週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

なぜ、テストをするのか

僕の授業の評価は基本テストでやる。
持込不可のわりとオーソドックスなタイプのテスト。
うちの学部では珍しいのか、学生さんにとても嫌がられる。
でもやめる気はない。
今日はそんなテストについて、なんでやるの?という裏話を書く。

客観的に知識レベルを知ることができる

まずはコレ。
勉強すればそれなりに知識がつく。
ただ、どの程度自分のものになったのかを自分で正確に把握するのは結構大変。
わかった気になっていたものの、テストの問題を解いてみると、思ったよりもできない。
頭ではわかっているものの、それを言語化できない。
理解したと思っていた知識に意外な間違いがあった。
このようなことは学習にはつきもの。
ただ、これらのことにはテストやその対策をしている時にしか気付くことができない。
これがテストをやるの一つ目の理由。

ちなみに、日々教えていると、浅い勉強しかせずそのくせ自分の知識レベルは高い、と誤認している学生さんに会うことがある。
これはなるべく早い段階で気づかせてあげないと、社会に出てから困ることになる。
テストの点数というのは知識レベルの客観的な指標になるので、テストの点数を見れば自分の知識レベルをある程度把握することができる。
ヤマが当たるとか外れるとかの例外はあるが、知識レベルとの乖離はそんなに大きくないと思っている。
少なくとも僕の授業では、ヤマの当たり外れで点差がつくようなテストはやらない。

全範囲を勉強しなくてはならない

レポート課題の場合、その科目の一部を深めることでいいレポートが書けることはよくある。
これはこれでメリットはあると思うが、デメリットも大きい。
一番大きいデメリットは、その科目の内容について全範囲を勉強しなくとも単位が取れてしまうこと。
しかも、レポートの内容の良否は全体の知識レベルよりも文章力やせまい範囲の深い知識で決まる。
極端な話、100点の評価を得たとしても、その科目全体の知識レベルが低いというかとはありうる。

一方で、テストを課すとどうなるか。
どこが出るかわからないので、高得点を取るためには全範囲を満遍なく勉強しなくてはならない。
当然成績が高いということは、その科目全体の知識レベルが高いことを指す。
わかりやすい。
テストがプレッシャーとなって、学生さんはある程度勉強するようになる。
これも狙いの一つ。
本当はそんなプレッシャーなくとも学習をやってくれればよいのだが、なかなかそう理想通りに行かない。

その昔に、他大の知り合いの先生から聞いた話。
その先生は期末のテストや課題でいっぱいいっぱいになっている学生さんを不憫に思った。
そこで、普段のレポートとかを点数に加味するからテストはできなくても単位は落ちないよ、と言った。
すると、期末試験の平均点が例年よりも20点落ちたんだそう。

ね。
テスト、大事。

教員の反省のため

僕がテストをやる一番大きな理由はコイツ。
授業をやっていると、こちらはちゃんと教えた気になっているものの、うまく伝わっていないことがある。
前提として当然理解してもらっている気でいたら、全然わかってなかった。
多くの人が誤解して理解している。
逆に、難しいかな、と思っていたことが、わりと理解度の高い場合もある。
これらはテストをしてみないとわからない。

テストをして自分の考えている学生さんの理解度と実際の理解度のズレを把握する。
その上で、教え方を変えてみる。
おもしろいもので、しっかり反省して授業のやり方を変えると点数が上がることは結構ある。
これは早い話が教員側の教え方がヘボかった、ということを意味する。
しっかり反省して、次年度の授業に生かしたい。
もちろん、そのテストを受けた受講生に補足の情報を出すなどのフォローをすることもできる。

やはりテストは大事。


ちなみに、テストは実施する側も結構大変。
作るのに労力かかるし、採点にだってそれなりに労力がかかる。
返却・解説まで含めると、結構な時間を費やすことになる。
それでもわざわざテストをやる、ということはどういうことか。
裏の意味をくんでいただければ幸い。

まあ、そんなわけで、学生諸君は大変かもしれないけど、テストはやめないよ、という話。
まあがんばっていただいて。




よって、テストの出来がいいとご機嫌で酒を飲み、
悪いと教え方ヘボかったと悲しい気分で酒を飲むことに。
あ、写真は高松。


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2019/07/15 20:17
休みが終わる。
羽田からの最終便にて。


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Update 2019/07/15
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運転士さん・車掌さん(僕のなりたかったもの1)

ある日、小さい時の僕から手紙が届いた。
卒業間際の大学生の時だったと思う。
手紙にはこう書いてあった。

ぼくは、でんしゃのうんてんしゅになりたいけど、おとなのぼくはなにになっているのかな
たのしみだよ!

