週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

発表をしよう〜スライド作成前準備編(研究をしよう 臨時版1)

発表をしよう編は研究をしようシリーズの最後らへんに持って来る予定だったが、まあ卒論発表会も近いので変則的にこのタイミングで書いてみようと思う。
そのうち本編にのどこかに位置付ける予定。

さて。
大学生も学年が進んでくると、研究発表の機会がやってくる。
ここでは発表について気をつけたいことをいくつか書いていく。

まずはスライドを作り始める前に気をつけるポイントを2つ。
(1)スライドのページの設定を4:3にする
最近のパワーポイントはデフォルトで、スライドのサイズが横長(16:9など)に設定されていることがある。
これは4:3のサイズに直しておくのが無難。

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4:3でページ設定したスライド
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16:9でページ設定したスライド。
デフォルトの16:9は、横長の画面が一般的になった最近のPCにおいて画面いっぱいになる設定である。
自分のPC上で作っている限りは、画面を無駄なく使えてよいような気になる。
が、発表会場のスクリーンやプロジェクタはまだ4:3仕様のものが多い。
16:9のものでも映せるが、上下にデッドスペースが生まれてしまい、結果小さな表示になってしまう。
非常にもったいない。
紙に印刷して配布資料として配るときも、4:3の方がデッドスペースが減る。
そんなわけだから今のところは4:3で作っておいた方が無難だと思う。
この設定は、パワーポイントだと「デザイン→ページ設定→スライドのサイズ指定」で確認・変更ができる。

(2)シンプルなデザインを使う
研究発表の目的は内容を伝えること。
目立つことで印象を与える必要は全くないので、出来るだけ見やすいシンプルなデザイン選ぶ。
背景に絵があると見づらくなるので、そういうデザインは避けたい。
白地に黒文字とか、濃い色の背景に白抜き文字とか、そのくらいシンプルで構わない。
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シンプルなデザインの例

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複雑なデザインの例。シンプルデザインに比べ文字が小さく,デッドスペースが大きくなる。
デザインが凝っていると、デッドスペースが生まれて文字や図が小さくなって見づらかったり、デザインがうるさくて内容に目が行かなかったりと、伝える上で支障が出ることがある。
そうなると、内容を伝えるという研究発表本来の目的が達成されず本末転倒になりかねない。
スライドデザインのかっこよさは、研究発表にはいらない。
注意したい。
文字の配置についても、上にタイトル、その下に本体のスペースというオーソドックスなものがよい。
時々、スライドのタイトルが上にない場合があるが,これはいざ作り始めたときに困ることになる。
聞き手もどこにタイトル(要点)があるのかわからず,混乱する。
避けたいところ。
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タイトルが下にあるフォーマット。見づらい。
f:id:htyanaka:20190203165603p:plain
タイトルが右横にあるフォーマット。やはり見づらい。

スライドを作り始める前に注意すべきポイントはこんなところ。
次回は具体的にスライドを作るときの注意点について書く。





高松港にて。


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2019/02/03 18:17
仕事終わった。
鳥取市内にて。


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Update 2019/02/03
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本の紹介,「IQってホントは何なんだ?(村上 宣寛,日経BP社)」

IQってホントは何なんだ?
村上 宣寛(著)
難易度:☆☆


知能指数(IQ)を知りたい人向けの本、2冊目。
1冊目「知能指数―発達心理学からみたIQ (滝沢 武久,中公新書)」を読んでいない人はそちらも参考にしていただきたく。
IQはいろいろのところで測定されているのだが、そのわりに知能やIQに関する一般向けの本は少ない。
いい本もいくつかあるのだが、それらは古いものが多い。
そんなか、比較的新しく、内容的にもオススメできるのがこの本。
知能とは何か、から始まり、IQができる歴史的な流れ、IQに関連したテストの紹介、IQとは何か、遺伝とIQまで、この分野のことが幅広く解説されている。

滝沢さんの本は発達の視点が強いが、この本は知能やIQを中心におき、発達的な話は少ない。
子どもや知的障害といった限定なしに、知能やIQを解説しているのが特徴。
言及されている知能テストについても大人を対象としたものが多い。
知能テストとしてはウェクスラー系がメインな印象。
IQと遺伝や男女差・人種差についてはいろいろな研究を紹介しながら、実際のところどうなのか話を進める。
統計的な記述も少し出てくるが、巻末に補足資料もあり問題なく読めると思う。
本書を読むと、ちまたで使われているIQという言葉について、学術的な意味と世間的な使われ方の誤用について知ることができる。

心理学を学ぶ人や特別支援教育に関わる人は一読の価値あり。
教員志望者、現職教員の周辺知識としても役に立つ。
IQって言葉を使ったことあるすべての人の教養としてもオススメ。




