週刊雑記帳(ブログ)

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辞書の記述は定義ではない

前に有名人が、誰かの語句の使い方について、辞書の定義と違う、というようなことを指摘しているのを見た。
言葉のあやとかそういうのではなく、どうも本気で辞書の説明を語句の定義と思っているようだった。
で、いろいろな人にと聞いてみると、どうも辞書の記述をその語句の定義だと思っている人が結構いるよう。
よって今回はこのテーマについて。

まず。
語句の定義とは何か。
これはある言葉をここからの文脈ではこう使う、と宣言して、語句の意味を限定的に決めてしまうこと。
研究や法令で対象を決定して曖昧さを排除するために行う。
なぜそんなことをする必要があるのかといえば、言葉というのはさまざまな意味を持つから。
人によって意味が微妙に異なったり、地域や分野によっても意味が異なっていたりする。
そこで、ある目的に応じたその語句の最適な内容を言葉で用意し、ここではこう使うよ、と宣言してしまうのが定義。
これについては、別記事「定義のハナシ」で書いた通り。

さて。
では、辞書に載っている言葉の解説は定義ではないのだろうか。
ここまで読んだ方は、定義になり得ないということにお気づきのことと思う。
だって、定義とは目的のためにある語句について特定の文脈内での意味を限定することであって、それは目的に応じてたくさん存在するものだから。
元々言葉というのは意味に曖昧なところがあるから個別に定義せざるを得ない。
定義とは、文脈に応じて曖昧な部分を取り去り意味を明確にするということと言い換えてもいい。
そして、定義がたくさんあるということは、ある語句の意味にはそれなりに揺らぎがあることを意味する。
辞書に載っている意味の説明は、世間で使われているその言葉の持つ意味を、全部ひっくるめてそんなに間違いじゃないように説明するもの。
知っている人みんなが全員納得できるような、曖昧だけど共有できる説明のこと。
これを辞書業界では語釈という。

ここまでのことだけでも辞書の語釈が定義たり得ないのはおわかりのことと思う。
しかし、まだ続ける。
そもそもこの語釈、辞書によって大きく異なる。
つまり、もし定義だとするならば、辞書の数だけ定義があることになる。
そういうのは定義とは言わない。

そもそも何でそんなことになるのか。
これは、辞書の語釈は、あくまで世間一般で使われている意味を文脈から考え、それらを総合して意味を説明したものだから。
まず、世間一般で使われている意味の事例を集めてこなくてはいけない。
この材料が、それぞれの辞書で異なるわけだから、語釈に落とし込まれた時点で、違うものになるのは当然の話。
語釈の書き手によってもまた、表現が変わるであろう。
それだけではない。
辞書のよって編集方針というものが存在する。
これが辞書によって大きく異なる。
例えば、三省堂国語辞典では「実例に基づいた項目」「中学生にでも分かる説明」という2つの大方針を掲げているという(飯間,2013 )。
そうすると、語釈はこの方針から大いに影響を受ける。
専門家に解説するのか、大学生に解説するのか、誰に向けて語句を解説するのかは、語釈の文自体が全く別のものになりうる。
定義は目的に最適化して行う、ということを書いたが、同じく辞書の語釈も方針に最適化して行う、ということになる。
辞書の編集方針にしばられる形で、世に使われる語句を別の言葉で表現する、といったところか。
そんなわけだから、語釈には辞書ごとの多様性と総体としての曖昧さがどうしても出てしまう。
定義にはなり得ない。

だいたい、言葉は生きている。
今この瞬間も新しい使われ方が生まれては消え、古くからの意味は徐々に使われなくなるということが起こっている。
つまり、言葉の意味というのは、時間の経過とともに変わる、というような性質を持つ。
元々誤用だった使われ方が一般的に受け入れられて全体として意味共有が起こるなんてことはよくある。
「全然大丈夫」の「全然」なんかはそういうののわかりやすい例。
これは、専門的な用語でも同じで、研究が進むめば時とともに語句の意味合いが変わっていくというのはよくある。
これに引きづられる形で、世間一般的な意味もまた変わっていく。
そうすると、同じ辞書であっても、版が違うと語釈が異なる、ということは出てくる。
ね。
いよいよ、定義にはなり得ない。

では。
辞書の語釈をそのまま定義として使えるか。
これは、たまたま選んだ語釈の内容が定義の目的としてベストなものであれば可能で、そうでなければ不可。
何度も書いたように、語釈とは世間一般で共有されている意味を辞書の編集方針によって切り取ったもの。
よって、世間一般で受け入れられている語句の意味という点では、使えなくもないが、みんなに受け入れられている分、曖昧でざっくりしたものになりがちになってしまう。
研究や法令なんかだと、そのままでは使いづらいことが多い。
結局のところ、定義したい人が辞書を参考に自分で考えて自分の言葉で定義するしかない。
もちろん他者の定義からいいのを連れてくるのでもいいが、辞書よりは研究・法令の定義の方が適している。
なお、自分で考えて自分で定義する、はものすごく頭を使う上に、言語化能力を磨くことができるのでおすすめなのだが、本稿のテーマからは外れので書かない。
また別の機会に、別のシリーズ(大学生の学び方入門研究をしようあたり)で書こうと思っている。
本当は本記事の最後に関連の書籍紹介を書こうと思っていが、長くなってしまったのでこれも別に書く。

では、今回はこの辺で。
また。

引用文献
飯間浩明(著),辞書を編む,光文社新書




京都駅だよ。


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2024/09/19 16:39
休暇中に。
元同僚の研究室にて。



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Update 2024/09/19
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