週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

国会議員の報酬は多すぎない

国会議員の歳費(給与・報酬)を減らすべきだ。
身を切る改革として、国民感情に配慮して、などなど、さまざま理由からこの主張がなされる。
ただ、僕はこの主張には反対。
民主主義という仕組みを維持するために、今の水準の歳費は必要という立場。
今回は、このことについて書いていこうと思っている。

歳費の現状

歳費についてはまず、憲法に規定がある。

第四十九条 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。(日本国憲法

そりゃあ、我々の代議員なので、それなりの人に就いてほしい。
歳費が「相当額」というのは、まあ妥当だと思う。

じゃあ、この「相当額」がどんなものなのか。
これは国会法に規定がある。

第三十五条 議員は、一般職の国家公務員の最高の給与額(地域手当等の手当を除く。)より少なくない歳費を受ける。)(国会法

基準としては国家公務員の給与が使われる。
「相当額」としては妥当な基準じゃないだろうか。
国会議員が公務員をコントロールしていく、というその立場・職責から考えても、国家公務員よりも有能な人材になってほしい。
給与も当然、それに見合った額ということに。
なお、国家公務員の最高額は、指定職8号俸(事務次官他)の俸給月額1,175,000円(令和4年11月18日、一般職の職員の給与に関する法律)。
この俸給表は、毎年、民間の給与水準について調査の上、官民の差が生じないように改定される。
基本的には国民の給与と連動して決まっていると考えてよい。

実際の歳費額は,国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律で規定。

第一条 各議院の議長は二百十七万円を、副議長は百五十八万四千円を、議員は百二十九万四千円を、それぞれ歳費月額として受ける(令和4年4月22日、国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律)。

これを見ると、国家公務員の最高額と国会議員の給与の差は俸給月額で12万円ちょい。
そこまで大きくないことが分かる。

これ以外に手当(国会法第三十八条 議員は、国政に関する調査研究、広報、国民との交流、滞在等の議員活動を行うため、別に定めるところにより手当を受ける。)が支給されるが、これらは経費的な性質のもので給料とは異なるのでここでは論じない。
国会議員の給料が高すぎる、と主張している人たちの中には、歳費として明示している額にこの手当を混ぜていることがあるので注意が必要。
その場合はかなり高額をもらっているように見えるが、あくまで経費なので歳費として考えるべきではない。


つらつらと歳費の現状を見てきた。
この歳費を高いとみるか安いとみるかはばらつくだろうが,妥当な額だというのが僕の感想。
国会議員は任期が定まっていること、衆議院議員の場合は解散などで急に失職することがあること、選挙で勝てないと無職になること、などを考えると、この額はそこまで高額とは思えない。

報酬が高くなければいけない理由

民主主義の仕組みを考えた場合、議員報酬は国内労働者の中で比較したとき高くなければならない。
なぜか。
答えは簡単で、議員になるハードルがかなり上がってしまうから。
これは議員になれる人が限定されることを意味する。
どういうことか。

例えば、議員報酬が自分の収入よりも低かったらなろうと思うだろうか。
いくら国ため、公のためと、崇高な志はあっても躊躇するのではないだろうか。
議員報酬の方が多少高かったとしても、現在の雇用が無期で安定している場合はトータルでは損をすることになりかねない。
独り身ならまだしも、家族がいる場合は家族が難色を示すだろう。
少なくとも生活水準が下がるなどの形で、家族が迷惑を受ける。
議員になる、という極めて大事な民主主義上の権利行使が経済的な問題から難しくなるというわけ。
報酬が低いと参政権の一部が制限される、ということ。

では、議員報酬が低い場合、何が予想されるだろうか。
この場合、議員報酬よりも低い収入で働いている人、収入の低さを別の収入で補える人、といった人たちが議員の有力候補ということになる。
有為な人材を広く世の中に求める、ということは難しくなる。
例えば、事務次官など、国家公務員の幹部級が国を憂えて議員に転身すると、大損をすることになってしまう。
極端な話、議員報酬をゼロにすれば、お金持ちしか議員にならなくなる。
そうなった場合の国の政策は、お金持ちに有利なものになるのは想像に難くない。

もし、報酬が低かったら他に何が起きるか。
おそらく不正や利益誘導が増える。
役得的に得をしようとするものが現れるだろう。
そうでなかったとしても、議員の職務の手を抜いて、副業(場合によっては本業)に精を出す者が増える。
選挙にお金がかかる、というのが本当であれば、議員報酬が低い以上それで補う以外に方法がなくなる。
そして、それをやったもの(もしくは、元々お金持ち)が、選挙で強くなる。
構造的にそうなるので、これは仕方ない。

ちゃんと仕事しない議員が出ても、咎めづらくなる。
あんな安い報酬で働いてくれてるんだから、仕方ないよね、となる。
報酬が少なくなり、ボランティア性が高まれば高まるほど、選ぶ側・選ばれる側双方にそういう意識が現れる。
そして、このような政治がいいものとは思えない。


このように、高い報酬には、(1)経済的な理由で議員になれない人を減らす、(2)高い報酬に見合う働きを期待する、(3)報酬は十分あげているのだから不正なことはしてくれるな、という意味合いがあると思っている。
これが僕が議員報酬は減らすべきでない、と考える理由。

