週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

論文を読む〜結論・ラスト編(研究をしよう 11)

いよいよ、論文を読む編ラスト。
前回までに各論を書いたので、最後に結論についてとまとめ。

まず、結論。
イントロ、方法、結果、考察を精査して、その上で結論が本当に正しいのかを考える。
方法が正しくなくて結論が正しくない。
結果が甘くて結論は立証されていない。
考察で論理飛躍が起こっており、結論は推測の域を出ない。
こんなことは結構あるので注意が必要。
結論が正しかったとして、その学術的な意味はどうなのか。
この辺りをイントロと考察から考える。
まあつまり、結論については各論で見てきたことのエッセンスをギュッと凝縮したものというわけ。

これで、論文を読む、は一通りおしまい。
さて、結構大事なのがこのあと。
論文を精査して、そしてどうするのか。
なぜ論文を読むのかと言えば、それはその論文の内容を使いたいから。
自分の研究で使うとすれば、いい論文の結論を自分の研究の根拠にすることができる。
なので、まずは自分の研究の部品(根拠)として信ずるに値するか、というのを評価するのが読み終わった後にすること。
信用して根拠として使用した責任は、使用された側ではなく使用した側にある。
一つ間違うと自分の汗水流して行った研究の価値や信頼性がガラガラ崩れるので注意したい。

では、信用できないと評価した論文は使えないのか、というと、そんなことはない。
まずは、部分部分は使える場合。
例えば、方法と結果はしっかりしたものになっていて、その論文の結論に対する根拠にはなっていない場合。
結果の事実のみ信用して、自分の研究の根拠として使うことができる。
イントロはすごくよいが、その後が全然ダメで目的を達成していない場合。
これは問題点を指摘して、方法論を自分で組み立てることでよい研究になるかもしれない。
このように、ダメ論文でも部分部分は使える場合があるので、どこが使用可能か、自分の研究との関係で考えておくのが大切である。

ちなみに、自分の研究で使う、以外でもこれらのプロセスは役に立つ。
例えば、ある研究で報告されていることをもとに実践を行う場合であっても、論文の評価はきちんと行った上で、どこを信じ、どこがあやしいかを把握した上で行うのは有効であろう。
研究をする、というのは大学を出ると機会はあまりなくなると思うが、研究を読むとか使うということになると、結構機会は多い。
それゆえに、大学生のうちに論文の読み方はしっかりマスターしておきたいもの。

では今回はこのへんで。
次は論文の探し方、を書こうかと思っている。




福岡は中洲らへんだと思う。


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2019/01/30 08:17
出勤前。
鳥取ドトールにて。


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Update 2019/01/30
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卒業後の大学の使い方

大学まで進んだ多くの人にとって、大学は人生最後の学校、ということになる。
大学は卒業してしまえばそれっきりなのか、といえばそんなこともない。
今日はそんな、大学卒業後の話。

困った時に行く

社会人になると時々困ってしまうことがある。
主には仕事だろうか。
仕事が大変すぎる、向いてないんじゃないか、職場の人間関係がその。
特に、最初の数ヶ月は結構きつい。
自由な学生時代から一転、お金に応じた働きが求められる社会人になるわけだから、その環境の激変さに精神がやられることはわりとよくある。
そんな時は大学時代の指導教官なり仲のよかった教員なりのところに出向いて、話をしてみよう。
なにかよいアドバイスくれるかもしれないし、思ってもみなかった解決策が出てくるかもしれない。
少しだけ長く人生を送っているのと、おかしな環境でおかしなことと戦いながら生きてきたおかしな人が多いのとで、困ったときの相談相手としては悪くないと思う。
友人や職場の人とはまた違った意見が聞けるはず。
なによりも、話を聞いてもらうだけで、楽になる。

学問に触れに行く

大学を卒業すると、本以外で学問に触れる機会は激減する。
そこでその種の刺激を求めて訪ねてみる、というのもよい。
社会に出て新たに興味を持つこともある。
課題に当たって何らかの知識が必要になることもある。
その辺の話をした上で、なんかいい本とか研究、方法論とかがないか、と聞いてみよう。
知ってる範囲できっとおもしろい本や論文、学び方などを教えてくれると思う。
特に課題とか興味とかなくても、なんかおもしろい本ないか、と聞くだけで、そういうのが出てくることも。

