週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

教科書と副読本を探すこと( 教育奮闘記14 )

その昔、僕の授業ができるまでという記事を書いた。
その中で、教科書や副読本についても少し触れた。
ただ。
教員にとってのこれらの本と、一般の人が考える僕らと教科書との関係、だいぶ乖離しているのではないかと思うことがある。
そこで、そのあたりのことをもう少し掘り下げて書いてみようというのが、今回の記事の意図。

まず、教科書や副読本。
学生時代のことを思い返すと、教科書は指定されているほうがありがたかった。
しかしながら、実際には指定されていない科目も多かった。
授業というものは一生懸命聴こうとするもののどうやっても聞き逃しや眠くて落ちるというようなことがあり、教科書のない科目は復習が難しくて勉強に難渋した思い出がある。
これらの授業に対する度に、なんで教科書を指定してくれないんだろう、と疑問だった。
一方で、自分で書いた教科書を売りつける教員もいて、それもまた反感を持ったもの。
まあ僕は絶対買わなかったけど。
これらについての「なぜ」の答えは僕が教える立場になって知ることになる。

大学の授業は、基本的に教える人ごとに内容や構成が異なる。
たとえ、教養の心理学のような概論・入門であってもそう。
これは、教員によって学問領域の中での専門が異なり、学問全体の知識やイメージ図が異なるせい。
また、90分×15回は領域の内容を全て扱うにはあまりにも時間が少なすぎる。
さらにいうと、授業を通じて何を教えたいか、という授業設計の考えも人によって異なり、授業に取り上げられるものや広さ深さが変わってくる。
これについては、別の記事として書いてあるので、詳しくはそちらを読んでほしい。

つまり。
教員間で授業コンテンツが共通していない、ということ。
自分のオリジナルの内容があって、それが他人の授業内容と完全に一致しない。
他人が書いた教科書を前提として授業を展開するのではなく、自分のコンテンツがまずあって、そこに適切な教科書を充てなければならない。
基本的に教科書がないのが前提なのが大学の授業なのである。
これが大学の授業において、教科書がない授業がたくさん存在する理由。

教科書がある授業というのもあるじゃあないか、という反論もあるだろう。
この場合は、2パタンが考えられる。
まずは、教科書を決定し、それに合わせて授業をデザインする場合。
もう1つが、自分の授業デザイン・コンテンツにあった教科書を探してきて指定するパタン。
僕が教科書代わりに参考図書としてあげる本は後者の意味合いのもの。
いずれの場合も、ただ授業をやることに比べてると手間暇がかかる。
なお、新規開講科目で科目全体のイメージがない場合は前者の意味合いで教科書を指定して授業を作っていくこともある。
ただ、この場合でも数年やると知識が増えて科目全体のイメージが出来上がってくるので、元の教科書が段々と合わなくなってくる。
教科書に載っていないことばかりしゃべりやがるぜ、という教員がいるのはこのせい。

だいたい、研究者は教科書に詳しくない。
なぜなら、専門分野の知識は論文なり学会発表なりで仕入れてくる。
本については読みはするのだが、学部学生に教えるために書かれたいわゆる教科書ではなく、専門書を読むことがほとんど。
教科書に載っているようなことは8割方知っているので、わざわざ日常的に読んだりしない。
研究を進める上では教科書はほとんどなんの役にも立たない。
教科書を調査する、というのは純粋に教育業務ということになる。
自分の頭の中にある授業デザイン・コンテンツと合う教科書を探し、対象学生の役に立つかどうかを吟味するために読む。
内容が間違っていることもあるので、紹介に耐えうる本なのかも吟味のポイント。
他の人がどういう授業を構成するのか、それを調査する教材研究的な意味合いもある。
が、研究目的に転化されることはなく、あくまで教育目的に限定される。

で。
難しいのは、自分の頭の中にある授業デザイン・コンテンツと合う教科書が見つからないこと。
というか、世の中の大学生向け教科書を見てみればわかるのだが、どれも大きく違うわけで、これは教員間で内容を一致させるのがどれだけ難しいかということを物語っている。
内容の正しさ、難易度まで、ドンピシャとなると本当になかなかない。
結局のところ、僕の場合は教科書の指定をあきらめ、自分の単元ごとに複数の参考図書をあげる方向に落ち着いた。
どうやっても適切な教科書が見つからない場合は、資料を充実させて対応するくらいしかできない。
最近は、ブログに補足記事を書く、ということもやる。

