週刊雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。月曜日定期更新(臨時休刊もあります)。

評価の性質

前に書いた「数値評価は難しい」の続編。
前回は評価のための数値指標を作ることの難しさについて書いた。
今回は数値評価というものの特性について。

仮に評価の数値指標について完璧なものが作れたとしよう。
これで各々をきちんと評価することができるのか。
僕はこれも難しいと思っている。
なぜか。

数値指標というものは、それが公開された時点で、テクニックによって高得点を稼ぐ者が出てくる。
これは数値評価では必ず起こることで、日々の学業試験から進学受験、資格試験まで同様の性質を持つ。
テクで得点を稼ぐ者が現れると、テク磨き競争が始まる。
すると、テク磨きをしていない、本来評価が高くあるべき者の評価が相対的に低くなる。
テクを磨くことに時間を取られるため、本来数値指標で測る対象が本質的に低くなる。
かくして、指標と能力の乖離が起こるようになる。
わかりやすいところでは、TOEICの高スコア者が入社後、期待されていたほどの英語力がない、みたいな例があるか。
よく聞く話。
こうなると、本来高く評価したい者が相対的に低くなり、テクに長けた者が相対的に高評価となり、本来の目的は果たせない。
数値指標の数値上はどうあってもこういうことが起こってしまう。
評価のためだけの本質的には無駄な行動(数値を上げるテク磨き)、というのはどうやっても避けることができない。
評価による競争の宿命みたいなもの。


評価指標の悪い面はまだある。
物事には数値評価しやすいものとしにくいものがある、ということは前回書いた。
それをわかりつつ、しやすい(できる)ものだけ数値指標を導入したとしよう。
すると何が起こるか。
重要だけど数値化できないもの、というのが評価されない、ということになりうる。
評価は、その内容に参加者の行動を回帰させる(引き寄せる)。
評価されない行動は少なくなり、評価される行動が多くなる。
評価されない行動を取り続ける者は、徐々に淘汰される。
かくして、評価指標による競争が起こっている世界では評価される行動のみが起こることになる。

結構なことじゃあないか、と思われる方もいるかもしれない。
しかし、世の中、数値指標を開発するのは難しいけど極めて重要なこともたくさんある。
これらのもの達は、評価しやすい軸の前に次々といなくなっていくことになる。
業界や組織などある世界で、個人の行動や能力の多様性が重要になる場合、それは失われていく。

もちろん、評価者が数値評価のこの特性をよくわかっている場合は、数値評価だけでなく、さまざまな側面について、場合によっては質的に見て総合的に評価するだろう。
ただし。
下手に数字があるため、特に数値評価の高い者の不満がたまることは避けられない。
誰しもが、自分のやっている仕事は価値がある、と思っているもので、それが数値として見えているのにも関わらず、自分よりも数値の低い者よりも総合評価が低い、ということになれば、こうなりがち。
構成員がみんな評価の性質を熟知していればいいのかもしれないが、そんなことは望めない。
しかも、数値評価を重視する者ほど、数値評価は高く、数値外評価の重要性は理解していない可能性が高い。

そもそも、総合評価が同程度でも数値評価が高い者は数値化できない側面の評価が高い者と比較して有利である。
評価者は総合評価するタイプと数値評価を重視するタイプの2種が存在する中、数値評価を重視するのの逆タイプはそんなにいないはずなゆえ。


以上、数値評価の特性を2つ書いてみた。
数値によらない評価も、評価側面をある程度決めてしまえば、ここで書いたような性質は持つ。
まあ評価なんていうのはそんなもの、と思ってゆるやかに使うくらいがちょうどいいというのが僕の考え。


今回はこのへんで。
ではまた。




横浜にて。

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2022/06/26 21:05
くれゆく日曜日。
横浜線の車内にて。


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Update 2022/06/26
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雑食読書術