ターゲットとしている教員がいて、その教員のカバー範囲の分野で働いている場合は、定期的な勉強会を提案してみるのも悪くない。
もうそういう勉強会をやっていることもよくあって、その仲間に入れてくれるかもしれない。
余裕があれば新たに立ち上げた勉強会に参加してくれるかもしれない。
研究がやりたいということであれば、細々とやる共同研究なんか提案すれば受け入れてくれることもあるかもしれない。

遊びに行く

個人差はあるが、教員たるものやはり卒業生が遊びに来るのはうれしいもの。
なので、ただただ、遊びに行く、というのもよい。
近況報告がてら、フラッと行ってみよう。
きっとコーヒーくらい出してくれて、懐かしがりながら話を聞いてくれると思う。
大学生のころとはまた違った雰囲気や話を楽しめるかも。
ちなみに僕は大学の時の担任とゼミ教員とはまだゆるくつながっていて、数年に一度、フラッと顔だしたりメールを送ったりする。
その時だけは、少しだけ学生に戻った気分になる。
ただ、教員の方が年上なので、いつまでも、というわけにはいかない。
行けるうちに行っておくとよいと思う。

気をつけること

大学教員にとってたまに来る卒業生というのはうれしい。
なので、基本的にウェルカムな人が多いと思う。
本来の仕事に影響が出ない範囲で、相手をしてくれることが多いのではないか。
が、やはり個人差はあるので、そこは注意が必要。
個々の教員の個性をうまく読み取って、付き合ってほしい。
それと、本務の研究や教育が忙しい時にはあまり時間が取れないこともある。
この場合は本当に時間がないだけで他意はないので、そんなものだと納得していただきたく。
前もって連絡をして行くのはおススメ。
教員もそのつもりで予定を組んでくれるので双方助かる。



以上、卒業後の大学の使い方でした。
ここに書いてあることは、多少教員の個人差があると思う。
ただ、僕に限っては書いてある通りに考えている。

ではでは。
今回はこのへんで。




羽田にて。



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2019/03/16 19:37
休暇中。
毎度おなじみ丸善カフェにて。


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Update 2020/03/08
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大学の授業作りの大変なところ(大学教員・研究者という生き物4 )

先日とある人と話していたところ、大学の授業って、研究の延長線上にあるのでしょ?と聞かれた。
研究で得た知識を使ってそのまま授業できるでしょ、というような意味だったと思う。
うーん、、、まあ、理念的にはそうなのかもしれない。
が、実際はそう簡単でもない。
そんなわけで、今回は大学の授業について、作り手の視点から書いてみようと思う。

研究領域は学問分野のごく一部

まず前提として。
大学教員の専門性は狭くて深い。
特に研究している専門領域ともなると、みなさんが想像しているよりもはるかに狭い。
例えば、僕の専門は心理学と脳科学
では、論文を書いている領域はというと、心理学の中の、認知心理学という領域の中の、高次認知機能の中の注意機能やら抑制機能やらの中の、そのまたごく一部になる。
これが前述の心理学でどのくらい狭いのかというと、500ページの教科書があったとしたら、まあよくて数ページといったところ。
心理学というタイトルで90分×15回の授業をやるとすれば、自分の研究の話はいいとこ30分といったところではないだろうか。
このくらい狭い。
大昔は教科書なんか無視して、自分の研究の話のみ延々としゃべるタイプの教員もいたが、これは多くの学生のためにはならない。
網羅的にまんべんなくやろうとすると、どうしても自分の研究の話は30分程度になってしまう。
それでも隣接研究分野は論文を読む機会が多いので、研究をやっていれば特に何かしなくてもしゃべることはできる。
ただ、これができるのは90分授業で2回くらいか。
残りのほとんどの分野は、勉強して作り込んでいくことになる。
これは授業のレベルにも関係していて、教養レベルだと自分の研究分野の話は少なめ、専門科目だと多くなる。
大学院の授業だと、研究分野とその隣接にほぼ収まってくれることも。