これは、小学生だった頃、教育委員会のイベントで書いたもの。
20歳の成人式で配られたらしいのだが、僕は引っ越していたので、後から遅れて届いたということだった。

小さい時から電車好きだった僕は、当時、電車の運転士になりたかった。
幼稚園生のころは、電車になりたかったようで、なぜ大きくなったら電車になれないのか、真剣に泣いて訴えたことがあった。
その後、成長して、電車になれないことがわかると、運転士になることを決意する。
ところが、運転士さんはしゃべらない。
当時おしゃべりマンの目立ちたがりだった僕は進路転向を決意。
好きな電車に乗れて、しゃべれて目立てる、車掌さんになることにした。
小学校低学年くらいの話。

その後、電車好きは旅行好きくらいに落ち着き、しゃべるのも目立つのも好きではなくなった。
そして、紆余曲折を経て大学で教える人になった。
色々あるが、それなりに楽しい日々を送っている。

あの時の僕は、「でんしゃのうんてんしゅ」にならなかった今の僕を見て、喜んでくれるだろうか。
時々、子どもの時の僕からの手紙を引っ張り出して読み返しては、そんなことを思う。




高松かな。


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2019/06/09 16:03
のんびりモードよ。
ドトール鳥取駅前にて。


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研究を探す〜論文以外編(研究をしよう 13)

今回は論文によらない研究の探し方。
論文は完成した研究であるということは前回書いた。
では、他にどんなものがあるのか。

本・博士論文

完成した研究で、雑誌以外の方法でまとめられているものがある。
それは博士論文。
これは博士号をもらうために個人が書いたもの。
内容の一部は学術雑誌に論文の形で発表されていることもあるが、丸々全部を雑誌に載っていることは多くない。
これは、雑誌の多くに文字数制限があるのに対し、博士論文は制限がほとんどないため。
博士論文は3桁ページになることがあるので、これをそのまま載せるのまあ難しい。

ただ、この博士論文。
そのテーマとそれにまつわる関連トピックが詳しく載っていることがあるので、場合によっては役に立つ(ただ、玉石混交)。
なので、自分の興味ある分野の博士論文があるのであれば、手にとってみるというのは悪くない。
てはどうやって読むのか。
1つ目として国会図書館を利用する方法がある。
ここには博士論文が収蔵されているので、所定の手続きを経て読むことができる。
最近は電子版も充実しているらしい。

2つ目は書籍版を読むというもの。
博士論文が大作になる分野では、博士論文に加筆修正を加えて専門書として刊行・発売するというのがよく行われる。
これを手に入れて読む。
探し方は、博士論文を書いた人の名前をAmazonか何かで検索し、博士論文のテーマに近い書籍があったら、たぶんそいつがお目当ての本。
買う前に実物を手にできるのであれば、まえがきかあとがきあたりを見ると、その旨が書いてある。

博士論文のよいところは、やはり網羅的に文献を知ることができるところ。
博士号を取るための試験論文でもあるので、それなりにしっかり書かれている(ことが多い)し、引用文献もかなり多めでリストもしっかりしている。
レビュー論文的な利用もできるし、書籍版なら自分の論文に引用することもできる。
先輩の学部卒業論文を参考にするよりは、はるかにためになると思う。

学会発表

学術論文にまとめられる前の、現在進行形の研究を知ることができるのが、学会発表。
通常、研究は学会発表を経て学術論文にまとめられる。
つまり、学会に行くことで、論文にはなってないけれども最新の知見、を知ることができる。
学会発表というと、大勢の聴衆の前でスライドを使って講演、みたいなのをイメージしがちだが、そんな敷居の高いものばかりではない。
おススメはポスター発表。
発表者は自分の研究をまとめた大きなポスターを用意する。
それが各自のスペースに張り出される。
学会の規模にもよるが、何十枚か何百枚か、場合によっては4桁になることも。
発表者にはポスターの前に立っていなければならない時間が決められており、その時間にポスターの前に行くと、発表者から対話に近い形で話を聞くことができる。
講演型とは違って、こちらのレベルに合わせて話をしてもらえるのが特徴。
「学部生でこの研究に興味を持った」と言うと丁寧に教えてくれると思う。
学部学生・院生から大御所研究者までいて、幅広く触れ合えるのも醍醐味。