こうなってくると、自分で教科書を書いた方が早いんじゃないか、という気になってくる。
おそらく、単著もしくは少人数で書かれた教科書はこうやって出来上がっている。
当然、自分の授業をもとに教科書を著しているわけだから、自分の授業の教科書としても最適ということになり、教科書に指定されるということになる。
経緯からして、その教科書が授業内容を網羅した最適な教科書、ということはわかっていただけたことと思う。
これが、授業担当教員が自著を教科書指定する主因。
なお、僕は内容が人によって異なることを意識して、複数の教科書を読んで見る、というのをお勧めしているのだが、今回のトピックからは外れるので書かない。

教科書自著指定について。
実は、もう1つ理由がある。
学術書というのは、すぐ絶版になる。
特に、売れないと初版1刷でおしまいとなり、手に入らなくなる。
せっかく教科書として書いたものの、これ読めば授業内容学べるよ、という紹介ができなくなってしまう。
よって、できれば絶版にならない程度に売れてほしいと思うもの。
儲かるということは教科書クラスだとあまり聞いたことがなく、買ってほしい動機は絶版になってほしくないというのが大きいと思う。
教科書を書くなんていうのは、実入に比べて手間暇が全くつり合わないので、基本的には儲けるために書くという発想にはならない。
まあ、人によるとは思うが。

で、この絶版。
自分で書いた教科書だけの問題にとどまらない。
教科書や参考書、副読本など、すべての紹介する本に絶版のリスクがある。
せっかくがんばって教科書・参考図書・副読本の調査を行なったものの、数年後には絶版というのはよくあるパタン。
絶版ではないが、内容が古くなって使えなくなる、というのもまたよくある話。
その法律は変わった、あっちの制度は拡充された、あぁこの概念は学術的なアップデートがあった。
あぁ、教科書・副読本が対応してないじゃあないか、、、。
その度に、別の本を探して、、、、を繰り返すことになる。
ね、大変でしょ?!
涙涙の物語がそこにはですね。
それでも、授業で紹介した本を学生が持っていたり感想くれたりすると、やらなきゃなぁとなる。

僕の授業で紹介する本については、これに加えて図書館に入っているか否かの調査、入っていなかったら入れてもらう、というのもやる。
これはちょっとしたテクで、絶版になっても有用であれば紹介し続けることができるというメリットがある。
もし、教員でこれを読んでいる人がいたら実践してみてほしい。
絶版本問題が少しだけ軽くなる。

長くなった。
今回はこの辺で。
また。





たぶん学内

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2025/09/06 19:30
学会上がりに。
仙台市内にて。



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Update 2025/09/06
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本を読むハナシ

読書で何か書いて欲しい、という 要望 をいただいた。
それも、プライベートの読書で、という。
ふむー。
こいつぁ、身近なネタなわりに結構難しい。
身近すぎるから難しい、と言ってもいいかもしれない。
なんせ、何も考えずに読んでいる。
特にプライベートな読書はそう。
どんな読み方しているか、なんて自分でも把握していない。
そこで、せっかくの機会なので頭フル回転させて考えてみた。

まず。
仕事にしろプライベートにしろ、共通しているのは。
これは、最後まで必ず読む、ということ。
おもしろい作品、興味のある内容、読まなきゃならない専門書であれば、最後まで途中で止める必要はない。
問題は、つまらない作品、難しすぎてさっぱりわからない本、など。
もう全く読む気が起きないので、遅々として進まないのだが、でも最後まで読むようにしている。
つまんない本はたいていつまらないまま終わるのだけど、たまに最後の方で逆転ホームランを打ってくることがある。
難しい本も同様で、途中からスーッと入ってくることがある。
これを逃したくなくて、原則最後まで読む。
例外が、専門系の本で、研究で一部押さえれば事足りる場合と、内容の間違いが多いことに気づいた場合。
前者は時間節約のため、後者は情報に触れること自体が有害であるため。
これらの場合は全部読まない。

まあ、仕事の本の話はいいや。
お題はプライベート読書だった。
で。
読み方はいたってシンプルで、ただ、読むのみ。
メモも、付箋貼りも、線引きもしない。
ただただ、読むだけ。
研究系の本では付箋貼りをすることが多いけど、それ以外の本では一切そういうことはしない。
ただ、読む。

本は、1冊を集中して読むタイプではなく、複数同時並行タイプ。
もちろん、引き込まれて集中して読むこともあるが、だいたい気が散りやすいタイプなので、複数の本をかじり読みしていく。
ストックは紙の本で文庫1、新書1、電子書籍1の3冊に仕事の本が数冊、ということが多いか。
おかげでカバンが無駄に重い。
昔は電子書籍の部分も全部紙の本だったので、これでもいくぶんかは軽くなった。