近接領域の授業

自分が研究していない分野の授業を持つこともある。
たいていは近接分野で、受け持てる教員がいない等の理由で一番近い分野の人が担当する。
この場合は自分の研究の話は一切できない。
その分野についてうっすらとはわかるものの、体系的な知識がないという状態で授業を作らねばならないということもしばしば。
そのため、本格的に勉強してから授業を作ることになる。
こういうのはたいてい、資格を出すため、とか、必修科目とか、諸事情で削れない科目においておこり、本人が望まない形でやってくる。
何らかの理由でそういう科目の担当者がいなくなった場合、隣接分野の誰かがやらねばならぬのだ。
また、改組等により組織で決まったから、という理由で降ってくることもある。
今まで一番すごいな、と思ったのが、他大学のとある実学系理系学部で、所属全教員が理系基礎科目を教える、と決まったため、基礎物理や基礎数学といった基礎科目のいずれかを担当しなくてはいけなくなったケース。
どの基礎科目にも対応してない分野の先生が、数学を担当することになり、大学生以来死ぬ気で数学を勉強するはめになったとか。
このシリーズ、時間をかければできなくはないのだが、多大な時間コストがかかるのでなかなか大変。

検定教科書がない

高校までは検定教科書というものがある。
文科省によって学習指導要領というものが定められており、この中でその学年で学ぶべき内容が指定されている。
検定教科書はこの学習指導要領に基づいて作られている。
検定教科書は専門家に入念にチェックされ、基準を満たしたもののみ、世に出ることになる。
学習指導要領も、専門家が議論を積み重ねて作るもの。
つまり、高校までは内容については十分吟味された上である程度決まっていて、使う教科書も質の高いものがあるというわけ。
じゃあ大学はというと、学習指導要領も検定教科書もない。
大学の教育内容は最先端の学問であり、教員一人一人によって内容が考えられるべき、とされている。
「学問の自由」のうち「教授の自由」の基本的な考え方。
そんなわけで、学習指導要領のようなものが作れないし、検定教科書もない。
すると大学の授業では高校と違って教科書探しから始まる。
教科書用に書かれた本は同じ科目のものでも内容はだいぶ異なる。
この中で自分の教えたい内容を含むものを探さなければならない。
しかも検定というチェック過程を経てないので、間違いが含まれることが結構ある。
内容が古くなっているところもある。
それらのチェックもしなくてはならない。
他人が書いた本がそのまま自分の教えたいことに当てはまることはほとんどないので、複数の本や資料を用いて独自の教材を作っていくことになる。
うまく教科書になる本が見つかればいいが、担当科目によってはそもそもそういう本がないこともある。
この場合はゼロから資料作りということになる。
最先端の知見に関しては、教科書が対応するまでには時間がかかるので、自分で論文や政府統計などをもとに毎年アップデートする必要がある。
この辺は高校までの授業と大学の授業の大きな違いである。

大学の授業は準備に時間がかかる

そういうわけなので、大学の授業というのはちゃんとやると相当な準備時間が必要になる。
僕の場合、新規開講科目を90分しゃべるのに、資料作成だけで1-2日丸々使う。
前年度開講科目でも、90分授業の資料アップデートと準備に1-3時間かかる。
これ以外に、研究分野から外れた授業の場合は勉強時間が必要になる。

僕が大学の時、週に数コマしか授業しない先生方を見て、なんて楽な仕事なんだ、と思ったが、全然そんなことはなかった。
まあでも、業界人以外にはなかなかわかりにくいよなー、と思った次第。


以上、大学の授業のウラ側でした。
ではまた。




お気に入りのスタバ。


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2019/03/10 7:55
これから出勤さぁ。
鳥駅ドトールにて。


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Update 2019/03/10
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本の紹介,「大学とは何か(吉見 俊哉,岩波新書)」

大学とは何か
吉見 俊哉(著)
難易度:☆☆☆


大学とは何か。
こう問いかけられた時、さっと答えられるだろうか。
大学を目指す高校生や現役の大学生に問うてみると次のような答えが返ってくる。
専門的な知識を学ぶところ。
これはある意味では正しいが、十分ではない。
少しわかっていると、学問や研究をするところ、なんて答えが返ってくることもある。

