週刊雑記帳(ブログ)

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言語化する力(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 14 )

最近、特に感じるのが、コレ。
大学生の大半はコレが苦手で、歳を重ねればみんなが勝手にできるようになるわけでもないと感じている能力。
すでに本シリーズでも書いた、書く力質問力と似ているが、ちょっと違う。
これらよりはもっと基礎的なところにある能力だと思っている。

我々は、日常的に、見たり聞いたり触ったり、思い出したり、考えたりする。
その結果として、頭の中にさまざまな「何か」を持つ。
これが、個人の中にとどまっている場合は問題にならない。
問題はコイツを個人の外側に出さなくてはならない時。
そのほとんどは「他者へ伝える」ために必要になる。
しかし、困ったことに、この頭の中にある「何か」。
コイツは、常に言葉として存在するわけではない。
言葉ではない、個人内でしか存在しえない、つかみどころのない形で存在することがほとんど。
コイツをうまく他人に理解できる形の言葉にできるか。
この能力が自分の意見や考えを誤解なく他者に伝えるのに大変に役に立つ。
企画を上げる、上司を説得する、部下を教育する。
いずれにせよ、社会人になるとかなり武器になる力である。
大学生のうちにしっかりと身につけておきたい。

この能力。
大きく2つの要素から成り立つと考えている。
1つ目は頭の中にある「何か」に言葉を充てていく力。
もともと意味を知っている言葉と頭の中の「何か」を対応させながら、近い言葉を割り当てていく。
既存の言葉で足りなければ、文によってそれを補う。
国語辞典がやっていることに近いかもしれない。
加えて、これらを組み合わせて、文法的に正しいまとまりのある言語を紡ぎ出す力までがこれに当たる。
2つ目は自分以外の他者が理解可能なように言葉を紡ぐ力。
他者と自己の頭の中にある「何か」は基本的に両者の間で大きく異なり、自己にしか存在しない「何か」の方が圧倒的に多い。
しかし、他者の頭の中はのぞけないため、他者の知らないことには無自覚になりがち。
その結果、自分の有している知識が他者には不足しているということ状態になる。
そうすると、自分が発した言葉だけでは他者が理解することはできない、ということが起こってしまう。
いわゆる、説明不足というやつ。
自分では理解できてしまうので、どこの説明が不足しているのか全く気づかないということもしばしば起こる。

例えば。
朝起きて大学(学校でも職場でもいい)に行くことを考えよう。
あなたはどうやってここへ来ましたか、説明してください、と言われたとする。
どう説明するだろうか。
もともと、通学に関する行動は言語化されていない。
これをうまく、言語で記述していくことになる。
簡単だろ、と思われる方もいるかもしれない。
が。
これは大変難しい。
よくあるのは、何メートル歩いて、右に曲がって、みたいな記述。
しかしこれは自分の通学中の行動やその思考過程を言語化したわけではない。
内容としては正しいのだけど、頭の中にある「何か」を言語化したものではなく、すんなりとは伝わらない。

言語化は、内的なものであればあるほど、抽象的であればあるほど難しくなる。
自分の好きなラーメンについて、どう好きなのか説明してください、とかはかなり内的で抽象的なので難易度もかなり高め。
他にも、こころとは何か、説明せよ、なんていうのも難問だと思う。
素朴には、こころ、とは何かがわかっている人は多い。
しかし、理解をしているものを言語化して、人にわかるように、となると大変に難しい、ということになる。
誰かが言語化した「こころ」ではなく、あくまで、自分の言葉で説明する。
これは訓練していないとなかなかできない。
特に、現代人はわからないことはスマホですぐ調べてしまうので、誰かの言葉に頼りがちな事が多い。
こうなると言語化した経験が少ないため、なかなか自分の言葉を生み出せない。

と、ここまでが、冒頭に書いた1つ目のポイント、頭の中にある「何か」に言葉を充てていく力。
しかし、難しいのはこれだけではない。
2つ目のポイントであげた、自分以外の他者が理解可能なように言葉を紡ぐ、というのもまたなかなか難しい。
言語化するには、その言語を提示する相手の知識レベルを意識しなくてはならない。
何かを言語化した場合、その言葉を言語化した本人が理解するのはたやすい。
もともと、内面にある何かを言語化したわけなので、言語化されていない自分の内面にある知識と合わせれば、必ず理解が可能。
問題は、他者がそれを理解できるかどうか。