問題はつまんない本、難しすぎる本に当たった場合で、この場合は読むのに時間がかかる。
僕は元来怠惰な人間なので、そういう本はストックしつつ読むのを先延ばしにする。
メモも線引きもせずに読む上に、間が空く。
間が空けば当然ながら、忘れる。
忘れれば、仕方ないので最初からやり直しになる。
そうやって、最初の方を何度か読む羽目になった本は数しれず。
実に時間を浪費するスタイルである。
あ、あと、持ち歩くので腕の筋肉を鍛える効果もあるか。
気が進まない本ほど、腕の筋肉を鍛えるのに役に立っている。
それほど、僕の鞄は本のせいで重い。

1回読んだら、おしまいか、というとそうとも限らない。
読んだ本については、短評としてまとめてSNSに投稿することで自分へのメモを残している。
とてもよかった本については、記事として紹介することもある。
読み終わってすぐ書けばいいのだが、これも生来の怠惰さが勝ち、先延ばしにされる。
で、いざ書こうと思い立った時には、たいてい内容を忘れ去っている。
仕方なく、さっともう一度読み直して書くことになる。
通常の読み通しで1回、SNS用に1回、記事用に1回、と計3回読んでいる本も少なくない。
改めてこう書いてみると、時間をムダづかいしているなぁ、と思う。
思いはするのだが、これはきっと一生治らない。

読む場所については、研究室は仕事の本オンリー。
カフェ・自宅は、仕事も含めた全ての本を読む場になる。
自宅に関しては、書斎机とこたつスタイルのテーブル、ハンモック椅子の3種があって、ハンモック椅子のみ仕事の本は読まない。
ハンモック椅子はリラックスしながら物語かライトなノンフィクションを読む。
最近は、読む場所がもう1つ増えた。
それは、飲み屋のカウンター。
静かな飲み屋に行って、酒を飲みながら、物語を楽しむ。
おっさんになったなぁ、と思ったりもするのだが、心地よく物語に没頭できるのでたまらない。
こちらも問題はある。
酒も2合目に入ったくらいから、わけがわからなくなること。
読み飛ばしたり、よくわからなくなって読み返したり、ということが増える。
結局次の日、読み直しになる。
いやー、やっぱ時間をムダづかいしているなぁ。。。

まあでもさ。
趣味の時間に、時間のムダとかいうのはナンセンスなので、これでいいと思っているわけです。

お、わりと長くなった。
今回はここまで。
ではまた。

補遺:
この記事は、前に書いたコチラの記事からいただいた要望をもとに書いたものです。
ネタ提供、よろこびます。
書けるかはわからないけど。




どっかのカフェにて。

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2025/11/02 19:38
久々のお休み2日目。
鳥取市内にて。



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Update 2025/04/03
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素朴な理解、論理的な理解、学術的な理解 No.3 正しさに迫るために

続きもの3作目。
前回までに、知識や理解のレベルには正しさ・確からしさを軸として3つのレベルがあるよ、という話を書いた。
「素朴な理解」は個人的な経験からの物事の理解で間違いやすいのが特徴、「論理的な理解」は個人内で正しさに迫る方法を実践した上での理解、「学術的な理解」は専門家集団の中で正しそうと共有されたレベルのもの。
まあそんな話。
前回までがまだの人は、No.1No.2を読んでみてほしい。

今回はこれらを自分の理解に活かそう、という話。
前に別シリーズで、 正しいことへの迫り方(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか18) という記事を書いたことがあるのだが、これを別の角度から眺めたエッセイ的な読み物と考えていただければ。
学問的な話、大学で身につけたい技術、よりももう少し広い一般的な話として間違わない方法なんぞをつらつら書いていく。

大学で教えていると、大学生の素朴な理解による主張をわりとよく耳にする。
高校までの教科で学んだこと、大学の授業で学んだこと以外の理解が素朴なものであるのは、まあ仕方ない。
ただ、それだと教員に教えてもらうまでは永遠に素朴な理解を脱することはできない。
素朴な理解vs学術的な理解の比較を自分の土俵で行い、素朴な自分が素朴な理解の側に軍配をあげるなんてことも起こりうる。
それが積み重なると、いつまでたっても素朴な理解を抜け出すことができない。
そこで、まずは自分の理解が素朴な理解である可能性を自覚するところからはじめたい。
そして、素朴な理解は、論理的な理解、学術的な理解と比較して確からしさのレベルが落ちる、というのも頭に入れておく。
その上で、一度立ち止まって間違っている可能性を論理的に考えてみたり、自分の意見やその反対の意見の根拠を学術書に求める、というのを心がけると、自分の中の素朴な理解・知識は減っていく。
それだけ正しさに近づくことができる。