学会によって研究を探すメリットはいろいろある。
1番のいいところは、時間をかけずに手軽に情報を仕入れることができること。
ポスターなら1研究10分もあれば内容を把握できる。
講演型もまあ20分くらいだろう。
ポスターで研究者対話する中で、知っている研究論文の情報を教えてもらえることもある。
数日どっぷり学会に参加するとかなりの情報が手に入る。
自分の専門外の勉強をしやすいのも学会のメリットか。

まだ完成していない研究であるため、 まだ引用価値のあるものは少ないが、おもしろいと思った研究は発表者の名前をフォローしておくと後々論文として出てくることもある。


以上、論文によらない研究の探し方でした。
ではでは、今回はこの辺んで。
さあて、お次は何を書こうかな。




横浜にて。


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2019/05/25 20:29
ひさびさにおやすみなのだ。
鳥駅スタバにて。


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Update 2019/05/25
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大学生のための学び方入門 No.1 はじめに

大学で何を学んだらよいか、はすでにシリーズ化した。
そこで本シリーズではどうやって学んだらよいか、を書くことにする。
こんな風に授業を受けるとお得だよ、とか、
こんなことやるともったいないよ、とか、
そんなことを書いていく予定。
大学の上手な使い方、みたいな感じか。
教員やってるとわりとそういうのに気づく。

まあ、ゆるりと書いていくので試していただければ幸い。




高松市内だったか。
この写真に場所はどうでもいいね。


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2018/07/01 10:16
休日の朝ののんびりモードの中で。
自宅にて。


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Update 2018/07/01
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よい世の中ってなんだろうね

よい世の中ってどんな世の中なのだろうか。
30を超える頃からそんなことを考えるようになった。
歳をとるというのはそういうことなのかもしれない。
いろいろな人のいろいろな現実を見たり聞いたりして、自分でもそれなりに経験をしたり。
そういうのが積み重なると考えるようになるのかな、と思っている。

世の中悪くなったとか、よくしたいとか、そういう言葉はよく聞くのだが、じゃあよい世の中ってなんだろうか。
語る側に明確な像がない場合が少なくない。
結局のところ感情論だったり、自分の利害だったり、そういうところで世の中の善し悪しを語っていることが多い。
これは自戒も込めて。

さて。
10年もそんなことを考えていると、暫定的だが答えのようなものが浮かんでくる。
僕の考える、よい世の中。
それは、
がんばっている人が報われる世の中
極めて凡で青くさい答えで申し訳ないのだが、ここに行き着いた。
ただし、世の中はこれとは逆行する方向に向かっている。
異を唱える人も多いかもしれない。
世の中そんなに甘くない、それでは社会は回らない、と。

真っ向から対立する意見は、新自由主義的な考え。
競争主義・成果主義で結果に価値を置く人達の意見。
日本のみならず、世界中でこの思想が幅を利かせつつある。
結果を出すものこそが報われるべきである。
端的にいうとそういう考え方。

この主張をする人たちには2タイプがいる。
まず1つ目は、結果は正しい努力・やり方から得られるものであると考えているタイプ。
結果が出ないのは個人の行動に起因すると考えている。
この論は前提として、個人の生まれ持った能力差の存在を無視している。
残念ながら、人間には生まれながらの個人差がある。
環境だって生まれながらに差がある。
結果が生まれる土壌が公平ではないのだ。