鳥取だよ。



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Update 2018/10/14
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論文を読む〜方法編後編(研究をしよう 9)

さて、前回のつづき。
方法の章ですべきは研究の正しさの検証。
ここを読み取っていく。

正しさの検証のためには、やったことが余すことなく記載されている必要がある。
これは再現性の検証のためにも必須。
論文によってはこの情報が不十分なため、検証が不能な場合がある。
例えば、質問紙を実施した、とあるのに、引用も含めて具体的な質問項目がわからない場合。
こういうタイプの研究は正しさ・再現性の検証不可能につき、信じられぬ。
こう判断して、ゼミなどでの発表の際もそう報告する。
自分の研究の先行研究などでも引用はしない方がよい。
間違っている情報を元に自分の論を組み立てると、土台から崩れてすべてが水の泡、ということにもなりかねない。

記載が十分な場合。
内容を一つずつ吟味していくことになる。
まずは研究の目的と方法が対応しているのか。
わりと見かけるダメ論文では、目的に方法が対応していない、というものがある。
〇〇を検討する、と書いてあるのに、方法でそこにアプローチしていない。
これはもう、結果に行く前からハズレが決定している。
がっかり感を胸に、次を当たるしかない。

目的と対応していても、その方法論ではアプローチ不能な場合もある。
これの判定には、その方法論についての知識が必要になる。
例えば、質問紙法とはどういう方法でどんなことができるのか。
観察法ではどんなことが調べられて、どこまで主張することができるのか。
ゼミをやっていてよくあるのが、方法論についてあまり調べず論文を紹介してしまうというもの。
よほど奇抜な方法論でない限り、教科書があるのでしっかり読んで方法論の勉強をした上で、方法の記述について判定をしたい。
この過程は最初はかなりめんどうなのだが、何回か繰り返すとその分野の方法論に精通することになる。
だんだんと研究論文がちゃんと読めるようになるし、自分の研究を進める上でどの方法論を使えばよいかの選択肢も増える。
しっかりとやりたい。

目的に対して、方法論もマッチしている、となれば、いよいよ細かな部分の検討ということになる。
どんな分析をして、どう記述したのか。
例えば、統計ならどういう基準を使ったのか。
基準は甘くないだろうか。
研究の対象は偏っていないだろうか。
もっと突っ込んだ分析はできないだろうか。
この辺については、結果を読みながら戻ってきて読み直して検討するというのも大切。
方法論の細かな批判については難しいので、ゼミや卒論指導の時間をうまく利用したい。
さすがに教員は日常論文を読んでいるはずなので、批判には慣れている。
ベストを尽くして検討・批判を行って、教員の見解を聞いてみる。
見落としや、注意すべきポイントが学べる。

さあ、ここまで読んでどうやら正しそうだ、問題なし、となれば、いよいよよい論文な可能性が高い。
ワクワクしながら、結果や考察、結論を読み進めようということになる。

さあ、方法についてはここまで。
ではまた。




川崎の工場地帯にて。
このもの悲しさと静けさがたまらない。


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2018/10/22 18:41
帰るかのう。
鳥取駅スタバにて。


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Update 2018/10/22
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論文は正しいとは限らない

先日、授業でしゃべっていた時のこと。
ある学生さんから、学術論文についてこんなコメントがあった。
学術論文になっているものってすべて正しいんじゃないんですか?

これ、一般の人がよく犯す間違い。
世に出ている論文はあくまでなんらかの根拠をもとにロジカルに自分の説を主張したもの。
論文を書いた本人は当然正しいと思っていることが多いが、本当に正しいかはわからない。
論理展開がおかしくて正しくない。
データに不備があって正しくない。
限られた条件下でしか成り立たず、一般化できない。
こんなのは学術論文にはザラにある。

これらの不備は査読(第3者の研究者による論文審査)によっていくらか取り除くことが可能だが、それでも査読者がたまたまボンクラだったり、巧妙なやり方でうまくかわされることもある。
もうほぼツッコミどころがなく論文からは正しいとしか判断できないが、実は得られたデータは偶然そうなったに過ぎない場合だってある。
この場合は後の研究で検証すると結果を再現できないことになるのだが、1本の論文からは判断が難しい。
そもそも再現ができないというネガティブなデータは論文になりにくいという特性を持つ。
再現ができても、思いがけない限定条件が見つかって、現象の解釈や結論が間違いだったということだってありうる。

そんなわけで、学術論文は正しいと無条件で判断するのは非常に危険。
そして、この論文の正しさの判定は読み手に求められる。
こんな風に書くと何を信じていいのかわからなくなるかもしれないが、少なくとも1本の論文から判定可能な正しさについては、大学生が卒業までに身につける技術だと思っている。
なんのために、研究現場で勉強をしているのか。
なんのために、卒業に際し研究をして論文を書くのか。
そのあたりの答えの1つはここら辺にあるんじゃないだろうか。