誰かの意見を受け取る時もそう。
それが素朴な理解による意見の可能性は十分にある。
鵜呑みにせず、根拠はなんなのか、もし根拠があるならその根拠は素朴な理解なのか、学術的な理解なのか、などを立ち止まって考えるようにする。
多数派が素朴な理解で主張していることもあるから、数は当てにならない。
力を持った個人や集団であっても、素朴な理解による正しくない主張を行うことはある。
あくまで、どういう情報源をもとに展開されている主張なのか、どういう論理構造なのか、などを精査する。
論理構造がよく理解できない場合は、学問の領域の情報を参考にする。
その分野が専門の学者研究者が書いた本を読んでもいいし、SNSやWeb記事をのぞいてみてもいい。
なるべく複数の情報にあたって、学術的な理解・知識を参考にしたい。
これは、何かを学ぶ時もそうで、学問的背景のない専門家でもなんでもない人による本や動画は基本的に間違いを含む可能性が高い。
が、これは本記事とは趣旨がずれるためこれ以上は書かない。

ここまで読んで、学術的な理解という言葉がたくさん出てきて反感を持った人もいるかもしれない。
他の業界・分野だって、正しい理解をしている可能性はあるじゃあないか、と。
それはもちろんその通りではあるのだけど、論理的な正しさという点で学術的な理解にはかなわないと思っている。
この理由は明快で、学問の一番の目的が正しい知識を追求し知識体系を構築することにあるから。
感情も政治的思惑も宗教的心情もさまざまな価値観も捨て、確からしい知識を追求することを最も重視している。
正しい知識に迫るための技術的な蓄積は重厚で、おそらくこれは他のどの分野よりも優れている。
政治業界であれば「正しさ」よりも「よりよい社会の実現」に重きが置かれるし、支持者の持つ素朴な理解からは逃れられない。
宗教分野だと、宗教的な理解というあらかじめ各宗教の信念的に「正しさ」が決まっている全く別の理解の様式が重視される。
「正しさ」のために理解をするのではなく、「正しさ」にそって理解をする、というか。
経済分野だと、儲かるか儲からないかという経営的な価値観からフリーでいることができない。
ゆえに、学問分野の学術的な理解が、論理的な理解の先にあるものとしてはベストだと思っている。

さて、つらつら書いてきたけど、そろそろおしまい。
この「素朴な理解」という概念は頭に入れておいてもいいと思う。
我々人間の物事の理解の基本はこの「素朴な理解」で、ゆえに間違いやすい、ということも。
結構役に立つ。
では、また。





誰もいないベンチシリーズ、秋。


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2025/08/30 19:00
出張中。
川崎市内にて。



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Update 2025/08/30
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カハンスウダイヒョウシャ、オシゴト記

ずいぶん昔のこと。
隣の部屋の先生が僕の部屋にやってきた。

「僕さ、大学辞めることになってさ。
で、今持っている仕事を引き継いでくれる人を探しているんだけど、やなかさんどうかと思って。」
と、言う。
外の仕事ってことですか、と聞くと、外のと中のと両方あるらしい。
「外部の機関の〇〇委員会の外部委員なんだけどどう?」
「ああ、その機関知ってます!僕関係者なんですよー。」
「ああ、じゃあダメだー。外部委員なので関係があっちゃダメなんだって。」
ははぁ。
「じゃあさ、内部の仕事のカハンスウダイヒョウシャ、の方お願いできないかな。」
「わかりましたー。」
「外部委員の方は時給高いんだけどねー、他の先生に頼むわ。カハンスウダイヒョウシャは内部の仕事だからそういうのはない。」
えぇ、僕外部委員の方がよかったな。。。

そんなわけで、カハンスウダイヒョウシャなるものをやることになった。
漢字では、過半数代表者、と書く。
実はこれ、サラリーマンであれば職場にこれをやっている人がいる場合がある。
過半数代表者とは、労働関係法において「労働者の過半数を代表する者」と定められし者。
略して、過半数代表者、もっと略すと、過半数、となる。