なお、一部地方議会の議員については、すでにこの問題が顕在化している。

よくある議員報酬高すぎる論への反論

論1:諸外国との比較

諸外国と比べて、日本の国会議員の報酬は高すぎる。
わりとよく見る主張。
これは2つの点から、間違っていると思う。

まず、元のデータの正しさの問題。
日本のデータは歳費以外の手当・経費を含んでいることが多い。
「報酬が高すぎるから下げろ」との主張の場合、高さを強調するあまり、このように高く見える計算をしがち。
そうであっても、諸外国の報酬額が同じ計算方法ならいいのだが、それが同様であるかどうかがわからない。
そもそも制度自体が違うので、経費的な「手当」は別の仕組みで実現されている可能性があり、それがどのように精査されているのかわからない。
このあたりは、その国の制度を一つ一つ精査した上で数字を算出しなくては意味がなく、政治学者などの専門家しかできないはずなのだが、出典がそうなっていないものが多い。
比較自体、ナンセンスなものが多い印象を受けている。

続いて、2つ目。
仮に、データが正しいとして。
諸外国に比べて高いこと、低いことに、一体どんな意味があるのだろうか。
議員候補者は、日本国内の日本人である。
国内の物価、平均的な年収、将来の生活設計、文化や労働関係の制度・慣習。
これらによって、その国の人が求める報酬のレベルは変わる。
転職が当たり前の国と、無期雇用の獲得が難しい国では、同じ報酬額でもその価値は異なる。
福祉が高度に発達している国では、将来に備えるための報酬はあまり必要ない。
このように、報酬の価値は国によって大きく異なるので、国際比較自体が無意味だと思っている。

元々、日本国内に住む日本人の中から、有為な人材に国会議員になってもらうという話。
そう考えると、国会議員の報酬は同じく日本国内で得られる他業種の報酬額との比較で決まるべき性質のもの。
歳費の現状の項目でも書いた通り、元々そういう仕組みになっている。


論2:財政的な理由

我が国の財政が厳しいので支出を抑えるために必要、というのも聞く。
ただ、効果のわりに弊害が大きいというのが僕の考え。
衆議院の定員は465人、参議院の定員が248人(公職選挙法第4条)。
ざっと、700人。
一人当たりバッサリ1000万円(約半分)くらいカットしたところで70億円にしかならず、たいした節約にはならない。
日本の一般会計予算が100兆円くらいなので、焼石に水というか。
節約できる額に対して、ここまでに書いた弊害の方がはるかに大きい。

気持ちよくお金出して、しっかり働いてもらう方がいい。

国会議員の人数を減らす論も、同様の理由であまり意味がないと思っている。
議員が減るということは多様性が減るし、議論による政策・予算の調整が減るので、民主主義的にはマイナス。
これは、気が向いたら別のところで書く。


論3:報酬に見合う働きをしていない

これはね、お気持ちはよーくわかる。
寝ている議員さん、へんなこと言う議員さん、自分の欲得に走る議員さん。
あれで、この報酬額かよ、と思うことはある。

ただ。
だから下げたらいい、は反対。
まず、ダメな議員さんに合わせて下げたら、報酬額はその議員さんのダメな行動に合わせられることになる。
議員としての働きの水準をそれで認めることになってしまう。
あくまで、求める仕事の水準があって、それに合わせて報酬額が決められるべきもの。
求める仕事の水準は理想的な方がよく、安易に下げるべきではない。
ダメな議員に文句を言うことができるのは、期待する仕事に対して相当の報酬を払っているからだと思う。

反対の理由はもうひとつ。
報酬を下げよう、で注目されるダメ議員の後ろには、真面目に一生懸命、しっかりと仕事をこなす議員さんもいる。
そして、しっかりと仕事をこなす議員の姿というのは、あまり目を引かれない。
議員報酬を下げるということは、ダメ議員に釣られて、こういう議員さんの報酬を下げることでもある。
報酬下げの議論をするときは、ダメ議員を思い浮かべるだけではくて、評価している議員さんを思い浮かべるのも大事だと思っている。
そうすると、安易に下げよう、という発想にはなりにくい。
ダメ議員は、期待される水準の仕事をしていないという評価なわけだから、選挙で落とすというのが筋。


まとめ

報酬下げ論。
その多くは感情的なものだと思っている。
感情からスタートして、もっともらしい理屈を選んでくる。
ただ、こういう場合、論理的に物事の良し悪しを判断しにくくなっているもの。
一度立ち止まって、自分の感情を認識した上で、論理的に考える。
これは、あらゆる社会的な問題を考える上で有効。
まあ、なかなか難しいのだけど。


すごい長くなってしまった。
今回はこの辺で。
ではまた。




横浜だよ。
帆船だよ。


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2023/01/15 15:58
コーヒと休暇。
鳥駅スタバにて。


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Update 2023/01/15
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研究(卒論・修論)で身につく能力(研究をしよう32)