行動遺伝学という研究分野がある。
ある時点で生じている個人間のばらつきのうち、何パーセントが遺伝的要因で何パーセントが環境要因か調べようというもの。
もしある能力について、1%が遺伝的要因、99%が環境的要因だったとしよう。
こういう場合、環境を公平にしようと仕組みを整えたらどうなるか。
遺伝的要因の占める割合が上がり、環境的要因の占める割合が下がることになる。
もし100%環境を同じにすることができれば、どんな能力についても100%遺伝的な要素ということになってしまう。
本人の努力によらない環境を全部同じにして、かつ本人が最大限努力した場合、結果は生まれつきのもので決まってしまうわけだ。
理論的には。
そんな小難しいことを考えずとも、能力や環境には生まれつきの差があることに間違いはない。
そういうものが存在する状況下で、結果によってのみで報われる報われないに差がつくことがよいことなのだろうか。
考えさせられる。

そしてもう1つ無視している前提が、運の要素。
統計学には分散分析とか重回帰分析と呼ばれるものがある。
もし、ある結果について、遺伝的な能力の要素、環境の要素、努力の要素が全部同じであれば、結果の個人間の差は何によって決まるのか。
前述した統計学で考えるとこいつは誤差ということになる。
誤差とは、全くの偶然でサイコロを転がして生じる差と、同義。
運の要素は歴然と存在する。

そういったわけで、成果に対してのみ報われる社会はよい社会であるとは思わない。


そして新自由主義的な考えを推すもう1つのタイプは、能力のあるもののみががんばる方が全体としての成果が高くなる、というもの。
この成果を社会全体でわけることで、社会全体がよくなると考える。
これは一見よさそうに見える。
が、僕はそうは思わない。
全体としての成果が高くても、それは成果を上げていない者のもとには回ってこない。
だいたい、がんばった側からすると、なぜがんばって得た成果をがんばってない人たちに回さなきゃならんのだ、となる。
いったんは能力ある人が成果を自分のものにしたら、あらゆる手を使ってこれを手放さなくてすむ方法を考える。
この人たちはだいたい社会的地位があり成果の配分を決定することができる。
お金があるので、それを政治に回すことで力を持つこともできる。
あらゆる手段を用いて、自分の元から富が離れていくことを阻止する。
ただ、格差が広がるだけの構造。
全体の成果が高くなっても、これがよい社会かと言われれば、僕はそうは思わない。
全体の成果が高くなった、というのは、数字を使ったマジックの1つだと思っている。
全体の成果の高低は、全体に公平に配分されて初めて意味を持つ。


ロストジェネレーションとか失われた20年とか言われる時代を幸運にもわりとのんびり生きながら、折にふれ「よい社会」について考え続けて、結局これに行き着いた。
がんばっている人が報われる世の中
生まれ持った能力とか運とか、そういうものに関係なくみんなががんばれる世の中の方が総体としても成果が高くなるのではないだろうか。
すると、その部分が報われる必要があるわけだ。
がんばりが報われるって、全ての人に希望のある社会だと思わないだろうか。
何も高成果の人の高配分を認めないわけではない。
ただ、新自由主義的な結果のみに注目した配分は行き過ぎだと思っているだけ。
がんばりって、もう少し評価されてもいい。


じゃあどうやってそれを実現するの、と言われるとなかなか難しい。
だって、がんばっているって目には見えないにくいし、それ自体の評価も難しい。
理想は理想であり、実際の仕組みに落とし込むことはできないかもしれない。
ただ、一つ一つの社会的な事象をこの「よい世の中」基準で判断することはできる。
自分が関わっている範囲の事象も政治的な事象も。
価値観として、こういう「よい世の中観」を持っておくのは大事。
理想が現実に落とし込めないからといって、理想を捨てる必要はない。


社会のこと、政治のことを考えたり判断したりするとき、こういう価値観を持っていると役に立つ。
よい世の中ってなんだろうね
こいつを意識しつつ、映画見たり本読んだり考えたりする時間を大切にしている。





僕はがんばっている人が好きだ。


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2019/07/07 18:50
休暇中。
鳥駅スタバにて。


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Update 2019/07/07
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僕の授業のテスト対策

このネタ。
きっと関心が高いことと思う。
そんなわけで今回はコイツについて書く。

まあ多くの教員がそうだろうが、小手先テクニックで点数を取ってもらってもうれしくない。
なるべく、ちゃんと勉強した結果として、ちゃんと点数がついてくるテストを作ろうと思っている。
僕の授業に特化して書くが、きっと試験のあるあらゆる授業・勉強の参考になることと思う。