では大学教員だとどうか。
最先端の研究を行うとともに、その知識を学生に教えるところ。
学問の方法を学ぶところ。
教養を身につけるところ。
まあ、そんなところだと思う。

なぜそうなのか、という問いだとどうだろう。
例えば、専門的な知識を学ぶ。
なぜ、大学なのか。
専門学校でそれを学ぶのと何が違うのか。
なぜ、研究と専門知識の教授が同居しているのか。
大学で教養教育を行う意義は?
なぜ、教養と専門教育が同居しているのか。
学生はおろか、大学教員であっても答えに窮する人、いるのではないかと思う。

本書はそんな問いを一緒に考えよう、というもの。
記述は大学の歴史がメイン。
中世に始まる大学がいかなる成り立ちをしていたのか。
その後印刷技術の発展によりなぜ衰退したのか。
研究との同居はどうして始まったのか。
こうした問いに対し、大学の歴史をなぞることで迫ることができる。
オクスフォードやケンブリッジといった伝統校も昔は今とはだいぶ違う役割を担っていた。
当たり前のことなのだが、ちゃんと知ることで、僕らが持っている大学像は現代の形であることを再確認できる。
研究が主務であるというのを無批判に受け入れている教員も多いが、あくまで教育が中心で、そこに研究がうまくはまった、というのが正しい理解であるように感じた。
ただ、本書はそれを超えたもっと大きな視点からの大学の役割を考えさせてくれる。

本書は海外の大学の歴史を概説したあと、我が国の大学史についても詳説する。
これがまた、おもしろい。
戦前の帝大・旧制大学がどんなものであったか。
新制大学がどのような理念のもとに出来上がったか。
学生運動がその後の大学政策にどのような影響を及ぼしたか。
現在行われている大学改革の源流はどこにあるのか。
この辺りを詳しく知ることができるのがまたよかった。
わりと大昔に、今の大学が持つ問題点が挙げられているのには驚いた。
これらの歴史を踏まえて、現在の大学やその仕組みを見てみると、今までとは違ったものに見えてくる。

全ての大学教員・大学教員を目指す人におススメな一冊。
これからやってくるであろう大学大変革時代、このくらいのことは知っておきたいもの。

大学とは何か。
考えるのが仕事である当事者の大学教員でも意外と深く考えていないのではないだろうか。
しかし、とても深くて大事な問いだと思う。
もちろん、受験生・学生を含めた全ての人にとっても。




神宮球場にて。



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Update 2018/12/30
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卒業研究のスケジュールを考える

どうやって卒業研究が進んでいくのか。
やったことない人にはイメージしづらいようなので書いてみることにした。
ついでに、どの段階でどんな力がつくのか、具体的にどんなことをやるのか、も書いてみようと思う。
これから取り組む人は参考にしていただきたく。

想定条件は以下の通り。
研究レベル:うちの研究室の標準レベル。
取り組む時間:卒論以外の授業はほとんどない。日中の時間は研究に使うが、夜にバイトしたり遊んだりする時間はある。

インプット期間

必要な期間:4-6ヶ月
伸びる力:専門知識、批判的思考、論理的思考、方法論
先行研究をインプットする期間。
研究のネタを見つけるには一定程度の先行研究の知見が必要。
やりたい研究テーマでどんなことがされていて、どんなことがされていないか。
どんな方法論でアプローチされてきたのか。
これらがある程度自分の中に蓄積されてくると、ああこの辺りが大事なわりにわかってなくて迫れそうだな、というのが見えてくる。
このインプットがないと、研究のイントロが書けない。
学術的に意義のある研究を行うのは不可能であろう。
だいたい30-40本くらいの論文と数冊の本を読むことになる。
ゼミ発表なんかで紹介する論文はこの中から厳選されたもの、というのがベスト。
論文で使われている方法論について調べて理解することで、自分の研究で役にたつ道具(方法論)も手に入れることができる。