コイツは何者か。
労働は使用者と労働者の契約である。
契約である以上、対等な関係である。
が、そんなのただの理想で、実際には使用者の側に圧倒的な力がある。
これだと、労働者は力関係で使用者に負けてしまい、不利な契約を結ばされてしまう。
これを防ぐために、労働者が団結して団体で使用者と渡り合うことで対等な関係を保障しよう、という仕組みが労働組合というもの。
実効性を高めるため、労働組合法という法律まであって、手厚く保護されている。
労働組合は、使用者と契約や約束事をする主体である。
細々とした契約的性質を持つ就業規則の改定には、労働組合が意見をいうことができるし、他にも使用者と労働者の約束事を結ぶ労働者側の主体としての役割を持っている。
ただ、労働組合は自主的な組織なので、そもそも労働組合がなかったり、あっても多くの労働者が加入していなかったり、ということは想定される。
労働者の過半数の者が加入する労働組合がない場合、組合に代わりその役割を担う個人の労働者を過半数代表者という。
ああ、長かった。
まあ早い話が、労働組合の劣化版的個人、といったところ。
よくよく考えると、大変なものを引き受けてしまった。

1年目、初めての過半数
センセイ、規則改定をしたいので意見書を書いてください。
はーい。
ここにハンコをください。
ぽん!
協定結び直しがいくつかあります。
ぽん、ぽん、ぽん!
わからないことあると質問しては、へー、なるほどー、というのの繰り返し。
いろいろな仕組みがあるもんだなぁ、と思っていたらあっという間に1年が過ぎていた。

2年目になると、少し慣れる。
当然質問が増える。
意見書の内容も1年目よりは濃くなる。
わからないことは自分でも調べるようになる。
で、3年目。
たらららったったったー(某ゲームのレベルが上がった効果音)。
レベルが上がった。
法律を自分で調べるようになると、おかしな点、間違った運用なんかにも気づくようになる。
それを指摘したり、意見書を書いたり、なんやらかんやら。
別に意図的に問題が作られているわけでない。
誰も気づいていなかったり、主張すべき過半数代表者が何も言わなかったりするから問題が生じている。
なので指摘をしたり意見書を書いたりすると、ちゃんと拾ってもらって、改善される。
ああ、これの役割は大事だなぁ、と改めて感じたのがこの頃。
その後経験年数を重ねるにつれて、この感想は強くなっていく。

意見書を書くたびに法令を調べる。
そしてその度にわかるのだが、労働の現場で生じるであろういろいろな問題というのはあらかじめ予想されており、それを防ぐための法的な仕組みもまたあらかじめ用意されていることが多い。
が、これがしっかりと機能していないこともまた多い。
元々、我が国は、労働組合と使用者、という枠組みで労働法制が出来上がっているため、組合が弱いとこれらの制度が使われない。
過半数代表者の場合、組合と違い個人がこれを担うことになるため、いよいよ法的な仕組みが使用されないままになりがち。
その結果として、労働者なんか損してないか?みたいな状況が作り出される。
ね、大事。


ただね。
大変なこともある。
まず、結構に時間を取られる。
法令やその趣旨を調べたり、よくわからないことについては当事者の意見を聞いたり全職員にアンケート取ったりといったことをしなくてはいけない。
論文とは違った説得的な文章表現力も求められる。
法令の読解能力、法改正についても敏感でなくてはならない。
わりと時間資源を食う。

さらに大変なのが方々で嫌われること。
役割上、意見を強めに主張することもあるのだが、こういうのが嫌いな人は一定数いる。
利害が絡むとより嫌われる。
使用者側から見ると抵抗勢力そのものなので、法制度に理解がない使用者の場合、嫌われておしまいになる。
労働者間でもそうで、あるグループの労働者の法的権利を擁護する意見をすることで、別のグループに法的ではな不利益が行くことがある。
この場合、より保護性の高いもの(例えば、法律違反、不利益の回復など)を優先して意見書を書くことになるが、そんなこと知ったこっちゃないというタイプの人にとっては余計なことをする人にしか見えない。
かくして方々から嫌われる。
ね、大変でしょ。
何もいいことはない。
まあでもそういうお役目なので仕方ない。
きっとそういうお役目の人は僕の周りにもいて、知らないところで役割を果たしてくれた恩恵を僕ももらっているはずで、たまたま僕の順番なんだと思うことにしているわけです。

そんなこんなの知られざるカハンスウダイヒョウシャのオシゴトの紹介的記事でありました。
この仕組み、うまく動いていない職場も多いので、働きやすい職場にしたいなぁと考えている人がいたら、やってみるといいかもしれない。
非常に大変なので、何人かで組んで協力しながらやるのがよし。
うまくいくと、ちょっとだけ職場が働きやすい方向に変わる。

でもね。
僕、やっぱ思うんです。
外部委員の方がよかったなぁ。。。

長くなった。
ではまた。




大学内にて。

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2025/10/05 20:24
出張中。
福井市内の宿にて。



