそも仕事の価値って誰が決めているのか。
それは経営者や管理者等の雇い主側にいる人たち。
末端の社員などの雇われ側は自らや上司の仕事の価値を評価できない。
どうやっても、決定できる人たちの仕事の価値は高くなり、それ以外の人の仕事の価値は低くなる構造になっている。
だって、一生懸命働いている人たちはみんな自分の仕事の価値は高いと思っている。
決定プロセスがこんなにも不公平な仕事の価値という概念に対して、お金の大小がつくのはどの程度正しいのだろうか。

いや、探せば代わりのいる人の仕事の価値は低いんじゃないか、という声も聞こえそうだが、それは単に労働市場の需給の問題。
仕事の価値の高い低いの問題ではない。
労働市場は分野ごとに異なっていて、その分野の労働供給(労働したい人の数)と労働需要(雇いたいポストの数)のバランスで決まる。
例えば、イラスト描きの場合、どんなに仕事の腕がよくても、供給過多になっているため単価が低くなる、という話を聞いたことがある。
これは、あらゆる職種に言えること。
そして仕事上の能力は労働市場内でのみ有効なものが多いため、市場間の労働力の移動は起こりにくい。
そもそも最初にどの分野に進出するかは運の要素がかなり強く、その後の分野の需給がどう変化するかも予想が難しい。
かくして、自分の能力とは関係なく高賃金・低賃金が決定してしまう。

さあ、こう考えてみると、収入格差がなんのために存在するのか。
ちょっと考えさせられてしまう。
格差をどの程度許容するかはその社会が決めることと聞いたことがある。
僕は社会の構成員みんながそれぞれ力を発揮できる社会をよい社会と考えている。
このため、がんばっている人が報われるために、そこにいくらかの賃金格差が生じるの悪くないと思っている。
ただ。
現在の日本の格差は、昔に比べるとかなり大きくなっている。
少し行きすぎな気がしていて、これ以上格差が進むのはいいことだとは思っていない。

ちなみに。
大きな格差を許容するには、特に大事なことがあると思っている。
それは格差競争が生まれによって不公正にならないこと。
これには教育を受ける権利が平等でなければならない。
悪すぎる家庭環境については手厚いサポートがいる。
お金持ちが儲けた分うちいくらかを税金という形でわけてもらって、これらを充実させる必要がある。
もちろんこれだけでは先に書いた様々な個人レベルでの問題は解消しないのだが、これがないと親の格差が子の格差につながってしまう。
それゆえ、こいつが特に大事だと思っている。
ただ、これらについては現在の格差を容認するほど充実しているとは思っていない。

そんなことを考えた。
あなたはどう思うだろうか。




f:id:htyanaka:20210208075334j:plain 羽田にて。

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2021/02/07 22:33
ゆっくり休んだ。
自宅にて。


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Update 2021/02/03
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卒業研究の進め方と落とし穴(研究をしよう23)

今回は卒業研究にしぼったテーマを。
卒論生がおちいりやすい落とし穴と研究のすすめ方について。
卒論生はその多くが初めての研究になる。
それがゆえに、研究の進め方の勝手がわからなかったり、落ちやすい落とし穴があったりする。
今回はそれなりについてのいくつかについて書いていく。
想定読者は、学部3年生や、4年生の早い段階にいる学生。
研究に慣れていない修士院生でも読めると思う。

計画の見積もりが甘くなる

初めての研究なので当たり前のことなのだが、基本的に計画の見積もりが甘くなる。
研究計画から調査の実施、データ分析、論文執筆までいくつかの過程があるが、思っているよりも時間がかかる。
例えば、調査の実施はやることが決まればすぐできるようなイメージを持っている学生さんがいるが、実際には準備等にとてつもない時間がかかる。
実験を実施するにしてもプログラムを組んだり実験に協力してくれる人を集めなければならない。
質問紙を行なうにしても、印刷郵送や分析をみすえた変更など、ちゃんとやろうとするとかなり時間がかかる。