全体を勉強する

授業中寝ていた、ついていけなかった、という人はまず全体的に内容をおさえよう。
僕の授業では読書案内の最初に、全体がさらえる読み物を紹介している。
スライド資料を眺めてから、その本を読んでみる。
一度で足りなければ2,3度読んでみる。
一つの本ではなく、同レベルの類書を読んでみるのも悪くない。
これで大概は全体的に内容を押さえることができる。
再び資料に目を通すと、わりとわかるようになっていることに気づくと思う。

さらに深めるための本や、軽く読むための本も紹介しているので、そちらにももを通せば、かなり知識が身につく。
ここまでやれば、単位を落とすことはないと思う。

細部を理解する

全体がなんとなくわかったら細部を理解する。
僕の授業のでは「前回のチェックプリント」を配っている。
このプリントにキーワードが載っているので、コイツらを押さえる。
ここに載っているものに関しては、何それ初めて見る、という状態は避けたい。
また、授業中に板書した事項、線を引いたところも重要。
あわせて理解しておきたい。

自分の言葉で説明する

コレ、結構大事。
理解度を測る一つの方法として、自分の言葉で説明してみる、というのがある。
理解した気になっていても、意外とできないもの。
理解が甘い場合もあるし、言語化能力が甘い場合もある。
前者の場合はその事項をしっかりと勉強し直す。
後者については、それ自体が大学での大事な学習の一貫。
後者の能力はちゃんと磨いておくことで、あらゆる大学の試験・レポート、社会に出てからの説明に役に立つ。
自分なりの言葉と言われても、と思うかもしれない。
基準は、同じ授業を受けている友人に説明できるか、というのを使ってみるといい。
意外と難しいが、理解は進む。

僕の授業では、「前回のチェックプリント」「課題」「章末問題」にて問いを設定しているので、コイツを使ってこの辺りの学習をしてほしい。

一番やって欲しくないのが、模範解答の丸暗記。
コレは点数は取れるが、試験後その知識はほぼ役に立たない。
TOEICなどを含めた全ての試験に言えることだが、試験の点数>自分の能力となるような勉強法は避けたい。
このような勉強法は小手先のテクニックに終わってしまい、長期的にみると伸びない。

質問に来る

どうしてもわからなかったら、ポイントをまとめて質問に来よう。
1対多の授業ではわからなくとも、1対1ではわかることが多い。
教育の基本は1対1。
コストの関係で仕方なく1対多になっている。
どんどん質問に行って理解を深めたらいいと思う。
これは大学に在籍していることのメリット。
ここで説明した質問以外の方法は大学生じゃなくともできる。
質問だけは在籍している学生しかできない。
うまく使っていきたい。

ただ、僕はこういう姿勢な上に授業数が多いので、試験前は捕まりづらい。
質問に関しては、このエントリも読んでいただいて、うまく捕まえてほしい。


以上が僕の授業のテスト対策。
ここまでやった人で、今まで単位を落とした人の記憶はない。
ぜひがんばっていただいて。

この中から、自分の得意な勉強スタイルを探していくのも大学での学びの大事なポイントだと思っている。
ちなみに僕が大学生のころは、教科書を何度も読む、と、教員への質問でだいぶかわした。
成績が高いことへのこだわりはなく、知識として定着させることに重きを置いた。

もちろん、時間が足らず落単、期末に反省する、といったことも多かったか。
その辺はみなさんと同じ。




横浜だと思う


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2019/07/07 19:41
休暇中。
鳥駅スタバにて。


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Update 2019/07/07
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IQとはなにか

IQという言葉、一般的によく使われるわりに、どういう数字かを知っている人は少ないよう。
うちの学生さんもしっかりと理解している人は多くない印象。
よく質問もされるし、今回はIQについてくだいて説明しようと思う。

IQと知能

IQとは「知能」というとらえどころないものをテストによってなんとか数値化したもの。
日本語では知能指数という。
そもそも知能ってなぁに、というのが難しく、100人の専門家に聞くと、100通りの答えが返ってくると言われている。
そのくらい定義が難しいものを無理やり数字に落とし込んだものがIQである。
なので、IQテスト自体も何種類も存在し、それぞれの定義に沿って問題が作られている。
時代とともに知能観が変わるため、同じ系統のテストであっても何度も改訂される。
テストの内容が違えば測られる知能も変化する。
当然、異なるテスト間での数値の比較は無意味である。
まあ、そういったもの。