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Update 2025/10/05
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戦争の解像度のハナシ

「戦争の作品は怖いから観たくない」
こんな声を聞いた。
戦争に関する作品に限らず、語りや本、ドキュメンタリー番組も含めるとまあわりと聞く。
一人や二人じゃない。
結構、こういうことを思っている人は多いのではないか。
今回はこれについて書いてみようと思う。

まあ、気持ちはよくわかる。
火垂るの墓にしろ、はだしのゲンにしろ、あまりに悲惨な話なので、触れるだけで消耗する。
NHKのドキュメンタリーやノンフィクションだって、エンタメとしてのおもしろさは皆無である。
重苦しい気分になるので、避けたい、というのは、まあそうだよなぁ、と思う。
思いはするのだが、でも僕は意識して避けないようにしている。
なぜか。

一番は、戦争というものの解像度を上げるため。
人間の想像力なんて大したことない。
戦争を経験したことがない者が、なんの材料もなく戦争というものがどういうものなのか知ることは不可能に近い。
目の前で人が殺されるとか、上から爆弾が落ちてくるとか、逆に自分が人を殺すとか、そういうのは平時の僕らの経験からは想像できない。
頭ではわかっていても、実際にどういうことなのか、リアルな姿として理解することは無理である。
理性的な思考では想像だにできなかった、全く知らない事実が広がっていることは大いにありうる。
正確に、解像度を持って戦争を知った上で、戦争関連についての社会的・政治的な意見を持ちたい、というのがモチベーションの1つ。
無知なまま現在・未来の戦争についてあれこれ言ったり言わなかったりする無責任な世論の1人にはなりたくない。

戦争への解像度の高さは、戦争への抑止力になると思っている。
戦争中徐々に反戦機運が高まることや、戦争が終わった後戦争への忌避感がしばらく続くことがそれを物語っている。
戦争前は解像度が低かったのが、当事者として巻き込まれる人がどんどん増え、だんだんと戦争がどんなものかわかる。
最初は遠くで戦っている少数の兵隊さんだけの話だったのが、生活にじわじわ浸透してくる。
家族が兵隊に取られ、死んだり怪我したりして帰ってくる。
どんどん兵隊に取られる人が増え、兵隊として悲惨な何かを実際に経験する。
戦争に行っていない一般市民も爆撃やら攻撃やらに巻き込まれてえらい目にあう。
一人一人が実際に経験をして、解像度がマックスになったところで、戦争なんか懲り懲り、とおしまいがやってくる。
こうして、しばらくは安易に戦争をしなくなる。

日本は戦後、その「戦争は懲り懲り」を社会で共有する時代が長らく続いた。
なんせ、すごい数の人が戦争に行き、爆弾を落とされ、戦争を身近に経験した。
自分や家族、親戚、友人を含めると、戦争と無縁でいられた人は皆無だったはず。
あまりに経験者が多く、社会の戦争への解像度が高い状態が長期にわたって続くことになったのだと思う。
戦争世代の描いたものを読むと、戦争を憎む気持ちと再び戦争を起こさないという強い決意のようなものを感じることがある。
戦争経験者が多い時代、彼らが政治的な意見を持つことで戦争から遠ざかることができていた側面はあると思っている。
言い換えると、戦争世代が戦争を避ける役割を果たしていた、ということ。

時は流れ。
戦争を経験した人たちがどんどん年老いて鬼籍に入る。
僕らの世代だと、まだ祖父母などの身近な人から伝聞で戦争経験を聞くことができたが、若い世代だとそれすらも経験していない人たちが多数派になるのではないだろうか。
もはや、戦争経験者がその経験を持って政治的な意見を表明してくれる時代は終わった。
彼らが、経験をもとに若い世代を守ってくれる、そういう政治的意見を言う、ということはもうない。
各自が、残されたマテリアルにアクセスして戦争への解像度をあげるしかない。
無知ゆえに、後から後悔するような大人にはなりたくない。

もう一つ、経験談から学んだほうがいい理由がある。
経験談の語りを聴くとわかるのだが、語ってくれている人、かなりのエネルギーを持って後世に伝えようとしてくれている。
人は辛すぎる記憶は抑圧する。
そもそも、語りたくないし、語れないということも多い。
戦争経験を語れるようになるまで、何十年もかかることもあるし、語れないまま亡くなった人もいる。
ものすごく苦しみながら、それでも後進のためを思って語ってくれているものも少なくない。
そうやって残された戦争の記憶にまったく学ばず、無知なまま社会の一員として世論を形成して、戦争で若い世代を苦しめたら、まあきっとあっちの世界で戦争世代に厳しく怒られる。
そうならんように、主権者の1人として知っておく責任があると思うわけです。