卒論や修論で身につく能力は、必ずしも研究能力や専門性だけではない。
今回は、研究者になる気などさらさらない、一般的な大学生を対象にどんな能力が身につくかを書く。
どの過程で、どんな能力が身につき、これが社会に出てからどんな風に役に立つのか。
この辺りがイメージできるようになっていただけば幸い。
なお、ここで書くことは、指導教員の指導スタイルや方針、卒論・修論生の時間の使い方によっては身につかないものもある。
その辺りは意識しておきたい。
特に卒論については、大学教員によってその教育上の意義の考え方が大きく異なる。
SNSなんかを見ていると、意義がない・教育上の効果は小さい、と考えている教員もいるようで、そういう教員のもとでは、何を学ぶのかについて学生の側が強く意識して研究を進めないと、あまり身にならない、ということが起こるので注意が必要。
なお、僕の考え方は、教員がしっかり力を入れれば、卒論・修論の教育効果はかなり高い、というもの。
その上で、指導教官選びをしたり、研究を進めたりすることも重要である。
指導教官選びについては、こちらのシリーズも参考にしていただければ。

さて。
それでは本題。

専門的知識

まあこれは必然ではある。
ただ、真面目にやらないと、これすら身につかない、なんてことになるので注意が必要。
特に、教員からテーマを与えられている場合、手を動かせば(与えられた実験・調査をすれば)研究が完成してしまう場合がある。
自分で考えた調査・実験の場合でも、先行研究の調査が十分でない場合は同様。
このままだと研究に関連した専門的知識すら欠けたまま卒業ということになりかねない。
自分の研究の意義がわかるように、関連論文や関連分野のテキストを読むなど、意識して知識を入れたい。

研究を進める上で必須なのは関連する論文たち。
その分野の研究の流れをつかみ、目的を導き出す。
テーマが与えられている場合は、その研究の意義を理解する。
分野で使われている方法論を理解するとともに、それらを選択できるようになる。
これらを通じて、狭く深い専門知識が身につく。
その分野ではどのように知識が作られているのか、それがわかるようになるのも狭く深い専門知識の一つか。

問題もある。
これらだけ読めば、研究上必要な知識の獲得は完結してしまうことがある。
しかし、これらの知識は狭く深い専門知識である。
一方で、教科書レベルの専門知識はこれよりもかなり広い。
専門の教科書はその分野を網羅的に学ぶため、浅いが広く作られている。
専門分野の知識を網羅的に学ぶ、というのは研究を進めるだけでは不十分ということは意識しておきたい。
本来、それらは卒論前に授業や読書で入れておく知識で、足りないなと思った時に必要に応じて自分で学ぶもの。
ただ、網羅的な広く浅くの専門分野に対する知識は、研究を展開する上でも役に立つし、分野の知識を社会に出てから使う場合にも役に立つ。

論文を読む上で必要な、統計の知識なんかも広くは専門的な知識に入れてもいいか。
これも、汎用性が高く、社会に出て役にたつ素養なので身につけておきたい。

詳しくは以下の関連記事も参考にしていただいて。
専門知識と研究リテラシー(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 10 )
統計(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 6 )

読む力

これは、論文やテキストを読み込む過程で身につく。
そういう意味では、専門的知識と一体か。
ただ、この力は専門的知識とは違い、汎用性がかなり高い。
僕の研究室では、どの卒論生も論文は数十本以上、100本を超える人も普通にいるので、読む力は身につく。

読んだ文字数は、そのまま読む力を鍛えることになると思って間違いない。
ただ、社会に出てから役に立つ「読む力」は、論文を読むだけではたぶん足りない。
テキストを読む、研究と無関係の本を読むなどと併用していただいて。
詳しくは、 読む力(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 3 ) を参照のこと。

批判的思考・論理的思考の能力

論文を読む、とは、ただ漠然と読む、ということを意味しない。
書かれた内容は正しいのか、論理構成はどうか、などなど、内容を批判的に読み込むことになる。
自分で論を構成する時も同様。
自分で一旦組み立てたロジックを批判的・論理的に考えながら、いいものを練り上げていく。
この過程で、批判的思考・論理的思考能力が身につく。

これらの能力は、汎用性が極めて高く、社会に出てからも役に立つ。
論理的に物事を見て、鋭く批判ができる。
どの業界にいても武器になるし、正しい顔をしてやってくる怪しげな情報にも騙されなくなる。

そんなわけだから、これらの能力をどう鍛えるか、というのは教員になって以降常に考えている。
今のところ、卒論指導の中でというのが一番よさそうだと実感している。
授業ではなかなかうまくいかない。

なお、これらの能力。
卒業時点で、かなり差がつく。
ここを鍛えたいのであれば、それが可能な研究室を選ぶというのは、かなり真剣に考えた方がいい。

関連記事: ロジカルな思考力(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 5 )

質問力

これは、論理的思考力や批判的思考力の応用版。
日々のゼミや、学内の発表会、学会発表なので身につく。
この力は、質問をしなければ身につかない。
どんなにしょうもなくても、ドキドキしても、日々質問をするように心がけたい。

関連記事: 質問力(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 9 )

問題発見・問題解決能力

研究という営みは、先行研究の中に問題点を見つけ、それに対して適切な方法論を用いてアプローチし、解決するというもの。
たくさんの資料を読み込み、根拠となる事実をもとに、問題点を見つける。
論理的・批判的に考えながら、マッチした方法論を提案し、実行する。
実行して出てきた結果をまとめ、論理的に主張を展開する。