IQテスト間での共通事項

そんな何種類もあるIQテストであるが、ほとんどのテストで共通していることがある。
それは100が平均であることと、数値が高ければ知能が高いということ。
そして、100から離れた数字であればあるほど、全体の中でレアな存在であること。
この3点はほぼどのテストにも当てはまると思う。
例えば、テレビなんかで「IQ180の天才!」なんてのを見ることがあるが、上記の3点を考えると数値の意味もなんとなくわかると思う。

2系統あるIQテスト

では。
具体的にIQの数字はどういう意味を持つのだろうか。
実は同じIQテストでも質の異なる2系統がある。
1つ目が精神年齢という概念を持ち出し、実年齢との割合で数値を出したもの。
2つ目は統計的な技術を使ってテスト点数の値を調整したもの。
両者は前項で説明した共通事項の3つを満たすが、意味と数値の性質が異なる。
1つずつ説明していく。

精神年齢と実年齢の割合によるIQ

まず1つ目がコレ。
精神年齢とはテストで測られた知能の年齢。
IQテストを作成してたくさんのデータを取ると、各年齢・月齢の平均点数というのがわかる。
このデータベースを使って、新たにテストを受けた人の点数から、いったいどの年齢の人の点数に近いかを調べると、その人の知能の年齢がわかる。
これを精神年齢という。
受けた人にはそれぞれ本当の年齢(実年齢)がある。
これらを利用して以下の式でIQを求めたのが、この系統のIQ。
IQ=精神年齢/実年齢×100

平均が100になり、点数が高いほど知能が高くなる値であることは、式を見れば容易に理解できると思う。
後々調べてみると、平均付近ほど人数が多くて、離れれば離れるほど人数が減ることがわかった。
考え方がシンプルでわかりやすい。

さて。
この系統のテスト。
数値の特性上、問題点が存在する。
それは何か。
異年齢(実年齢)間の数値の比較が難しいのである。
例えば、実年齢15歳で17歳の精神年齢であった場合、
IQ=17/15×100=113
となる。
一方で、実年齢5歳で精神年齢6歳の場合、
IQ=6/5×100=120
となる。
たしかにIQは15歳の方が低く出るのだが、本当に5歳児の方が知能は高いのだろうか。
そうとは言い切れない、というのがわかると思う。
実施時の実年齢によって数値自体の質が変わってしまうのだ。
ちなみに実年齢4歳で精神年齢6歳の場合、IQ150の天才が出来上がる。
十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人、という言葉もある。
発達に早い遅いはつきもので、この後精神年齢がゆるやかに実年齢に近づいていく、なんてことはままある。
まあそういうこと。

統計手法による調整タイプのIQ

精神年齢と実年齢の比によるIQの問題点を埋めるために、違った発想をする必要が出てきた。
そこで考え出されたのがこのタイプ。
定義は以下の通り。
各年齢(月齢も含めて細かく区分する)ごとにIQの平均値が100、標準偏差が15になるようにデータを調整した値
もう少し簡単に言うと、IQとは各年齢の平均値が100で平均から±15の範囲に約68%の人が入るようにデータを調整した値。
ちなみに標準偏差とは全データのばらつきを示す統計用語。
平均±標準偏差の間に約68%のデータが、平均±(標準偏差×2)の間に約95%のデータが入る。

ちょっと難しく思うかもしれないが、そんなことはない。
僕らは数値を扱う時、平均値やばらつきを変える操作をよくやる。
例えば、100点満点で平均値が50点のテストがあったとする。
できる人できない人が見た目でパッとわかるように0点を平均値にするには、全て人のテストの点数から平均値50点を引けばよい。
全部50点下がるわけだから、平均値も50点下がる。
その結果、平均が0になって、±○○点という点数に変換される。
平均を100にしたければ、さらにその後全データに100を足せばよい。

ばらつきについてもそう。
間違えて1000点満点のテストを作ってしまったとしたら、テストの点数を10で割れば100点満点に直る。
これは0〜1000点の範囲にばらついていたデータを0〜100点の範囲のばらつきに変換しているのと同義である。
理屈は同じで、全データを標準偏差の値で割ると、標準偏差は1になる。
標準偏差が1の全データに15をかければ標準偏差は15になる。
このように平均や標準偏差は全データに同じ操作をすることで自在に変えることができる。

