週刊雑記帳(ブログ)

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よい世の中ってなんだろうね

よい世の中ってどんな世の中なのだろうか。
30を超える頃からそんなことを考えるようになった。
歳をとるというのはそういうことなのかもしれない。
いろいろな人のいろいろな現実を見たり聞いたりして、自分でもそれなりに経験をしたり。
そういうのが積み重なると考えるようになるのかな、と思っている。

世の中悪くなったとか、よくしたいとか、そういう言葉はよく聞くのだが、じゃあよい世の中ってなんだろうか。
語る側に明確な像がない場合が少なくない。
結局のところ感情論だったり、自分の利害だったり、そういうところで世の中の善し悪しを語っていることが多い。
これは自戒も込めて。

さて。
10年もそんなことを考えていると、暫定的だが答えのようなものが浮かんでくる。
僕の考える、よい世の中。
それは、
がんばっている人が報われる世の中
極めて凡で青くさい答えで申し訳ないのだが、ここに行き着いた。
ただし、世の中はこれとは逆行する方向に向かっている。
異を唱える人も多いかもしれない。
世の中そんなに甘くない、それでは社会は回らない、と。

真っ向から対立する意見は、新自由主義的な考え。
競争主義・成果主義で結果に価値を置く人達の意見。
日本のみならず、世界中でこの思想が幅を利かせつつある。
結果を出すものこそが報われるべきである。
端的にいうとそういう考え方。

この主張をする人たちには2タイプがいる。
まず1つ目は、結果は正しい努力・やり方から得られるものであると考えているタイプ。
結果が出ないのは個人の行動に起因すると考えている。
この論は前提として、個人の生まれ持った能力差の存在を無視している。
残念ながら、人間には生まれながらの個人差がある。
環境だって生まれながらに差がある。
結果が生まれる土壌が公平ではないのだ。

行動遺伝学という研究分野がある。
ある時点で生じている個人間のばらつきのうち、何パーセントが遺伝的要因で何パーセントが環境要因か調べようというもの。
もしある能力について、1%が遺伝的要因、99%が環境的要因だったとしよう。
こういう場合、環境を公平にしようと仕組みを整えたらどうなるか。
遺伝的要因の占める割合が上がり、環境的要因の占める割合が下がることになる。
もし100%環境を同じにすることができれば、どんな能力についても100%遺伝的な要素ということになってしまう。
本人の努力によらない環境を全部同じにして、かつ本人が最大限努力した場合、結果は生まれつきのもので決まってしまうわけだ。
理論的には。
そんな小難しいことを考えずとも、能力や環境には生まれつきの差があることに間違いはない。
そういうものが存在する状況下で、結果によってのみで報われる報われないに差がつくことがよいことなのだろうか。
考えさせられる。

そしてもう1つ無視している前提が、運の要素。
統計学には分散分析とか重回帰分析と呼ばれるものがある。
もし、ある結果について、遺伝的な能力の要素、環境の要素、努力の要素が全部同じであれば、結果の個人間の差は何によって決まるのか。
前述した統計学で考えるとこいつは誤差ということになる。
誤差とは、全くの偶然でサイコロを転がして生じる差と、同義。
運の要素は歴然と存在する。

そういったわけで、成果に対してのみ報われる社会はよい社会であるとは思わない。


そして新自由主義的な考えを推すもう1つのタイプは、能力のあるもののみががんばる方が全体としての成果が高くなる、というもの。
この成果を社会全体でわけることで、社会全体がよくなると考える。
これは一見よさそうに見える。
が、僕はそうは思わない。
全体としての成果が高くても、それは成果を上げていない者のもとには回ってこない。
だいたい、がんばった側からすると、なぜがんばって得た成果をがんばってない人たちに回さなきゃならんのだ、となる。
いったんは能力ある人が成果を自分のものにしたら、あらゆる手を使ってこれを手放さなくてすむ方法を考える。
この人たちはだいたい社会的地位があり成果の配分を決定することができる。
お金があるので、それを政治に回すことで力を持つこともできる。
あらゆる手段を用いて、自分の元から富が離れていくことを阻止する。
ただ、格差が広がるだけの構造。
全体の成果が高くなっても、これがよい社会かと言われれば、僕はそうは思わない。
全体の成果が高くなった、というのは、数字を使ったマジックの1つだと思っている。
全体の成果の高低は、全体に公平に配分されて初めて意味を持つ。


ロストジェネレーションとか失われた20年とか言われる時代を幸運にもわりとのんびり生きながら、折にふれ「よい社会」について考え続けて、結局これに行き着いた。
がんばっている人が報われる世の中
生まれ持った能力とか運とか、そういうものに関係なくみんなががんばれる世の中の方が総体としても成果が高くなるのではないだろうか。
すると、その部分が報われる必要があるわけだ。
がんばりが報われるって、全ての人に希望のある社会だと思わないだろうか。
何も高成果の人の高配分を認めないわけではない。
ただ、新自由主義的な結果のみに注目した配分は行き過ぎだと思っているだけ。
がんばりって、もう少し評価されてもいい。


じゃあどうやってそれを実現するの、と言われるとなかなか難しい。
だって、がんばっているって目には見えないにくいし、それ自体の評価も難しい。
理想は理想であり、実際の仕組みに落とし込むことはできないかもしれない。
ただ、一つ一つの社会的な事象をこの「よい世の中」基準で判断することはできる。
自分が関わっている範囲の事象も政治的な事象も。
価値観として、こういう「よい世の中観」を持っておくのは大事。
理想が現実に落とし込めないからといって、理想を捨てる必要はない。


社会のこと、政治のことを考えたり判断したりするとき、こういう価値観を持っていると役に立つ。
よい世の中ってなんだろうね
こいつを意識しつつ、映画見たり本読んだり考えたりする時間を大切にしている。





僕はがんばっている人が好きだ。


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2019/07/07 18:50
休暇中。
鳥駅スタバにて。


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Update 2019/07/07
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