これらもまた、汎用性が高い。
仕事でも、なんでも、この能力があると強い。
答えのない自由度の高い事柄に対しては、この能力が極めて効果的に働く。

学部レベルだと、テーマは教員が設定する場合もある。
分野の特性上、学生がテーマを設定するのが難しい、教員の指導スタイル、などによってそうなる。
この場合は、問題発見や問題解決については経験できない。
ただ、全く身につけられないという意味ではなく、与えられたテーマから、研究の意義や方法論の重要性を考えることで、身につけることは可能。
もちろん、この能力を身につけたいから、テーマ設定が自由な研究室を選ぶ、というのはアリだと思う。
ただね。
テーマ設定をイチからって、結構難易度が高いので、そこは理解しておきたい。

まとめる能力

研究では、情報をまとめる、という機会が随所にある。
例えば、自分の研究の目的を導き出す場合。
たくさんある関連論文の知識を関連づけて、まとめた上で目的を導き出す。
実験や調査をした後、たくさんあるデータの中から必要なものを選び出し、まとめた上で結論を導き出すのにも使う。
研究を進める前、ゼミなんかで論文紹介する、なんて時にももちろん使う。
膨大な情報から目的のために必要な情報を選び出し、整理して1つのものを作りあげる。
いわゆる、まとめる力を使う機会は本当に多い。
この力を磨くことを意識して日々のゼミや研究活動に勤しむと少しずつこの能力が身につく。
この力もまた、社会に出てからの汎用性が高く、武器になる。

なお、研究発表にはA4で2枚にまとめよ、とか、10分で発表せい、とかそういう制限が科されるが、これもまとめる力を鍛えるのに役にたつ。
制約内に収まるように、精査し、コンパクトだがもれはなく情報を入れ込む。
頭を使いながらこれをやると、力がついていく。
時々、行間や余白を詰めるとか、早口で喋るとか、そういうことで制約を満たそうとする人がいるが、これではまとめる力は身につかない。

書く力

研究の最終盤では論文を書く。
おそらく、多くの人にとって、研究論文のように長い文章を書くのは初めての経験だと思う。
なぜその研究をやったのか(イントロ)、やり方(方法)、研究の結果出てきた材料(結果)、結果をどう解釈するのか(考察)、と、すべての情報は自分の内側にあり、それを読み手に伝えるために書いていく。
「書く」というのの難しさを知ると同時に、その過程を通じて書く力がつく。

しかも、論文は添削の機会がたくさんある(ただ、これは教員による)。
おそらく、書くことのプロに仕事として添削をしてもらえる最後の機会。
この過程でもまた書く力が磨かれる。
僕のところの卒論生の場合、最初は添削原稿が真っ赤になるのだが、だんだん力がついていいものが書けるようになる。

文章で主張を伝える、というのが社会で役に立たないわけがない、というのは読み手のみなさんもわかるはず。
関連記事: 書く力(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 8 )

発表能力

社会に出て自分の意見を他者に伝える能力のうち、「書く力」と並んで役に立つのがこれ。
研究の過程では研究発表会、中間発表会、場合によっては学会など、大きな発表イベントがある。
これを機会にこの能力を伸ばす。
この能力は、漠然と作業的に発表を行なってもあまり磨かれない。
「わかりやすく」「伝わる」を意識して、考えに考えて、資料を作成し、発表の練習をすることで磨かれる。
特に大きな発表会・学会前だと、教員によっては練習に付き合ってくれるし、相談すればコメントをくれることもある。
これがまた役に立つ。

なお、発表能力を磨く機会は大きな発表会だけではない。
日々のゼミで教員やゼミのメンバーに発表する、というのも生かしたい。
同級生で、ちょっとテーマの外れたゼミのメンバーがちゃんとわかるように発表する、そういう発表を心がける。
こういう小さな積み重ねは大きい。

関連記事: ゼミで学ぶこと(研究をしよう20)

その他

他にもいろいろと身につく能力がある。
特に、様々なことを学ばねばならないので、 学び方を学んだりわかるまでねばる力なんてのも身につくか。
うちの研究室だと、研究の過程でPCを多用するので、PCスキルなんかも身につく。
こういう分野依存的に身につく、副産物的な能力もあったりする。
先輩や教員に聞いてみると、そのあたり教えてくれるかもしれない。

最後に

だいぶ、長くなった。
ここに書いたことが学べるか、は、学生本人の姿勢も結構大きい。
積極的にサボる姿勢だと、おそらく何も身につかない、というのも研究で身につく能力の特徴だと思う。

また、教員の指導スタイルや教育のスタンス、分野の特徴が大きく影響するのもまた特徴。
この点を重視する人は、ぜひ、事前に研究室訪問をして、教員から情報を聞き出した上で指導教員を選択したい。


ではまた。




備後落合駅という、超マニアックな駅、にて。

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2023/01/22 19:39
今日はこっち。
鳥駅ドトールにて。


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大学教員の評価は難しい

大学教員を評価することはできるのか。
政府は数値評価を重んじるし、研究業績主義の研究者なんかは、できると無邪気に信じている。
ただね、僕は大学教員の評価、かなり難しいと思っている。