少し話が逸れた。
IQに戻ろう。
定義で書いた通り、IQとは平均値が100、標準偏差が15になるように全データを調整した値。
高校まででおなじみの偏差値が、得点を平均値50、標準偏差10に調整した値なので、それと比較して理解していただければイメージしやすいと思う。
ここで注意したいのが、この手の値は、どんなデータの集まりかによって変化する。
そりゃあそうだ、平均値を使っているのだから。
どういうことか。
全く同じ問題の算数の実力テストを考えてみよう。
ある人の点数が50点であったとする。
しかし、この点数がごく普通の公立小学校の3年生の集団での50点と超難関私立小学校の3年生での50点はその意味が大きく異なる。
前者の中で比較すると50点は普通だったとしても、後者の中では低い得点であることが考えられる。
すると50点を偏差値にした場合、後者の集団の中では前者に比べて低めの値を示すことになる。
わかるだろうか。

IQテストではとある年齢集団の中で数値を求める。
例えば、10歳0ヶ月〜3ヶ月の集団のデータをたくさん集めておいて、その平均と標準偏差をつかって、その年齢の個々人のIQを求めるといった具合。
この項の冒頭で述べた定義、もう理解できるだろうか。

IQはなんのために使うのか

IQはもともと知的に遅れがある人を探し、教育的な対応をするために作り出された。
この発想は今も生きていて、IQは知的障害の判断の材料にされる。
教科書的にはIQ70以下を知的障害の目安として使う。
最近はIQそのもの値ではなくて、それを知能の領域の得意不得意を見るためにも使われる。
IQはとある知能観に基づいて複数で構成された質の異なるテストの総合点。
当然同じIQでも、どの領域も平均的にできる場合もあれば、領域によって出来不出来がはっきり見える場合もある。
これを分析することで個人の心理特性を把握し、支援に生かす、というような使われ方をする。
むしろ今はこっちが主流か。

あとは、IQが高い人についてのあれこれ。
よくテレビなんかでIQ170の天才!とか紹介される人が出てくることがある。
あの数値、受けたテストの種類や時期で意味が変わるというのはここまで読んだ人ならわかるだろう。
IQテストは学校で一斉に受ける以外は、困っている人が診断や支援のために受けるのが普通。
なので、メディアで紹介されている「天才」のIQは今のものではない可能性が高い、と思っている。
目にするたびに、どのテストをいつやった時のIQなんだろう、と考えてしまうのは職業病だと思っている。

ちなみに。
IQが高い、というのは無条件でよいことでうらやましい、と思いがちだが、これも違う。
標準に合わせた学校制度の中では、高すぎるIQを持った人は困難を抱える可能性がある。
学校のレベルが彼らのレベルに合わない。
一日中、簡単すぎるレベルの授業に付き合わされる。
想像以上に退屈で苦痛だと思う。
しかも、それをつらい、と訴える場もなければ、適切な支援も知られていない。
贅沢な悩みだと取り合ってもらえないばかりか、反感を買ったりいじめられたりする危険もある。
これは、医療の対象にはならないので、心理とか教育とかのフィールドの人のお仕事なのかなと思っている。

まとめと本の紹介

さて、つらつら書いてきたが、そろそろおしまい。
もう少し勉強したい人のために本を紹介しておくので、興味ある人は読んでいただきたく。

なお、IQの説明に出てきた、平均や標準偏差、その集団の話。
これは、心理系ではよく出てくる言葉で、知っておくと便利。
世の数字を読む基礎素養として全ての人に大事だと思うので、もし読んでいる人が大学生・院生さんならこの程度の言葉が説明なしに理解できる程度の初歩の統計学はやっておいたほうがいいと思う。

ではでは、また。


文献

知能指数―発達心理学からみたIQ (滝沢 武久,中公新書)
IQってホントは何なんだ?(村上 宣寛,日経BP社)

はじめての統計学(鳥居 泰彦,日本経済新聞社‬)




横浜の片田舎にて。


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2019/03/23 12:03
休暇中。
九州のどっかにて。


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