研究計画を立てる

必要な期間:2-4ヶ月
伸びる力:論理的思考力、批判的思考力、構想力、まとめる力
ある程度先行研究の知見の知識が蓄積されると課題が見えてくる。
この課題について、研究計画を立てる。
目的や仮説をどんなロジックで導き出すのか。
ロジックに必要な事実(先行研究や政府統計等)、隣接分野で真似できそうな似たような研究、その他必要な情報などを探す。
こういった作業を行う。
場合によってはロジックに必要な事実や研究がみつからず、目的や仮説の変更を迫られる場合もあり結構時間がかかる。
目的や仮説が定まったら、どんな方法論で迫るかを決める。
目的や仮説が素晴らしくても、方法論がついていかずこれらに迫れないということもよくある話。
この場合も目的と仮説の修正・変更を迫られる。
すんなりクリアすることもあれば、時間をものすごく使うことになってしまうこともある、時間の読めないステージ。

調査の準備、データ取り

必要な期間:1ヶ月以上
伸びる力:実行力?専門的経験?
時間は方法論に依存する。
実験なら実験刺激作って、協力者募って、実験を実施する。
質問紙調査とか面接なんかもそんな感じか。
一方で、フィールドに出て長期の観察を行う、といった種類の研究は時間がかかる。
場合によっては1年以上かかることもある。
せっかく立派な研究計画を立てても、方法論によってはタイムリミットに間に合わずできないこともあるので注意が必要。
この場合はできる範囲の研究計画に直すか、卒業を伸ばすか。
悩ましい問題が発生する。

データ分析と考察

必要な期間:1-2ヶ月
伸びる力:思考力、統計的な素養?コンピュータリテラシー
ここにかかる時間、伸びる力は方法論に依存する。
例えば、量的な(数字で語る)研究であれば、得られたデータの平均値を求めたり、統計的な検討を行ったりする。
この過程で統計的な素養、エクセル操作なんかは身につくか。
また、分析したデータを直感的に理解するために、表やグラフにまとめる、なんてことも行うので、こういうのを作る能力が身につく。
一方で質的な研究(フィールドに出て現象をていねいに記述する等の研究)であれば、得られたデータからどんなことが言えるのか、多面的に検討することになる。
このデータは何を意味しているのか。
その背後に何があるのか。
こういったことを一生懸命考える。
場合によっては予定していなかったデータ分析をやってみたり、追加実験を考えたりする。
研究をしたことない人はこの時間を少なく見積もっている場合がある。
結構かかるよ、ここ。

論文執筆

必要な期間:1-3ヶ月
伸びる力:論理的な思考力、文章力
いよいよ、論文を書く時間。
学生さんを見ていると半月から1ヶ月くらいあればとりあえずは書ける。
ただね、ほとんどの場合、甘い。
必要な情報がない、論理的ではない、冗長、説得力がない。
これらはまだマシな方で、文章の構成がおかしい、全く伝わらない、文がおかしい、なんて所からスタートする人もかなりいる。
指導教員に見せて、おかしな箇所を真っ赤にされる。
それを受けて直すと、また真っ赤にされる。
この過程でかなりの文章力が身につくことになる。
本当に、ここでかなり伸びる学生さんが一定数いる。
逆言うと、これに費やせる時間を残しておかないと、この能力を伸ばす機会を失うことになる。
これはね、かなりもったいない。
今後、文章を卒論ほどていねいに見て指導してもらえる機会はそうそうない。

スライド発表

必要な期間:半月〜1ヶ月
伸びる力:まとめる力、プレゼン力、TEDトーク
論文を提出した後は発表の準備に取りかかる。
ここも時間をかければかけるほど、身につく能力がある。
だいたいは論文ができた時点でスライド発表は余裕だと思うよう。
ただ、論文とスライド発表は目的が大きく異なる。
せっかくなのでこの機会に発表技術を身につけたい。
論文が出来上がっている場合、スライド自体は1-2日もあればできあがる。
ただ、だいたいは要領を得ていない。
一度、指導教員や研究室の先輩に見てもらってアドバイスをもらいたい。
スライドの作り方にはコツみたいなものがあって、これは経験者に聞いた方が早い。
アドバイスを生かしてスライドを作り直して、練習をしたり、修正したりを繰り返すとかなりいいものが出来上がる。
この過程で得たスライド発表の技術は社会に出てからもきっと役に立つ。
卒論の発表会でこれがちゃんとできている学生さんはあまり多くない。
でも、きちんと磨いてきたな、ってのもいる。
せっかくなので、意識してこの技術を身につけてほしい。