以上は、僕が戦争系の話を意識して避けない理由。
人間には戦争を起こしやすい性質が備わっており、科学技術が進んだ近現代では戦争が回復不能なくらいの壊滅的な被害をもたらす、というのが今のところの結論。
で、解像度の高い戦争のイメージは、戦争への歯止めになる、というのもまた今考えていること。

まああくまで、僕の話です。
では、また。





秋のキャンパス。
あぁ、ネコになりたい。


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2025/09/24 21:24
休暇中。
横浜市内のサイゼにて。



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Update 2025/09/24
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素朴な理解、論理的な理解、学術的な理解 No.2 論理的・学術的理解

前回は素朴な理解・知識を中心に書いた。
今回は素朴な理解・知識を超えた、論理的な理解・知識、学術的な理解・知識について。

素朴な理解とは簡単にいうと、経験から得た直感的な理解のことを言う。
それゆえに、素朴な理解は間違いやすい、というのは前回書いた通り。
それを超えた理解・知識として論理的な理解・知識と学術的な理解・知識がある。

まずは、論理的な理解・知識について。
素朴な理解・知識が間違いやすい、そこでそれらを論理で補おうというのがこいつ。
補い方にはレベルがあって、経験を論理で補正するものから、学術的な研究といった高いレベルのものまでいろいろある。
やさしいレベルから高レベルなものまでを順に追っていこう。
なお、具体的な実践方法については文字数の関係で今回は書かない。

簡単なものだと、経験を直感的に使うのではなく、論理的に考えた上で理解していくのがこれに当たるか。
自分の経験から直感的に理解するのではなく、立ち止まって筋道を立てて理解する。
これだけでも、直感的な理解とは異なり間違いが減る。

さらに。
自分や人間の思考のクセを把握して、意識的に補正をするということもできる。
こういう時はポジティブな情報に引きずられて間違った結論を出しがち、とか、こういう精神状態の時はネガティブな記憶ばっか浮かんでくるとか。
そういう、個人としての思考の特徴のようなものは存在する。
こういったクセは間違った理解へとつながりやすい。
個人的特性だけではなく、人間として平均的にこういう時には間違いやすい、というようなこともある。
これらを意識した上で、自分の思考の特徴を補正して正しい理解に進むように工夫をする。
こういうのを心理学ではメタ認知というのだが、論理的な理解としては立ち止まって思考するだけよりは正しい理解に近づく。

個人の経験には限界がある。
これが素朴な理解の大きな問題点だった。
そこを埋めるのが次のレベル。
いろいろな人に聞いてみる、本やメディアから情報を得る、などから他者の経験などの情報を得ていく。
これをもとに、自分の経験を超えた情報をもとに理解をしていく。
聞いたことの情報の偏り、本やメディアの性質なんかを意識して思考すると、よりレベルの高い論理的な理解が可能になる。
自分の外から情報を得る方法を工夫すると、情報自体の正しさはこれまでよりも一層増すはず。

そして。
論理的な理解の極み、とも言えるのが、研究的な理解。
ある学問分野で共有されている、情報収集・論理の方法などを駆使して、この中で最も正しそうな理解へと至る。
その分野の研究の積み重ねとしての共有知識である、間違いやすいポイントを考慮しつつ、確率的に間違いが起きづらい方法を使うので、論理的な理解としては最高峰に位置する。
僕が、大学教育において卒業研究を重視するのも、研究を通じて論理的に考えるジェネラルな力を身につけてほしい、というのが大きい。
これは学術的な理解の超初級レベルと捉えることもできる。

え、じゃあ論理的な理解と学術的な理解は何が違うのか、と思われた方もいるかもしれない。
例えば、文句のつけようがない論理的な理解によって得られた研究の知見があるとしよう。
これが完全に正しいのか、といえば、そうはならない。
というのは、1つの論理的な理解には限界があって、どこかに間違いがあって結論が間違う、ということがありうるから。
そこで、学問分野では得られた1つの研究的な知見について、別の人が自分の研究として再現できるかを試すことがある。
再現できるかを目的とせずとも、発展的な研究の中で再現できるかが報告されたり、関連のある別の研究によって整合性が問われたり、というのはよくある。
こうやって、複数の人が同じ対象を何度も何度も論理的に理解していく中で、あぁこうやって考えるのは正しそうだよね、というのが学問分野・専門家集団の中に共有されていく。
これが、この記事でいう学術的な理解ということ。
1つの研究、1人の意見ではなく、専門家集団の高度な論理的理解であるというのがポイント。
なお、集団の理解の中には素朴な理解の集まりの場合も多くある。
よって、集団で共有されている理解が即正しいとならないということには注意したい。

