あの日、僕は福井のとある大学にいた。
脳波実験をしていて、実験室の外で実験用のモニタを見ていた。
14時46分。
ゆっさゆっさと静かに揺れ始めた。
天井にぶら下げていた、予備の脳波電極がゆっくりと揺れていた。
小さくゆるい周期で少し長めのその揺れを感じながら、
あぁ、これは遠くで大きな地震が起こったな、と思った。
実験はすぐ終わり、後片付けをして、のんびりとPCのモニタを開いた。
大変なことになっていた。
近くの部屋の先生がテレビを持っていると言うので、中継を見せてもらった。
津波が街を流す映像は衝撃的であまりにも現実感がなかった。
数日後。
テレビは原発を映していた。
余談を許さない危険な状況だとアナウンス。
ある瞬間、アナウンサの慌てた声が響く。
建屋が、さっきまであった建屋がありません。
福島には僕の友人がたくさんいた。
宮城も然り。
彼らの多くが多かれ少なかれ震災の影響を受けた。
ある友人は身内を津波で亡くした。
別の友人は子育てのため県外へ疎開した。
多くの人たちが原発の危険を嘆いた。
震災の被災者に同情した。
復興は重大な関心事だった。
原発はもはや動かすことは難しい空気感だった。
ある人はボランティアに参加し、ある人は募金をした。
僕も震災直後からおかしなテンションになった。
自分にできることを何かしようとした。
なんだか毎日フワフワした気分だった。
あれから、数年が過ぎ。
想定外の事態は想定し得ないという矛盾を抱えながらいくつかの原発は動き始めた。
震災関連の予算は減らされていった。
報道はどんどん減り、世間の関心も薄れていった。
震災から10年。
当時を振り返りながら、そんなことを思った。
いつまでも悪い出来事を見つめるのはしんどいことなれど、まだ終わっちゃいないのだよね。
まだ生活が震災前に戻っていない人もたくさんいる。
原発事故の後処理ままだ道筋すら見えない。
原発の事故が起きてしまった場合のことはその想定自体が欠落したまま。
忘れてはいかんよなぁ、と思った次第。
福島は心の故郷なのだよね。
残念ながら福島の写真は見つからず。
これは、横浜か。
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2021/03/07 19:47
日曜日おしまい。
鳥駅スタバにて。
Update 2021/03/07
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