もう一度、大学へ通学する例を考える。
例えば、家を出て丸の内線に乗って池袋駅で降りて、、、みたいな説明をしたとする。
これが、都内在住の大人なら通じると思う。
しかし、海外の人だったら、鳥取から出たことのない子どもだったら、宇宙人だったら。
もうおわかりのことと思う。
丸の内線、がわからないので、なんのこっちゃさっぱりわからない、ということになる。
自分が他者のつもりで読んだとしても、前提知識は言語化した本人と完全に同じ。
故に、自分では理解可能なのだが、他者にはさっぱりわからない、ということに。
丸の内線の例のように、丸の内線さえ知っていればわかる、というような場合はまだいい。
言語化した言葉が自分以外の誰も一切理解できない、というようなこともわりと起こる。
言葉になっているものが実は頭の中にある何かの一部で、説明が断片的な場合。
そしてこれは、大学生・新社会人の時にしっかり訓練していない人だと現れやすい。
日記ならそれでもいいのだが、一般的な「言語化する力」としては全然ダメ。
気をつけたい。

さて。
この言語化する力。
どうやって磨くのか。

大学生であれば、磨く機会にあふれている。
まず1つ目の頭の中にある「何か」に言葉を充てていく力。
これは、常に自分の言葉で書くことを自らに課すだけでいい。
レポートで他人の言葉に頼るのをやめる。
試験で他人の言葉の丸暗記をやめる。
一旦内容を理解した上で、必ず自分の言葉に言い換えてみる。
それを日々のアウトプットに使う。
これが大変に訓練になる。
レポートや試験でこれをやると、短期的には成績が下がるかもしれないが、そんなの問題にならないくらい力がつく。
授業で理解したものを自分の言葉でまとめて教員に理解があってるか聞いてみる、というのもやり方としてはあり。

さらに技能を磨くのに役に立つのが、ゼミの資料作りや要約課題。
ゼミで文献を輪読する際、必ず発表資料の作成を求められる。
これを作る際、元の文献の言葉からよさげな部分を抜き出して使う、というのは大学生だとやってしまいがち。
これをやめて、理解したものを自分の言葉で書き出すようにする。
文献を読んでは、頭の中に読んで理解した「何か」を作り、それに言葉を充てていく作業をひたすら繰り返す。
これでこの力が伸びないわけがない。
ゼミでの資料作成課題は、この1つ目の力を磨くためにあると言っていいくらい、この力を伸ばす。

2つ目の、自分以外の他者が理解可能なように言葉を紡ぐ力も、日々のレポートが役に立つ。
特に、実験や調査の演習の授業レポートには力を入れたい。
フィードバックをくれる教員であれば、それをもらいにいくというのあり。
そうでなければ、学生何人かで組んで、書いたものを読み合いコメントをしあう、というのでもいいか。
できれば、同じ授業を受けてない者同士がよい。
「この部分がよくわからない」という指摘だけでも、とても有益なものとなる。
その指摘を参考に、言葉を見直してわかるように工夫をする。
この蓄積で、徐々にコツをつかんでいく。

そして、やはりなんと言っても卒業論文
3年生までに言語化する力の基礎的な部分を伸ばしておき、それをベースに論文を執筆する。
早めに取り組めば取り組むほど、教員からのコメントがいっぱいもらえ、それをもとに書き直すことでどんどん力がついていく。
卒業時点では、力を磨いた者とそうでない者の力には大きな差がついていると思う。

なお、卒論でこの力を磨きたい人は、ちゃんと付き合ってくれる教員を選ぶのも大事。
放置系教員を選ぶと、卒論であまりコメントが返ってこないので注意が必要である。


思いのほか、長くなってしまった。
今回はここまで。
ではまた。




鳥取駅前の、アレ。

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2024/03/16 22:03
休暇だよ。
横浜のとあるサイゼリアにて。



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Update 2024/03/16
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