読書には2つの側面がある。
1つは自分の興味あることについて楽しむというもの。
自分の好きな作家の小説を読む、自分の興味ある分野のノンフィクションを読む、というのはこれ。
小説だとある程度期待する世界観を楽しめる。
ノンフィクションだと興味ある事柄について知識を深めることができる。
読書の大事な側面であり、これを目的に読書を楽しむ人が多いのではないだろうか。

一方で、読書には自分の世界を広げる、という側面もある。
興味がある、というのはその対象についていくらか知っている必要がある。
内容については全く知らないけど興味はあるという場合ですら、存在自体は知っている。
全く知らない、というものはあり得ない。
しかし、世の中、自分の知らないことは山のようにあるもの。
この知らないことを新たに知る、というのも大事。
自分の世界が広げることができる。

世界を広げるということについては、ウェブを含めたメディアという媒体が得意。
これらの媒体は受け手としては受け身で、待っていると知らない情報が流れてくる。
受け身で情報を待っていればいいので、知っている情報だけでなく、全く知らない情報も受け取ることができる。
ただ、メディアの特徴として、受け手が選択できる広い意味でのチャンネル(ウェブの記事も含めて)が限られているというデメリットを持つ。
このため、多数の人が同時に同じような情報を受け取ることになる。
発信する側が意図する伝えたいことに限定され、受け手の多数が喜んでくれる情報、という制約もつく。
この点も、メディアから得る情報が人ごとに異らず、似たようなものになってしまう理由。

翻って、本。
本の場合、出版される本の数が無数であるため、幅広い情報が存在する。
出版社や書店レベルで選択があるものの、それらの数が多いため、メディアと比べると選択肢が圧倒的。
そういう意味では、読書というのは情報の選択も含めて能動的な行為である。
自分の興味あることについて楽しむ、知識を深める、というのは得意だが、かなり意識しないと「自分の全く知らないこと」を知るのは難しい。
まあ、本という媒体の特性。
ただ、この読書による知らない世界を知る、という方法。
メディアのそれとは違い、多くの人と同じような情報インプットになることを避けることができる。
他の人とは異なるオリジナルな世界を広げられるのは、読書という方法のよいところ。


では、どうやるのか。
まずは、3、4冊に1冊、意図的に全く知らない系統の本を読むようにする。
ノンフィクションなら何そのタイトルや、何その分野、くらい知らないレベルがいい。
小説なら初めての作家さん。
もちろん、タイトルや名前は知っているけど内容は全く知らない、というのも悪くない。
ノンフィクションの場合難しすぎると挫折するので、新書クラスを狙う。
そして、必ず最後まで読み切る。
最初つまらなかった本が、途中からおもしろくなることもわりとあるので、とにかく最後まで読み切る。
この習慣は「読む力」をつけることにもなる。
これについては別記事にも書いたので、よかったらこちらも読んでいただいて。

次に、どうやって探すのか。
一つは、本屋でジャケ買い
特に新書コーナーや文庫コーナーが充実している大きな本屋がいい。
平積みやおすすめコーナーも悪くないが、僕はひねくれているので本棚で1冊だけ、みたいなのを買うことが多い。

SNSを利用して探す、というのもある。
最近は出版社や書店が発信をしてくれている。
これらのアカウントをフォローしておいて、よさげなのをメモしておくなんてのも有効。
SNSは著者や読者も本の情報を発信しているので、そういうのから本にたどりつく、というのあり。
僕は最近この方法をよく使っている。

一昔前までは、本の巻末についている広告的なタイトルリストもよく使っていた。
十数冊、様々な分野のタイトルを並べてくれていて、興味がそそられる。
自分に合ったレーベル(出版社・シリーズ)を見つけて、そのタイトルリストから連れてくると、難易度や毛色はハズしにくくなる。
お気に入りのレーベルができたら、その新刊を常にウォッチするというのも楽しい。

あとは、べたなところで、人の紹介というのもある。
僕は学生さんも含めて、勧められた本はなるべく読むようにしている。
少なくとも勧めてくれる人はその本をよいと思っているので、ハズレをひくことが少ない。
好きな本の中には、学生さん経由で紹介されたものもたくさんある。