まず。
よく聞く主張としては、研究業績こそが大学教員の評価、というもの。
一見正しく見えるのだが、これ、僕は間違っていると思っている。
なぜならば、大学教員の業務は研究だけではないから。
むしろ最近は、研究をする時間がないことが問題になっているくらい、研究以外の業務量が多い。
本来、人事評価とは、やらせている仕事・やらせようとしている仕事に対して行うもの。
業務時間における研究の比重が落ちている状況で、研究に偏重して評価するというのは違う。

では、大学教員、どんな業務があるのか。

まずは、教育業務。
「教員」というくらいだから、当然、業務の中心は教育であり、評価もそうあるべきだと思っている。
元々の大学というシステムの設計では、主に研究をやっている者が、その専門性を活かして学生を教育する、という建て付けだった。
この設計が理想通り動いているのあれば、研究のみの評価でいいのだろうが、実際にはそうはなっていない。
あまりに授業や教育の質が低いというのが問題になり、ここ数十年、これらの改善というのが大学の一つのテーマになってきた。
それでは、この教育を評価すればいい、ということになると思うのだが、これは大変難しい。
教育は何をもって「よい」とすればいいのか。
すでにここからよくわからない。
授業を受けた直後に学生が感じる「よい」を重視すればいいのであれば、授業アンケートを使えばいい。
が、実際には、卒業後によかった、と感じるかもしれない。
極端な場合だと、数十年後に「よい」と思うかもしれない。
学ぶ意欲が高い学生が思う「よい」と楽に単位を取りたい学生が思う「よい」も違う。
受けた直後はものすごく満足度が高いが知識としては何も身に付いてない授業と、誰に教わったかも覚えていないが卒業後も使っている確かな基礎力が身に付いている授業、どっちが「よい」授業なのだろうか。
後者を評価するにはどのような指標を用いればいいのだろうか。
本当に難しい。

技術的にも難しい。
授業や教育の良し悪しを評価できる指標を開発できたとしよう。
すると今度は別の問題が生ずる。
1つの授業を担当して「とてもよい」実践をしている教員と、3つの授業を担当して「よい」実践をしている教員、どちらの方が高く評価されるべきなのだろうか。
組織の都合で専門から外れた分野についてがんばって「まあまあ」の授業をしている人と、ど専門の分野について特にがんばることもなく「まあまあ」の授業をしている人、同じ評価になるのだろうか。
これもまた難しい。
大学教員は、受け持ち授業数や専門分野と授業の対応が人によって大きく異なる。
同じ大学・学部であっても、その辺りは多様になりがち。
どれをよりよい、と評価すればいいのだろうか。
僕にはよくわからない。

授業以外ではどうか。
授業外の指導に時間を割く、学生相談にのる、質問対応、などなど。
これもまた、たくさんある。
どうやって、評価の指標にのせればいいのだろうか。

そもそもに、人を育てることの評価が極めて難しい。
最初からそこそこできる人をそこそこできる人として送り出すのと、全然できない人を平均くらいにして送り出すのとでは、後者の方が教員としてすぐれている。
最初からやる気がある人が自力でできるようになって卒業するのと、全くやる気のない人が教育の中で少しやる気になって卒業するのとでは、やはり後者の教育の方がすぐれている。
しかし、これを教員の評価として数値化するのは不可能に近い。


大学教員の業務は研究と教育だけではない。
各種運営・雑用もある。
入試の取り仕切り、入試問題の作成、教育課程の編成、学内ハラスメントの相談、対外的な評価対策、国際交流関係、人事・労務管理などなど。
こんなものもあるのか、というくらい多様なものがたくさんある。
それぞれに質・良し悪しがあるのは当たり前のこと。
そして、個人ごとに、これらの負担の軽重もある。
この業務はこの人がいないと回らない、みたいな職人的な人もいて、でも業務と研究・教育が全く結びついていないこともある。
それらをどう評価したらいいのだろうか。


ここで書いたことは、どれも大学組織にとって重要な業務である。
みんなが一様に同じ負担、同じ質の業務を担っているのであれば、評価もしやすい。
しかし、実際は負担度合いも担当業務も多様。
もしすべてが完璧に評価できたとして、今度は質の異なるそれらをどう総合的に評価すればいいのだろうか。
とても難しい問題である。

さて。
評価には評価を受ける者の行動を回帰させる性質がある(詳しくは評価の性質を参照していただいて)。
例えば、研究業績のみを評価対象とすれば、それのみを重視する者が増え、それ以外の業務へのモチベーションは下がる。
少なくとも、研究以外の業務をきっちりとこなす教員は、評価されず損をする。
すると、長い目で見れば、評価にのらない行動は組織内から消えるか、質が低下することになる。
大変良くないと思うわけです。

そうでなくても、全方位的で多様な評価は、コストがかかる。
お金もないし、めんどうだし、お互いの業務を尊重して、評価なんかほどほどにすればいいと思っている。
誰かが運営・雑用を担ってくれるから、研究したい人は研究に割ける時間が増える。
教育に力入れたい人が一定数いると、学生のためになり、大学のためにもなる。
評価なんて余計なことをせずに、そうやってお互いの仕事の多様さを認めて尊重しつつ、各々が大事だと思うことや与えられたことをしっかりやる。
誰も損をしないと思うのだけど、この意見、なかなか理解してもらえない。