こう考えると、学術的な理解がどれだけ正しさに迫れているか、というのがわかることと思う。
だからこそ、学術的な理解の内容の一部が高校まで教科書になり、多くの人が学ぶ内容になる。
こんなカタイと思われる学術的な理解であっても完全に正しいというわけではなく、ある日間違いがあることがわかったりするから、おもしろい。

さて、つらつら書いてきた3つの理解の話はおしまい。
気が向いたら、この続きとして、応用編を書くかもしれない。
長くなったので、今回はここまで。
ではまた。




たぶん尾道のかカフェ。


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2025/08/30 17:11
出張中。
川崎市内にて。



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Update 2025/08/30
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エッセイを書きたい

エッセイが書きたい。
とびきり役に立たなくて、おもしろくもないやつがいい。
どうも最近の書き物は、何かの解説みたいなのが多くて、説教くさい。
こういうのが書きたいのじゃなくて、もっとこう、極めて無意味なやつがいい。
そんなことを、敬愛する三浦しをん先生のエッセイを読みながら思った。
ただ、三浦先生のエッセイはおもしろいので、目指す方向からはややズレている。

そこへいくと、司馬遼太郎のエッセイはすごい。
ただただ、思っていることを淡々と文字にしているだけで、話の構成もないし、短いものは本当に短く、統一感なんかあったもんじゃあない。
役に立つかと言われれば、そんなことは感じないし、クスッと笑うようなおもしろさもない。
ここまで書くとdisっているように見えるかもしれないが、全くそんなことはなく。
そうであるのに、なんか知らないけど読んでしまうのだ。
で、読後感がまたいい。
不思議な文章なのである。
うそではない。
その証拠に、15冊あるうちの半分はすでに読んだ。
全部読み終わると寂しい気分になるので、のんびりちびちび、読み続けたい作品。

話がそれた。
で、まあつまり、なんらかのエッセイが書きたい、と思ったわけです。
が、しかし、これが結構難しい。
辞書によると、見聞きしたこと、感じたことを自由に書けばいいらしいが、そんなこと言われてもねぇ。
気分は作文を強要された小学生。

だいたい、見聞きしたこと、感じたことというのが難しい。
そんなに見聞きしねぇし、それゆえに感じることも少ない。
ん?待てよ?見聞きしないってどういうことだ?と思って考えてみたのだけど、わかった。
仕事だ。
そうだ、仕事だ。
朝から晩まで、飯と睡眠とボーッとしてる時以外はほとんど仕事をしている。
仕事で見聞きしたことで感じないわけではないが、感じたままに文にしてはコンプラ上問題がある。
ありていに言えば、懲戒になる。
ダメです。
じゃあ、仕事前後の飯はと言えば、ほぼ同じものを食べているので、コレもなかなかエッセイ化は難しい。
ちくわ弁当(自作)は華がない。
朝食のすき家の牛丼ミニつゆナシは、食べすぎて食べると誰が作ったかわかる能力を手に入れたくらいしかネタになるものがない。
あとはオレのパスタ。
コレはおいしいという自慢になってしまう。
とびきりおもしろくないものを書きたいのだけど、つまらないものを書きたいわけではなく。
くそー、全部仕事が悪い。

担当編集者がいないのもよくない気がしてきたぞ。
〆切があって、適切なお題があって、「センセイ、進捗はいかがでしょうか」があればまた違うのではないだろうか。
なんか、それならオレも何か書けるような気がしてくる。
敏腕の担当編集者、カモン。

と、まあ。
書けない言い訳と、文句をひと通り書いたところで、気づいてしまった。
書き上がった。
書き上がってしまった。
なんか、思い描いていたのとは全然違うけど。

そんなわけで、たまにはエッセイでも書いてみよう、と思い直した次第。
見聞きしたものを、感じたままに、自由に。
そのくらいの余裕は必要だよなぁ、と反省もまたしたわけです。

文字数のみ、目標通りに書けた。
ではまた。


ついしん:
このお題で書け、みたいなのがあったら、マシュマロ(質問フォーム)で投げていただいて。
求む、バーチャル敏腕編集者。





鳥取市内にて。


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2025/09/23 18:50
休暇中。
新宿のよい感じのカフェにて。



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