と、まあそんなところか。
なお、僕が大学生の時。
大学生協ジャケ買いした本がたまたまおもしろかった。
そしてそれがきっかけとなって現在の仕事をしている。
たぶん、あの本と出合わなければ今の僕はいない。
そういう一生モノの出会いがあるのも、全く知らない分野系読書の醍醐味。
まあだまされたと思って、試してみてはいかがでしょうか。

では、また。




シーズンですね。
鳥取市内にて。

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2022/06/20 21:35
仕事上がりに。
自宅にて。


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Update 2022/06/20
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数値評価は難しい

厳密な数値評価、客観的な評価、評価指標の開発。
成果主義、GPA、PDCA
評価を厳密に客観的に数値で行う、というのは世の中で多く行われるようになった。
特に、組織経営、国家経営をする人、数値評価で高得点をとる人はこの傾向が強い。
数値評価を行い、それに基づく論功行賞等のアクションを行う。
これ自体は悪いことではない、と考えている人は多いことと思う。
しかし、本当にそうだろうか。
悪い部分はないのだろうか。
今回はそんな話。

まず。
なぜよいと考えられるのだろうか。
客観性、公平性、見える化(科学性)などが大きいか。
数字にはこれらのものがある、と「なんとなく」信じられている。
そのため、説明力があり根拠として使いやすい。

ただ。
客観性があり科学性を持った数値指標を作ることはそんなに簡単なことではない。
〇〇という力を測る数値指標と書いてあるのに、数値化の仕方を見るとそんなものは測れていない、ということはよくある。
そもそも、質の異なる多様な現象を数値化すること自体が大変難しい。
指標として数値化する際、手間の問題から切り捨てられるものが出てきたり、あるものが過大評価されたり、ということは起こりがち。
ものによっては、数値化自体が不可能で、一部または全部が数値化できないということもある。
このように、現実世界の数値でないものを数値化してできた数字というのは、限界や、場合によっては大きな問題を含む。
なお、心理学系の研究でこの手のものを作るときには、見たいものが測れているか、安定して測ることができる指標か、というのはかなり厳しく検討する。
かなりの手間をかけて作成し、中身の精査をした上で、限界点を意識しながら数字を評価する。
数値の怖いのは、一般的な理解として、数値化された時点で客観性や科学性を持つと思われること。
指標の限界点や問題点が意識して扱われることはまずない。
このため、安易な評価指標の作成とそれによる評価は、現実を見誤る可能性がある。
この辺り、実際に自分が数値評価される側になると実感としてわかることもあるかもしれない。


そもそも厳密な数値評価がよいとされるのは、その客観性や公平性にあるのではないだろうか。
しかし、何を評価するか、を決めるのは結局は人である。
そして、決める側・導入したい側にいる人間が不利になるような評価指標が決められることはまあない。
その点から考えても、客観性や公平性は限定的。
というか、評価の導入そのものが、導入したい側にいる「誰か」が考える望ましいことに行動を変えさせたい、評価の低いものから高いものへと配分を変えたい、というモチベーションによるものなので、そもそもに客観性・公平性の考え方とは相容れない。
評価指標に特定の「誰か」の価値観が入り混むことは避けがたく、それを構成員全員の納得する形にすることはなかなか難しい。


百歩譲って。
構成員の全員が納得するような、精巧な評価指標が出来上がったとする。
この場合、今度は評価に手間がかかるようになる。
評価指標において様々な側面の情報を拾おうとすればするほど、項目が多くなる。
見なければならない側面が増えるわけだから、これは必然。
効率性のための評価だったはずが、評価のための時間が増え効率性が失われる、ということが起こる。
評価の側面が増えるということは、質の異なる側面の数値同士を比較・統合する、なんてことも起こる。
しかし、質の異なる数値は比較や統合なんてできるものではなく、それ自体が評価指標の信頼性・妥当性を下げることになる。
もちろん、客観性や公平性も。