今回は、研究業績は評価可能な感じで書いた。
が、研究業績ですら評価の難しさをはらんでいる。
いつか気が向いたら、これについても書こうと思っているが、長くなったので今回はここまで。

ではまた。




川崎のどこか、かな。

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2023/01/08 20:17
休暇中。
鳥取ドトールにて。


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本の紹介,「花は咲けども 噺(はな)せども 神様がくれた高座(立川談慶‪,PHP文芸文庫)」

花は咲けども 噺(はな)せども 神様がくれた高座
立川談慶‪(著)
難易度:☆


ここ数年、テレビを見る時間よりラジオを聴く時間の方が多い。
ラジオではテレビとは全く異なるコンテンツがあり、その一つが、物語の朗読。
その朗読で聞いて、これは読みたいとなって仕入れてきたのが、この本。
著者ご本人による朗読だったのだが、これがとてもよかった。

さて、この物語。
タイトルから推測できる通り、落語のお話。
さえない中堅落語家である山水亭錦之助が主人公のお仕事系長編小説。
錦之助は見習い、前座を経て二つ目に昇進した落語家。
二つ目を経て真打へと昇進すると、師匠と呼ばれる落語家となる。
彼はまだ二つ目。
しかも、通常3年くらいで終える前座を7年も経験した、苦労人。
受ける仕事もパッとしない、男盛りの34歳。
そんな彼の、劣等感ともやもやに満ちた日常を描いた奮闘記がこれ。

設定だけ読むと、おもしろいの?となるが、これがとてもおもしろい。
錦之助の落語家としての評価も、受ける仕事も、接する人たちの対応も、あまりよろしくない。
そんな中で、少し拗ねつつも、落語家としての仕事をこなしていく。
すると、たまに、落語を通じてほっこりする物語が生まれる。
そんな物語たちを綴った、連作短編的な長編。
個人的には、同窓会でバカにされるお話と、中学校で落語を披露するお話が、とてもよかった。
他のお話も結構くる。

さて。
仕事をしていると、いろいろある。
したい仕事が思うようにやってこない。
思うように能力が身につかない。
いろいろあると思うが、その多くに共通するのが、評価や他者との比較の問題だと思う。
評価が高くない、出世が遅れる、稼げない、業界内外の知り合いと自身の状況を比較して卑下してしまう、などなど。
人間だもの、仕方ない。
ただし、仕事人としてのプライドの問題とは別に、仕事はそれを通じて誰かに影響を与える。
お客さん、取引相手、公務員だと国民・市民、先生だと子どもたち。
仕事人としての評価・プライドは大したことなくとも、個々の仕事が相手に大きな影響を与えることはありうる。
仕事とは本来後者が大事なのだけど、前者にとらわれて悶々としてしまうもの。
そういう、仕事というものの本質を思い出させてくれる本でもある。
うまくいかずもやもやを抱える多くの大人におすすめな一冊。

なお、著者名を見てピンときた方も多いと思うが、著者自身が落語家。
立川談志の弟子で、自身も9年半の前座を経験したという。
読了後にプロフィールを見て、この物語が生まれた理由を知った気がした。

ではでは。
今回はこの辺で。




丸善本店か??

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2023/01/08 19:27
GWだけれども。
職場にて。



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2022年年末上京物語

早いもので2022年も終わってしまい、2023年の到来。
みなさまいかがお過ごしでしょうか。
僕はと言いますと、横浜別荘で一人引きこもり。
大変暇を持て余している。

ことの発端は、おととい(12/30)。
サプライズで実家に帰ろうと都内まで来た。
そこで、そういやコロナ療養期間明けなことを思い出す。
行政がいう隔離期間、感染させる可能性のある期間は数日過ぎている。
が、行政を信じられない、なんてこともあるかもしれない。
だいたい、実家には後期高齢者と持病持ちがいる。
まあ一応電話しておくか。

や:「あ、もしもし。これから帰ろうと思うんだけど。」
父:「おお、いいねぇ。」
や:「でも、コロナは気にならない?」
父:「あー、もう隔離期間過ぎたんでしょ?大丈夫だろ。」
や:「まあ、もうもうお一方が気にされるかもしれないので、よく話し合って決めていただいて。」

うちの親父は、オレに似てきわめて楽天的である。
まあ、この会話は当然といったら当然の流れ。
ちょうど、一人で散歩中に受けた電話で、独断で決定しかけた。
ただ。
相方は、大変な心配性なのある。
勝手に心配が増えることを決めてしまっては、家庭内不和が起きかねない。
電話のこちら側で、とっさにそんなことを考え、まあちゃんと話あって決めてねという子どもごころが働いた。

30分後、電話が鳴った。
電話に出ると、さっきとは声のトーンからして違う。
父:「結論から言うとですね、今回はちょっと見合わせていただいて。」
まあ、そうですよね。
そんなわけで、オレ、横浜で宙に浮く。

今回の上京には、もう一つ目的があった。
それは、iPhoneの修理。
先日、不注意で落としてしまい、背面のガラスがバキバキ。
前もって症状を登録し、予約を取っていた。
気を取り直して、もう一つの目的を全力で果たすことに気持ちを切り替え。