このように、なにをするにしても思っているよりも時間がかかることが多いのだが、このあたりの感覚が経験不足ゆえわからない。
よって、そのつもりで見積もりよりもかなり余裕持って計画を立てておくことが必要になる。
このあたりについては、卒業研究のスケジュールを考えるという記事を書いているので、こちらも参考にしてほしい。

毎日取り組もう

学部の3、4年生ともなると、忙しい。
特に卒業研究以外の重要イベントでかなりヘビーなものが入り込んでくる。
就活、就職試験、教育実習にインターン等々。
で、学生さんをみていると、これらのイベントの期間は研究をやらなくなりがち。
これが結構なブレーキになる。

研究は長期間やらないと、やっていることの内容を忘れてしまう。
そのため、久々に研究をやると内容や進捗を思い出すところからスタートとなる。
これがかなり効率を落とす。
よって、毎日ぶっ続けで3ヶ月研究するのと、1ヶ月やって1ヶ月休んでで6ヶ月研究するのとでは、前者の方が圧倒的に研究が進む。
これは大学教員等、研究を仕事にしている者ですらそう。
学生さんを見ていると、1ヶ月全く研究に触れない期間があった場合、やりかけの研究を進めるところに到達するまでに1−2週間はかかる印象。

いやでもちょっと待て。
重要イベントやっている期間中は研究どころではない。
そう反論される方も多いと思う。
それはその通りなので、なにもフルに研究をやる必要はない。
忘れない程度に、1日1−2時間細々とやる、という程度で構わない。
本格的に手を動かすのは無理でも、論文を読んだりそれをまとめたりくらいはできるはず。
研究計画のロジックを見直したり、方法論の枠組みについて考えたりもできる。
この程度で構わないので、毎日手をつけるようにしたい。

ここを間違うと、ただでさえ見積もりが甘い研究の計画が、さらに後ろにずれ込むことになる。
後述するように、卒業研究はかけた時間が論文の質に大きく影響するようなところがあるので、質の低い論文へとつながってしまう。
心したい。

やった時間が質に影響する

卒業研究・論文は、やった時間がもろに質に影響する。
大学院の博士課程くらいになると、基礎的な研究能力にも差が出てくるため、研究にかけた時間=研究の質とはならない。
ただ、学部学生(場合によっては院の修士課程も)くらいだと、研究能力がゼロスタートとなるため、かけた時間に比例して能力が伸びる。
卒論の出来については、明らかにかけた時間の不足によって質が低くなっている場合が多い。
このように、取り組んだ時間がそのまま研究や論文の質に直結する。
そのつもりで研究に取り組みたい。

なお、卒業研究を通じて得られるものは、研究能力だけではない。
ロジカルな思考力、文章力、表現力等々、研究を離れても社会で役に立つ技術ばかり。
これについても、取り組んだ時間分だけ力が伸びることになる。
卒業研究を時間かけずにやることも可能だが、その場合、これらの力を身につける機会を放棄している、と考えた方がいいと思っている。



他にもいろいろ書こうと思ったが、少し長くなったので続きはまたそのうち。
では、また。




f:id:htyanaka:20210125223552j:plain 休日の大桟橋埠頭。


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2021/01/25 22:34
お忙しいね。
自宅にて。


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Update 2021/01/25
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研究テーマを決める(研究をしよう22)

論文の読み方文献整理研究計画の立て方はすでに書いた。
これであとは研究計画が勝手にできあがるだろう、と思っていた。
ただ、先日、学生さんが何をやっていいかわからない、と言ってきた。
確かに、今まで書いてきたことだけだと、独力で進めるには少し足りない気がしてきた。