以上、つらつら書いてきたが、数値評価にはこのように理屈上の問題点がある。
万能なものではない、という意識を持って使いたいもの。
そういうものである、と理解した上で、適度に使わないと間違うと思っている。

評価というものの性質にも書きたいと思っていたが、長くなったので今回はおしまい。
また、気が向いたら続きを書こうと思う。
ではまた。




みなさん、季節です。
鳥取かなぁ。


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2022/06/12 22:45
帰ってきた。
鳥取市内にて。


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Update 2022/06/13
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研究室訪問をしよう(研究をしよう30 卒論準備編)

今回は卒論の研究室が決まる前の大学生向け。
卒論の研究室を決めるために研究室訪問をしよう、という話。
これ、研究室を決めるにあたり、大学側から必ず言われることだと思う。
しかし、これをやらずに研究室を決めてしまう大学生は結構いるよう。
そこで、何でやったほうがいいのかを書いておくことにする。

研究室訪問は、行くことのメリットがいくつかある。
行かない学生さんに話を聞くと、どうもこのメリットをよくわかっていない様子。
例えば、興味ある分野が決まっていて、教員が1人しかいない。
もうつきたい教員が決定していて、それ以外の研究室には行く気がない。
興味あることが見つからない、別にどこでもいい。
だ、か、ら、別に研究室訪問行かなくてもいいよねー、ということらしい。
が。
だからこそ、研究室訪問に行く必要がある。
どういうことか。

入りたい研究室だからこそ行こう

第一希望の研究室があって、そこしか行く気ないから行かない。
訪問に行かない人によくあるのがこの理由。
これ、かなりの間違い。
行かないことで、第一希望の研究室への所属が遠のくことがある。

研究室へ入れる学生さんの数は教員・研究室のキャパで決まる。
当然希望が集中して調整が必要になることはよくある。
この時、事前に研究室訪問に来ている学生から確定するというのはよくある話。
卒論指導にあたって、学生さんがどんなことに興味を持っていて、どんな理由で自分の研究室を選んだのかは、教員が卒論指導を考えるとき重要。
学生さんが事前に研究室訪問をしてくれている場合これらがよくわかる。
なので、指導可能と判断してまずは確定、ということになりやすい。

この一手間を惜しんだために、希望の研究室に入れなかった、というのは避けたいところ。


コレジャナカッタを防ごう

結構大事なのがコレ。
研究室訪問に行って、教員の話を聞く中で違和感を持つことはある。
ちょっと違うな、と考え直すこともある。
卒論・修論は2−3年、その教員と付き合いながら書き上げていくことになる。
このため、思っている指導じゃなかった場合や相性が悪かった場合、結構しんどい。
場合によっては、途中での移動や留年、退学につながることもある。
コレはぜひ避けたい。

もちろん、1回の訪問ではわからないこともあるが、全く行かなければわかることはない。
授業から受ける印象と、研究指導は別物なことが多いので、ぜひこのあたりを探っておきたい。
なお、少し違和感を持ったら、別の研究室をできるだけ多く訪問して、選択肢を増やしておきたい。
コレは、研究が行き詰まった時に助けてもらえる教員を増やすことにもなる。


ダメだった時の対策をしよう

結構大事なのがコレ。
いかに対策をしたところで、第一希望の研究室に入れるとは限らない。
この場合、第二希望や第三希望をしっかりと探しておかないと、卒論・修論を全く興味のない研究室で進めなくてはいけなくなる。
2−3年、深く研究と付き合うことになるので、これは結構つらい。
第一希望がとても強かったとしても、もしダメだった時の選択肢はしっかりと練っておきたい。
この時考えた第二希望や第三希望については、第一希望が通った後であても役に立つことはある。
全くムダになるというわけではない。
これについては、次の項目で詳しく書く。