夕方くらいに表参道アップルストアに到着。
店:「やなか様ですね。背面修理と承ってます。では、iPhoneの診断・設定をしていきましょう。」
や:「ある程度終わらせておきました。」
店:「助かります!診断終わりましたが、特に他の箇所に問題は見られなかったので背面のユニットを交換する修理を提案させていただきます。」
や:「はい。バックアップもバッチリです!」
店:「で、ですね。背面のユニットの在庫がちょうど店の方になくてですね。」
や:「えっ。」
店:「年末年始なので、物流も止まっていて、1週間後くらいに入るのでまたその頃来てください。」
や:「えっ。」

そんなわけで、なんのために上京したが一切わからぬまま、2022年が暮れていきました、とさ。
そして今、バキバキに背面ガラスが砕けたiPhoneでこれを書いている。
厄的なのは年末で全て出尽くした気がするので、2023年は黙っていてもいいことしか起きないはず。
なので、とりわけ「2023年の目標」なるたいそうなものは立てず、他力本願的にいいことを待って生きていこうと考えている。

ではではみなさま。
本年もよろしくお願い申し上げます。




これは羽田行きの機内で撮ったやつ。
いつもよりアプローチが西で、横浜がよく見えた。

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2023/01/01 21:05
酒がうまいぜ。
横浜別荘にて。


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Update 2023/01/01
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新型コロナ療養記2022

どうも,こんにちは.
師が走り回るほど忙しい12月も残りわずかとなりました.
みなさまいかがお過ごしでしょうか.

さて,タイトルでお察しですが,はやり始めて3年弱.
ついにコロナになりました.
この,くそ忙しい,年の瀬.
たぶん,そのくそな忙しさが原因で免疫低下,しっかり拾ってしまったよう.

そこで,今回は,療養日記でも書いてみようと思う.
まあ,記録.
疑似体験をしていただいて,いろいろと備えていただければ幸い.


12月20日(火)

今日ももりもり仕事がんばるぞ!と,早朝に出勤.
大学について仕事を開始したところ,のどに違和感を感じる.
前日に,土曜に一緒に車乗った知り合いから陽性になった,と連絡を受けたばかり.
まさかまさか,と思いつつも,卒論生にうつすとえらいことなので,大事をとって早退.
大学滞在時間,わずか30分,7時前の退勤となった.

家に帰ってしばらくすると,のどの違和感は痛みへと変化.
こ,これは!と恐れおののいてかかりつけ医に電話.
や:「あ,もしもし,あの,のどがですね.熱はないのですが.」
医:「周りでコロナの方はいますか?」
や:「昨日陽性がわかった人と車で10分くらい一緒にいました.」
医:「ああ,それは相当怪しいですね.最近のコロナは感染力めちゃくちゃ強くて,密閉空間に一緒にいるとかなりもらいます.」
や:「!!」

そうこうしているうちに熱も出てきたので,市に電話(かかりつけ医は検査してなかった)すると,明日検査するといいと,医療機関を案内される.
ふむー,これはこまったぞ.
いやいや,ちょっと寝たら治るかもしれん.
と,いうことで,昼ご飯後眠りについて,起きたら夜.
体温計は39.0℃を示し,頭痛,のどの痛み,倦怠感がMAX.
終わった...これはたぶん間違いない.
サヨナラ,俺の〆切仕事.

しんどかったので,すぐ寝るも,夜中起きたら39.5℃.
この時点で,もうコロナ以外は疑っていない.


12月21日(水)

新しい朝が来た.
希望の朝だ.
なんてことはなく,絶望感とともに起床.
熱は38.5℃,昨日の症状に吐き気と咳,鼻水まで追加になり.

医者に電話すると車で診てやるのでこいという.
ふらふらしながら車を運転し,うわさのドライブスルー診療.
PCRをするまでもなく,簡易検査の抗原検査の時点で陽性が確定.
8日間は出ちゃだめね,行政に自分で登録してね,お大事に,とのこと.
なお,医療費は明細では2万円のところ2千円くらいしか払っていないので,2類相当の感染症扱いということなのか.
薬は結構な量いただいたがタダだった.
頭がまわっていないので,深くは考えなかった.

さて.
今,コロナ騒動で,最大の山場がこの次に待ち構えていた.
医者に渡された「行政に自分で登録してね」案件.
高熱ふらふら弱りかけじじいには,こいつが結構たいへんだった.
残り僅かのエネルギーを振り絞って入力するんだけど,エラー:○○が入力されていません,パスワードはこの組み合わせが必須です,などなど.
地味に,しんどい.
投げ出したくなるのをぐっとこらえ,スマホとにらめっこしてようやく完了.
続いて職場に電話して,コロナを伝えると,
職員:「あ,大学のホームページのここをクリックすると,××があって,そこの△△のフォームから報告をですね」
嗚呼,南無.寝たい,寝せてorz
で,これが終わったら寝れる,,,かと思いきや,そうはいかない.
各種〆切仕事依頼先,その他迷惑をかける先に連絡.
ごめんなさい,ごめんなさい,(寝たい),ほんとうにごめんなさい.

その後,体力を使い果たし爆睡.


12月22日(木)

医療用の薬というものはすごいもので,朝起きると熱は37.1℃まで下がっていた.
のどの痛み,頭痛,倦怠感は変わらず,今日も一日安静コース.