卒論のスケジュールを考える

以上のことを考えて卒論のスケジュールを考えてみる。

最短ver
3年生
3月 先行研究の調査(インプット)
4年生
4-6月 先行研究の調査(インプット)
7-8月 研究計画の立案
9月 調査準備
10月 データどり
11月 データ分析
12月 卒業論文執筆
1月 卒業論文修正
2月 スライド発表の練習


理想ver
3年生
10月-3月 先行研究の調査(インプット)
4年生
4-5月 研究計画の立案
6-7月 調査準備
8-9月 データどり
10-11月 データ分析
11月 卒業論文執筆
12-1月 卒業論文修正
2月 スライド発表の練習


忘れがちなのは、就活や教育実習等のイベントが入ること。
上のスケジュールはそういうイベントは考慮していない。
そういったイベントで1ヶ月おやすみ、が入り、結果詰まる、というのはよく見る。
注意されたし。
そうするとね、結構時間ないでしょ?
そこんところをよく考えて計画的に進めてほしい。
詰まってきて、計画が後ろにずれ込んでも、なんとか卒業にこぎつけることはできると思う。
ただ、そうなると、卒論の中で得られるはずだった能力のいくつかを得ることができないということになりかねない。
研究のおもしろさ、みたいなものを感じられずに卒業、ということになってしまうかもしれない。
それは、もったいないなー、と思うわけよ、教える側としては。

まあ、そんなわけで、これからの人に向けての記事でした。
がんばれー。




そろそろシーズンがですね。


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2019/02/23 20:25
久々のお休みをのんびり。
鳥取ドトールにて。


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Update 2019/02/25
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論文を読む〜結果・考察編(研究をしよう 10)

さて、いよいよ論文を読む、も佳境。
次は結果と考察。

まずは結果。
ここには方法に対応する形でつらつらと結果が書いてある。
基本的にはそれ以上でもそれ以下でもないので、イントロ・方法ほど注意深く読む必要はない。
方法に対応する形できちんと書かれているか。
方法で書いてあることと結果の記載が異なってはいないだろうか。
そんなあたりに気をつけて読む。

イントロ、方法が優れた論文であれば、結果を見るだけで結論をつかむことができる。
目的に対応した結果がどうなっていたか。
それがすなわち結論ということになる。
特に仮説通りの結果が出ている場合は、イントロの仮説イコール結論なのでわかりやすい。
読み方のポイントとしては、どの結果がどの目的と対応しているか、その辺りを考えながら読むといったところか。

ところが。
そんな簡単でよい論文はなかなかない。
イントロ・方法がうまくない論文の方が多数派。
それらが完璧であっても、仮説通りの結果が出るなんてことは研究ではなかなかない。
イントロで述べた予想と反する結果になったり、一部は仮説を支持し一部は仮説を支持しないなんて結果が出てくることもよくある。
結果が先行研究の結果と一致しないこともまたある。
すると、湧き上がってくる疑問としては、なんでそうなったのか、ということが大事になる。
そこで登場するのが考察である。

そういうわけだから、考察では結果に対する説明・解釈を行う。
この結果はなんで予想と違ったのか。
どうしてそうなったと考えるのか。
他の研究の事実を引用しながらその理由が書かれている。
また、ほとんどの研究には関連する先行研究が存在する。
研究結果がそれらの先行研究の結果と一致しているのか、異なっているのか、一部の研究とのみ整合性が取れているのか。
そのあたりについて、なぜそうなのか、をロジカルに説明することが求められる。
先行研究と異なっていても、予想と異なっていてもロジックが通った説明ができるのであれば、それはよい研究ということになる。
読み手としてはこのあたりをしっかりと読み取って、論文のよしあしを判断するということになる。