そこで。
今回は、論文を読めて文献整理はできる、ただ、具体的な研究計画には至らない。
そういう段階にいる人のために、書いて見ることにした。
研究計画の立て方のごく初期をより詳細に解説したものと思っていただければ。
この段階にいる人、おそらくはテーマが決まらない、テーマの決め方がわからない、そんなあたりで困っているのではないかと思う。
少しだけでもヒントになればうれしい。

レベル1:浅く広く段階

一番初めの段階。
全く何をやりたいのかわからず、自分の興味もかなりざっくりしている。
読んだ論文数も大したことがない場合が多いか。
この段階では分野の論文を広く浅く探すことに目標を設定する。
キーワードは大雑把で構わない。
そのキーワードで引っかかってきた論文をとりあえず、読む。
おもしろかったらそう記録をつけておく。
つまらなかったら、ちょっと別系統の論文を探す。
これを繰り返す。
引用文献がしっかりした専門書を持ってきて、その中で引用している研究論文を読むというのも手。

読む目的は、研究分野を知ること。
批判的に読めるなら読みたいが、読み飛ばして数をこなしてもよい。
とにかく読むべし。

20-40編くらい読んだところで、自分の好みがわかっていると思う。

レベル2:テーマを絞って狭く深く段階

ある程度興味が絞られてきたら、そのテーマの論文をとにかく読みまくる。
どのくらい絞るかというと、データベースで100−200編くらいしかひっかからないくらい。
そして、これをリストとして印刷し、全部読むくらいの勢いでひたすら読む。

この段階での読む目的は、研究のタネを探すこと、その分野の研究方法を学ぶこと。
よって、批判的に精読していく。
方法論も何回かに一回はきちんと調べてどういう方法なのかをちゃんと理解する。
これは自分が研究計画を練るとき、自分の問いに迫る武器になる。

ちなみにこの段階。
テーマがいまいち絞りきれていない場合でもどこかのタイミングでえいやっと決めなくてはならない。
その場合はその時点で一番よかった論文の分野にする。
これに移行できないと、あとの段階の時間がどんどんなくなり、詰む。
研究計画の一次〆切の2ヶ月前くらいがメドか。

レベル3:問いを立てるために読む

レベル2である程度論文を読み込むと、何がわかって何がわかっていないのかがわかるようになる。
どの辺の領域に研究いっぱいあって、どの辺の領域が薄いか。
薄いとすればそれがなぜなのか。

ここまでできれば、あと少し。
仮の問い(研究目的)を立てるために読む。
今まで読んできた論文をさらに精読するもよし、類似する別の分野の論文を読むもよし。
ある程度のところで仮の問い(研究目的)を立てる(文章化する)。

それが済んだら、この問いについて、本当にやられていないのか、を調べるために読む。
問いの新しさや意義などを確認するために読む、と言ってもいいか。
新しくなければ問いを少し変える必要があるし、近いのがあれば差別化が必要。
この段階の読み方は研究計画を立てる初期段階と重複するか。

レベル4:ストーリーを作るために読む

研究計画を作るため(作りながら)の読み方と言ってもよい。
レベル3の後半の段階との区別が難しいが、研究計画でロジックを固めるために読んでいく。
何度書いているように、イントロとはロジカルに研究目的を導き出すためにある。
これをストーリと言ったりもする。

ここではロジックを導き出すための必要な部品集めをする。
今まで読んできた論文とは違う領域の中にもロジックを固めるのに必要な研究論文はある。
研究目的を説得的に展開するためには他領域のアナロジーが役に立つこともある。
これらの論文たちは今までの読み方では出てきていないので、引用文献や新たな検索等で探してくる必要がある。


まあ、こんなところか。
この辺の話は、イントロの話研究計画の立て方も合わせて読んでいただけるといいか。

ではまた。
今回はこの辺で。




f:id:htyanaka:20210111141445j:plain 高松の港にて。

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2021/01/01 20:30
新年1本目の記事。
鳥駅スタバにて。


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Update 2021/01/01
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