ここで問題が勃発.
食料がない.
市のコロナ患者の心得的なのを見ると,買い出しもするな,とある.
ふむー.

ただ,よく見ると,連絡くれれば食料は届ける,ともある.
早速市の相談窓口に電話をかけると,わかったという.
どんな形で何が届くんだろう,と思っていたら,宅配業者さんが,自らの感染対策を講じながら置き配してくれた.
中身は,パックご飯8食,乾麺うどん500g,レトルト,デザート系,おかゆ経口補水液などが数点.
うどん用にめんつゆも入っていた.
これだけあれば8日間は大丈夫,という量.
ありがとう,鳥取市

あとは症状がひどいのでひたすら模範的病人.
まあ,よく寝るよく寝る.
コロナのせいか,慢性的睡眠不足と疲労のせいかは知らぬ.


12月23日(金)

いよいよ,熱はやっつけた.
症状の中核は,倦怠感と鼻水に.
鼻水をかみすぎて,鼻の下が真っ赤になるほど.
おお,ちょうどクリスマス,トナカイじゃんと思ったが,よく考えるとトナカイは鼻の下じゃなくて鼻そのものだった.
残念.
ティッシュの在庫が切れる未来が見えてきた.


12月24日(土)

症状から倦怠感が消える.
することがないので,読書をするなどして過ごす.
寝る前に気づいたのだけど,たまっている仕事をしろよ,と,ね.
全く気付かず文学作品を読んでいた.
これもまた,コロナの症状か.


12月25日(日)

症状から,大量鼻水が消える.
ティッシュクライシスは避けられた.
やることないので,ついに仕事に手を付ける.

夜,お気に入りのバンドのクリスマスライブの配信チケットを買って,ライブ配信を初体験するなど.
もうだいぶ元気.
最初から見ていないと,コロナとはわからない.


12月26日(月)

症状変わらず.
のどの違和感のみ.
無症状の場合,明日までが隔離期間なのだけど,この微妙な症状を有する場合はどうしたらいいんだろう,と,たいへん悩むなどしている.
なお,今日もひますぎて,仕事しまくるなど.
時間があれば書けるもので,とても久々にブログ記事(この記事)を書くなどして,今に至る.


おしまい

というわけで,コロナ療養記もこれにておしまい.
わりと簡単にかかるらしいので,気になる方はぜひ気を付けていただいて.
なった方は,この記事でも読んで,何かの足しにしていただければ幸い.
なお,市のコロナ患者の心得的なのをよく読むと,8日間が隔離期間だけど,10日間はうつす危険あるから気をつけてね,とある.
これは,どうしたらいいのか,悩むところ.
まあ有休休暇も余っているし,卒論生に移すわけにもいかないので,はみ出た2日も準隔離といきますか.
なんてことを考えている.


ではでは.
みなさんもお気をつけられますよう.





コーヒー飲みに行けないつらさ

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2022/12/26 20:10
ひきこもり。
自宅にて。


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都内横浜休日日記

僕は都内・横浜らへんが好き。
疲れてくると、暇できると、すぐに鳥取を脱出してやってくる。
何が好きなんだろう、といろいろと考えてみたが、大した合理的な理由はない。
まあ強いて言えば、元々育った街である、本屋とカフェが豊富にある、知り合いに簡単に会わない、などがあるのだろう。
が、これらはこじつけにすぎない。
ただ、好きなのである。

と、まあ、そんなわけで、何が言いたいかといえば、また都内・横浜に来た。
金曜日に仕事で登場し、そのまま週末も滞在。
のんびり過ごした。

金曜日の仕事後は、大好きな丸善本店へ。
本は足りていたので、今回は空間を借りに。
ちょうど、丸善の三階、というラウンジがオープンしたとのこと。
ここに行ってきた。
フリードリンクとお菓子があって、ソファーやら机やらのスペースでのんびりできる。
丸善の本店は東京駅の近くにあって、夜の時間帯は窓からの景色がなかなか。
本を読んで、景色を見てぼーっとして、コーヒーを飲んでぼーっとして。
お気に入りの場所が一つ増えた。

土曜日は、うまいパスタを食べに行き、いくつかのカフェでのんびり読書。
1つ本を読み終わったらすぐに書店で次の本を物色できるのがこちらのいいところ。
お初の作家を読み切り、次のお初作家を仕入れ、それを静かな居酒屋のカウンタで酒を飲みながら読む。
大変良き。

日曜日もまた、カフェはしご読書三昧、時々散歩。
ノンフィクション1冊と小説1冊を読み切った。
どちらもいいあたり本で、かなりいい気分に。

そして、気づいたら日曜日が暮れゆく時刻。
今日帰るのは明日に変更にして、これからさらに本屋に行くか、カフェに行くか、いやいやラーメンもいいな、なんてことを逡巡しているところ。
あ、残り時間を使って、雑記帳の記事を書きためるのも悪くないな。

まあ、そんなこんなの、久々都内・横浜休日日記。
ええ、なんの役にも立たないシリーズです。
でも、役に立たないことが実はとても大事だったりするのですよ。

ではでは。
今回はこの辺で。




このあと、食べた、吉村家のラーメン中、かため、たまご。

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2022/12/04 18:05
ぼーっと生きている。
市ヶ尾ドトールにて。


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