意外な出会いがあるかも

多くの学生さんが気づいていないのがこれ。
自分の興味からして、この研究しかない、と決めつけている場合がある。
しかし。
思いがけないところに自分の興味のテーマを指導できる教員がいることがある。
例えば、うちの場合。
心理学に興味ある学生は結構多いのだが、心理学分野以外の幼児教育や特別支援教育の分野に心理学を専門とする教員が配置されている。
教科教育系でも、心理学のバックグラウンドがある場合もある。
多くの研究室訪問をしない学生さんは、そのことに気づかず、選択肢として考慮することもなく、卒論の研究室を決めてしまう。
あとからそのことに気づいて残念がる、というのはよく見る。

そもそも、その教員がどんな研究ができるのかよくわからず、選択肢から漏れる、ということもある。
訪問して、どんなことができるのか話を聞くうちに、ここだ!となることもある。
〇〇分野、××コースなど、名前からは想像できないような研究ができる場合もある。
教員によっては、授業で教えていない内容の専門分野を持つことあるし、過去に担当授業内容からは想像できない研究をしている場合もある。
これは、行って話を聞くなどの情報収集をしなくてはわからない。

なお、自分の興味あることややりたいことを話すと、訪問先の先生が別の先生を紹介してくれることもある。
長い間、一緒に働いているので、同僚の先生の研究や専門性については知っていることが多い。
これも研究室訪問のメリット。


と、まあ、そんなわけで、研究室訪問には行ったほうがいいよ、というお話。
気軽にそんなことできるのも大学生のうちだけだし。

ではでは。
また。




羽田にて。

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2022/05/22 15:44
休暇中。
どこかのカフェにて。


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Update 2022/05/22
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多様な学生を教育すること(教育奮闘記 8)

教育って難しい。
本当に難しい。
僕が特に難しいと感じているのは、学生が多様である部分。
今回はここに焦点を絞って書いてみる。

当然だが、大学生は実に多様である。
能力が多様なだけではない。
授業や研究に対するモチベーションが大きく異なる。
言い換えれば、大学や大学教育に求めていることが人によってずいぶん違う。
しかし、授業は全員に対して1回。
この中で、「みんな」にとって教育を行うことを考える。
これが大変難しい。

まず僕の教育のスタンス。
当該授業の知識技能を身につけてもらう、というのが最低ライン。
その上で、その内容におもしろさを感じてもらえたらよし。
知的好奇心を刺激して、自分でさらに学んでくれるようになったらなおよし。
これは研究も同じ。
多様な学生の一部の層に働きかけるのではなく、できればどのタイプにもそれぞれにあった教育的働きかけをしたい。
そんな感じでやっている。

その上で、学生のタイプ別に。
まず。
能力も高く、モチベーションも高いタイプ。
この層は平均的な層に向けた授業に対しては退屈してしまう。
さりとて、この層に合わせて授業を組むと、他の学生がついてこれない。
よって、基本的な解説の後にこの層向けの内容を入れたり、質問コーナなどで対応する。
難しめな参考図書を紹介したり、少し発展的な小話を入れたりするのもこのタイプ向け。
自力も含め知識技能をさらに深めてもらうのが目標になる。

次は、試験対策バッチリ優等生タイプ。
これはひとつ前のと似ているがちょっと違う。
試験の点数は高いのだが、効率よくこなしすぎるため深い学びまで至らない。
この層には、問いかけや暗記では解けない課題等を課して知識技能の深めてもらうのがねらいの一つに。
知的好奇心を刺激したり、おもしろさを感じてもらったりして、授業を離れても学びたくなるように持っていく、というのが2つ目の目標。
結構難しいが、たまにそうなることがあって、これはうれしい。

続いて、平均的な層。
この層を想定受講生として授業を作り上げる。
資料や言葉の選定は、この層の知識レベルに合わせる。
モチベーションの高低や、知識に重きを置くのか試験の点数に重きを置くのかは多様なので、その部分については別の段落に譲る。
この層は、授業によって知識・能力が上げることを主眼に、理解度を確かめながら進める。
授業外の勉強時間が増えるように、おもしろさと試験対策の両面から働きかける。

