大学で授業をしていると、まず定義から見ていくということをよくやる。
これは、研究でも同じで、その用語をまず定義しておく、というのは論文でもよく見られる。
まあ、学術的な話だけではない。
法律・条約でもそうで、かなり初めの方で「定義」という条文があり、そこで細々とその法律・条約で使っている言葉の定義をしていることがある。
さて。
授業で定義を話すと、時々困ったことが出てくることがある。
それは、定義が複数ある、というもの。
例えば、発達とは谷中(2023)はこう定義するが、田中(1987)はちょっと違う定義をしていて、藪中(2020)は全然違う定義をしている、いった感じ。
人によって、分野によって、法律によって、国によって、それこそあらゆる文脈によって定義が全然違う場合がある。
で、大学生くらいだと、どうもこれが大変意味がわからない、となるらしいのである。
これは大学生に限らず、学校の先生など社会人とお話しするときにも同じようなことを言われるので、存外一般的なものなのかもしれない。
定義が複数ある、どういうことか。
イミガワカラナイ、統一しておいてよね。
そんなところだろうか。
では。
なぜそんなことが起こるのだろうか。
これは、定義とは目的に合わせてその都度行うものだから。
ある目的のためにその用語を使う必要がある。
そこで、その目的に最適化した形で、その用語をこの中でこう使うよ、と宣言するのが定義である。
もちろん、その用語が持つ、人々に共有された意味を無視して定義することはほとんどない。
ただ。
同じ用語が、構成員全員に全く同じ意味で共有されている、というのはほとんどあり得ない。
一人一人が、それぞれの持つ基礎的な知識と専門性などのバックグラウンドによって、意味を少しずつ異なる形で持っていることが多い。
これが、専門分野間によってもまた真、となる。
例えば、先に「発達」という用語を例に挙げたが、これを成長と捉えるのか、変化と捉えるのか、はそれぞれの立場によって異なる。
心理学者であれば変化として捉え、老化現象まで含めるだろうし、小児科医であれば成長として捉え大人になるまでを主眼として捉えるであろう。
心理学者にしても老化について研究する前の大昔であればやはり大人になるまでの変化として捉えていたと思う。
このように、その人や分野・コミュニティーによって、捉え方が大きく異なることはよくある。
さらに。
用語というのは、何らかの目的を用いて使うことになるのだが、その目的がまた使用する文脈によって異なる。
先の例の「発達」。
これを心理学の授業のために使うのか、何らかの法制度の整備のために使うのか、医学研究がしたくて使うのか。
元々、用語の持つ意味自体が多義的であるから、あらかじめその文脈上どういう意味で使うのかについて宣言をするということになるのだが、それは当然その文脈で使用する目的に対して、最適な定義がなされることになる。
そういったわけで、用語について異なる定義というものが出てきてしまう。
こういう話をすると、必ず出てくるのが、「そんなの全分野に共通する定義を作って使ってほしい」というもの。
学ばされる側からすると面倒だし、そうしておいてよね、ということだろう。
問題は、そんなことできるのだろうか、ということ。
これはおそらくかなり難しい。
再び登場、「発達」。
保育や小児医療の関係者は日常的に、発達を大人になることの意味で使っている。
この文脈で「発達」という用語を定義する場合、老化までを含めた変化を発達と捉えるという発想にならない。
そもそも子どもが大人になる何かを捉えた上で発達という言葉を使いたいに違いなく、その文脈では大人の老化までを含めた変化の意味で使う必要がない。
むしろ、老化までを含めた変化で定義してしまうと本来言いたいことがぼやけてしまい、目的が達成されないということも起こりうる。
目的のために定義を統一できない、というののわかりやすい例が障害。
障害児教育の文脈と医学の文脈で、定義自体が異なることがある。
医学では診断をして治療をしてできれば治したい、というのが定義を行う大きな動機。
そうすると、診断は厳密でなければならないし、病理的なメカニズムも踏まえて障害概念を作り定義づける必要がある。
一方で、教育では、教育を行う制度上の仕組みを整えるために定義をする。
治療まで念頭においた厳密な診断は必要なく、むしろ、グレーであっても教育上困っていれば支援・教育をした方がいい。
すると、医学分野の厳密な診断的定義だとむしろ目的を達成できない、ということも起こりうる。
では、同じ分野なら同じ定義でいけるか、というそうもならない。
再再登板、「発達」。
心理学では老化も含めた変化を指すことが多いが、これは研究が進めて概念に拡張があったから。
昔はやはり大人になる成長を意味して使っていて、変化の意味では使っていなかった。
つまり、昔の心理学系の文章では、今とは異なる定義で使われていることがある。
時代が変わって、概念や言葉の意味もまた変わっていく、ということを考えると、同じ定義を使用するというのが相当に難しいということがわかると思う。
これに、用語を使う個人の考えや思想がのる。
万能な定義というのは存在しない、ということ。
それゆえに。
定義が重要ということになる。
大学の授業や、専門書・論文、法律・制度なんかで必ず定義を載せているのはこのため。
用語の意味は文脈によって異なり、普遍的に通用する意味などなく、受け取られ方はさまざま。
なので、この文脈ではこういう意味で使うよ、と定義しておく必要がある。
それによって、その文脈上でやりたいことを達成することができる。
さらに、複数の文脈間における知識の統合や比較もまた可能になる。
僕の論文では「発達」をAの意味で使っているけど、こっちの論文ではBの意味で使っているよね、だから同じ用語だけど分けて考えなきゃいけない、とか。
そっちの論文では「成長」をAの意味で使っているから、この場合僕の定義上の「発達」と読み替えて使えるなぁ、とか。
こういったことが可能になる。
そんなわけで、大学に来ると、「〇〇の定義は?」ということをよく聞くようになる。
これは社会に出てからもずっと続くことになる。
社会人になるとさまざまな法制度を利用したり関わったりしながら生きていくことになる。
そして、その法制度も、その国や地域、分野の実情や制度史によって作られるのもの。
用語の定義はどうしても多様なものにならざるを得ない。
社会人になっても、そういうものだと思って定義というものと付き合っていく必要がある。
これを意識しておかないと、前提を間違えていろいろと誤解をしてしまうことになりかねない。
以上、定義のハナシ、でした。
ではまた。
皇居のあそこらへん。
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2024/08/27 16:59
仕事後に。
鳥駅ドトールにて。
Update 2024/08/27
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