と、いうわけで、学生諸君はここらへんを学ぶ気でゼミに卒論にがんばってね、という話。
論文の正しさの話は、別シリーズ研究をしようシリーズに詳しく書いているので、そちらを参考にしたりゼミや卒論で担当教員から学んでいただきたく。

ではまた。




下関かな。


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2018/11/19 1919:50
今日は休暇(扱い)なんだ。
鳥取駅スタバにて。


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Update 2018/11/19
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原発のハナシ

原発について。
僕は福島に住んでいたことがある。
友人もあっちの方にたくさんいて、震災と原発事故についてはいろいろ思うところがある。
そんなわけなので、このトピックに関してはちゃんと書きたいと思っていた。

僕は原発という発電の仕組みについては反対の立場。
原発についてはその仕組みから、放射線のこと、問題点など、いろいろと勉強した。
その結果、現状ではこの仕組みはやめたほうがいいな、と思うようになった。
二酸化炭素が出ないとか、安く電気が作れるとか、地元経済の活性とか、メリットもわからないではないのだが、それよりもデメリットの方がはるかに大きいと思っている。
「安く電気が作れる」については、そもそもそうではないと考えているが。

僕が原発に反対する理由は以下の2点。
(1)事故を完全に防げるとは思えない
(2)発電後のゴミの問題
特に、(2)は致命的だと思っている。

(1)については反対派が第一にあげているのでわかりやすい。
そもそも事故は完全に防げるはずだった。
何重にも安全のための仕組みを作り、確率を限りなくゼロに近づけた。
でも、福島の事故は起きた。
原子力系の事故は起こると大変なことになるため、ゼロでなくてはならない。
何十年動かしても、何千年動かしても、ゼロでなくてはならない。
そんなこと、基本的には無理だと思っている。
世の中には限りなくゼロをゼロとみなしていい事象と、みなしてはいけない事象がある。
本当にまれな事象については、起こってから事後対応でなんとかする。
これができれば前者でもよいと思うのだが、それが無理な原子力系は後者。
一旦事故が起こってしまえば、影響は甚大だし、そもそも事故処理だってかなり難しい。
これは福島事故のその後を見ればよくわかる。
事故処理のメドすら付いていない段階なのに、世間の記憶は薄くなってきている。
そもそも事故によって将来どんな影響があるのか、見えない部分もかなりある。
これが僕が考える原発反対のひとつめの理由。

もう一つは事故とは関係ない。
そもそも仕組み自体に問題があると思っている。
原子力発電を行うと、放射線を出しまくる核のごみがでる。
コイツをどうするか、まだ最終的な方法が決まっていないのだ。
10万年、自然界から隔離しなくてはならないらしい。
そんなこと、それこそ不可能だと思っている。
しかも、だ。
ずーっと使い続ければ、そのうち捨てる場所がなくなるのは容易に想像がつく。
そういう問題が出てきたあたりで、原子力発電はできないということになるはず。
そうすると遠い日の子孫たちは、自分が使いもしない発電方式の、負の部分だけを担うことになる。
これはあまりにも無責任でひどい話じゃないだろうか。
賛成反対含めていろいろ本を読んだが、ここに明確な解決法を与えてくれるものは残念ながら見つからなかった。

我が国に資源がなく、原子力発電がいかに重要かはよくわかる。
安い電気が日本の産業や暮らし大事なこともとてもよくわかる。
それでもなお、先ほど述べた2つのデメリットがあまりにも大きすぎる。
そんなわけで、僕は原子力発電には反対の立場、というわけ。

この問題はとても大事な問題なので、ネットの情報だけではなく、本からも情報を仕入れたうえで自分なりに考えてみてはいかがでしょうか。




松江にて。


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2018/10/22 20:00
今日は心地よい秋晴れだった。
鳥取市内にて。


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Update 2018/10/22
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いい授業ってなんだろうか?