また、考察には研究の限界が述べられていることもある。
イントロ・方法が甘いために、どうがんばっても穴がある場合がある。
研究をやっている最中に新たに穴に気づく場合もある。
そんな研究の穴について、記述するのも考察の役割のひとつ。
書き手の研究者は誠実に問題点を書くべきだし、もし書いていなかったとしても査読者から指摘されて書かされるなんてこともある。
穴があったらダメなんじゃないかと思う人もいるかもしれないが、必ずしもそうではない。
穴が結論にそこまで影響を与えないこともあるし、穴があることを前提にその結果を限定的に評価することもできる。
穴があって限定的であっても、それでもなお研究に価値がある場合だって存在する。
読み手はこれらのことを読み取って、論文の評価をするのが仕事ということになる。

考察ではこれらのことを文章で展開しながら、論理的に結論と結びつけていくことが求められる。
つまり読み手の仕事としては、究極的には、結果を受けて結論が正しいのか、
正しくないとすれば、結果のどこまでは信じられそうなのか。
結果までは完璧なのに、考察で論理飛躍が起きていて結論が正しくない、というパタンも結構あるので注意が必要。
考察の中で、「○○だから××」と書かれているものの、理屈になっていない、なんてことはよくある。
その場合、当然結論は言い過ぎか、場合によっては間違いということになる。
これらをロジックをもとに判定する、ということになる。
ここもパスすればいよいよすばらしい論文。
が、なかなか巡り会えない。
もし出会ったら、それはお手本となりうるので、書くときの参考資料としても使って欲しい。

以上、結果・考察編でした。
次回、もう一回だけ「論文を読む」小シリーズを書く予定。
ではでは。




横浜市内のとある片田舎にて。



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2018/10/22 18:41
帰るかのう。
鳥取駅スタバにて。


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Update 2018/10/22
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半ドンのお話

その昔、半ドンというものがあった。
今の若い人は知らないでしょ。
半ドン
僕が中学生の頃一部がなくなり、その後いつの間にかなくなっていた。
高校生くらいまではまだ一部残っていたんじゃないかな。

その昔、我が国は週休二日制ではなかった。
僕が小さい頃はオヤジも土曜は仕事に出てたし、僕も土曜は学校があった。
未経験者からすると、なんだかわいそうじゃないか、と思われるかもしれない。
が、そんなことは全くない。
確かに土曜日は休みじゃあない。
休みじゃあないのだが、学校は半日で終わるのだ。
これを半ドンという。
で、この半ドン、独特の特別感があってすごくよいのだ。

だいたい、半ドンの土曜日は朝からゆるい空気が流れている。
僕の通った学校はたいてい土曜のどこかが学活の時間になっていて、そもそも勉強する感がうすい。
なんというのかな。
先生も友だちもどこか浮かれた特別な空気感の中で過ごしているのだよね。
これがたまらない。

小学生のうちは浮かれてた気分ではしゃいで家に帰る。
家に帰ると土曜日特別メニュー・そうめんかラーメンが待っていて、普段は仕事のオヤジも家にいる。
ご飯を食べ終わったらあとは友人と遊びまくれる時間たっぷりの午後が待っている。
タマラナイ。
中学生になると、持参した弁当を食べて部活三昧。
徹底的に練習したり、練習試合をしたり。
土曜だなぁ、とやはり浮ついた雰囲気の中で、平日とは違った浮ついた空気感の中で、そんな時間を過ごす。
トテモタマラナイ。
高校生になると、学校帰りに安く食わすそば屋でかき揚げそばを食べて、遊びに行く。
夜までカラオケに行ったり、草野球チーム作って野球やったり、吹奏楽の部活やったり、バンドの練習をしたりした。
やはりね、土曜にやるこれらはすごい特別感があるのだ。
スゴクタマラナイ。
わっかるかなー。
わっかんねーだろうなー。

そんな半ドンも中学生の途中から月1回だけ週休2日になりなくなり、高校生の頃月の半分の半ドンがなくなった。
大学生になったところ完全週休2日制になり、社会に出る頃には社会から半ドンの制度が消えていた。
あの特別感を味わえないなんて、今の子はなんてかわいそうなんだ、と思いつつ、当時を思い出しながら酒を飲みながらこれを書いている。
まあ、ただの酔っ払いのノスタルジーでございます。




高松市内か。


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2018/09/07 22:50
地物の純米吟醸とともに。
福井の飲み屋にて。


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