いい授業ってなんだろうか。
僕が大昔、教育実習先の先生に言われた言葉である。
僕はその当時、地方国立大の教育学部にいて、数学の教員免許を取ろうとしていた。
母校の高校がとても好きだったので、中学校に行くのが多数派の中無理を言って高校にて4週間の教育実習に行った。
大学附属校での実習組がとても大変な実習を行っていた中、母校実習はとても楽しく、毎日部活動指導に出て、指導案で泣かされることもなく、本当に自由にのびのびとやりたいようにやらせてもらった。
この実習では本当にいろいろなことを学んだ。

閑話休題
で、冒頭の言葉。
僕の研究授業が終わった後に、とある先生からそう問いかけられた。
僕は、やはりわかりやすい授業でしょうか、と答えた。
今思えば、まあ大学生らしい、浅い答え。
ところが、その先生はそうではないという。
わかりやすい授業、は最善とは言えない、と。
彼によると、わかりやすい授業はいい授業とは言えない場合すらある。
これは当時の僕にとってはかなり意外だった。

不服そうな僕に、彼はこう言った。
いい授業とは、後に残る授業だよ。
何年後、何十年後に記憶に残る授業じゃないかな。
わかりやすい授業はその時はいいかもしれないが、その後さっぱり記憶に残らないかもしれない。
そうならないために、わざと授業をわかりにくくする、というテクニックもあるんだ。
まあ、そんな内容だった。
これはね、なんというか、すごく衝撃だった。
そして、大学を卒業してその意味を実感する。
高校、大学の時の授業で、わかりやすかった授業が必ずしも記憶に残っているわけではなく、わかりにくい授業がふと思い出されることがあるのだ。
わかりやすい授業、本当にわかっていたのではなく、わかった気になっていたのかもしれない。

あれからかなりの時間がたって、なんの因果か授業をやる人なった。
時々この言葉を思い出しながら、自分はまだまだだなぁと反省する。
僕にとっては、わかりやすい授業、すら難しい。
まあ、ボチボチやろうと思っている。




どっかのネコカフェにて。


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2018/10/27 12:17
今日は研究している。
大学にて。


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Update 2018/10/27
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大学教員ってどんな人?(大学教員・研究者という生き物3 )

どんな人が大学で教えていているか。
今回はそんな話を書いてみる。

高校までの教員はわりとわかりやすい。
大学で教えることの勉強を多少なりともして、免許を持った教えることのプロ。
じゃあ大学はというと、かなり違う。
そもそも免許なんてないし、アイデンティティとして「教える人」を最優先に持っている人はいそんなに多くないと思う。
そもそも大学のポストによっては教えなくていい人すらいる。

じゃあどんな人が多いかといえば、一番多いのは研究をする人。
研究者と呼ばれている。
研究が好きで、マニアックに一つの分野を深く調べている。
まだ人類の誰も知らないことを調べて、ワクワクしたりゾクゾクしたり。
ずーっと一つのことだけを考えていて、浮かんできた新しいアイディアを論文にまとめたり。
研究するために大学教員になった、というタイプはかなり多い。
たいていは大学院に進学して、研究のトレーニングを受けている。

研究者ではないが実務に長けている人なんかもいる。
例えば、学校教員としてのキャリアがあり、おもしろい実践をしてきたその分野の有名人。
医者、弁護士、公務員、技術者などなど、多様な分野のすごい人がいる。
細々と研究的なことをやってきた人もいるが、あくまでメインではない。
実務経験の部分が買われて大学教員になっている。
資格的な職業人養成の場合、その学生教育には欠かせない人材。
大学教員をやりながら、兼業でそれぞれの専門的なお仕事を継続しているケースも多い。
研究者教員の場合、次の転職先も大学ということが多いが、実務家の場合は元の職業に戻って行くことも少なくない。

他にもおもしろい人たちがいる。
例えば、芸術家。
実務家のちょっと変わった部類だと考えることもできる。
僕の知っているところだと、彫刻家、音楽家、書家なんかがいる。
芸術系の大学だと多数派になると思うが、そうでない大学でも必要に応じていらっしゃる。
文学の作家なんてのもここに入るのかな。
このタイプの教員は現役でその道の活動をしていることが多い。
研究室で彫刻を彫っていたり、コンサートを開いたりしていて、研究者教員からすると少し違った世界が広がっている。

さて。
紹介したいろいろなタイプの大学教員。
共通していることが一つある。
それは、何かの専門家であること。
狭い範囲で深くその専門を極めてきた人が大学教員というわけ。
だから、幅広く知識を持った、教えることのプロである高校までの教員とはちょっと違う。
大学というのは最先端の専門的なことも学ぶところなので、教えることのプロであることよりも専門家であることの方が優先されて人材が配置されているのだね。
高校までに比べて教えるのが下手な人が多いのはそういうこと。
そもそもアイデンティティが「教える人」よりも「専門家」に寄っていることが多いので、教えるということにどれくらい力を入れるかは本人次第になる。
時間は有限なので、「教える」に力を割くと専門分野のお仕事の進みが遅くなる構造になっていて、なかなか難しい問題。
教育と専門領域の話は長くなるので別立てでそのうち書こうと思っている。

ではまた。




高松市内にて。


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2018/10/21 18:17
お仕事後に。
鳥取市内にて。


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Update 2018/10/21
Since 2016/03/06
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