できない層にはいくつかパタンある。
1つはモチベーションもそこそこあり、ちゃんと授業外の勉強時間をとっているはずなのに成績が振るわないというタイプ。
この層の学生さんは勉強の過程か、試験テクかのどちらかに問題があることが多い。
1対1だと解決することが多いので、授業中にそういう働きかけをしたり、質問に来るように促したり、とちょっと気をつける。
このタイプはコツを掴むと大きく伸びることがある。
試験で単位を落とさないように、気づく範囲でフォローするのもこの層。
思い当たる人は ちゃんと勉強したけど点数が取れなかった人へ あたりも読んでいただいて。

授業はしっかり聞いているけど、授業外の勉強時間をほとんど取らない層。
もはや授業もほとんど聞いていない層。
この2つの層については、単位が出ないような試験を作る。
大学の授業は、授業聞くだけで勉強が完結するようにはできていない。
前者はモチベーションはあるので、授業外勉強の大切さを授業中に時々強調する。
後者は内容の大切さやおもしろさを訴えることで、まずはモチベーションを上げるように働きかける。
単位が簡単に取れない、というのも教育的な取り組みの一つ。
この層の学生さん、一度単位を落とすと、次回はかなりがんばって高得点で単位を取っていく場合がある。
学年が上がって知識や経験が増えたり、将来を見据えてモチベーションが上がることもある。
なお、単位を落とす、というのは教員側にも手間がかかるので、やらない方が楽ではある。
じゃあなんでそんなことをやるのかといえば、意地悪ではなくて、しっかり教育したいから。


と、まあ、大雑把にわけるとこんな感じにわかれる。
もちろん、完全にグループにわかれているわけではなく、連続的に中間型だったり2つ以上のグループにまたがっていたり、実に多様。
あるタイプに時間をかけすぎると、別のタイプに時間が使えず、みたいなことが起こるため、結構大変。
教育って難しいなー、と思うわけです。
どっかを切り捨てるなんてことはせず、日々がんばってございます。

長くなったので、今回はここまで。
ではまた。




丸善カフェかな。

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2022/05/16 18:05
最近忙しい。
鳥駅スタバにて。


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本の紹介,「ことばの発達の謎を解く(今井むつみ(著),ちくまプリマー新書)」

ことばの発達の謎を解く
今井むつみ(著)
難易度:☆


赤ちゃんはことばをどのように学んでいくのか。
多くの人が特に苦労なく環境から学ぶ形で言語能力を獲得していくので、簡単なことのように思える。
しかし。
大人であればわからない言葉があった時、他の知っている言葉の言い換えで学ぶことができるのに対し、赤ちゃんではそうはいかない。
そういう状態で、一体どうやって言語を学んでいくのであろうか。
よくよく考えてみると、謎と不思議がいっぱい。
本書ではこれらの謎と不思議に迫り、ことばの本質について考える。

胎児の頃からリズムとイントネーションを学び始め、次第に高度に発達する。
言語も知識も未発達という制約の中でどうやってこれらを成し遂げるのだろうか。
ある時はヘレンケラーのような特殊事例、ある時は子どもがよく犯すことばの間違い等、事例を上げながらことばがどのように発達していくのかについて考察する。
ことば、と一言に言っても、名詞・動詞等の性質の違い、「て・に・を・は」の使い分け、等々、かなり細かなルールや機能を学ぶ必要がある。
これらの細かな一つ一つについて、事例や実験結果を上げながら迫っていく。
ああ、我々はこんな複雑なことを自然と身につけたのか、とびっくりさせられる。

特におもしろいな、と思ったのが、その調べ方。
著者の今井さんは心理学者で実験的手法も得意。
これらの成果も紹介してあり、これが大変おもしろかった。
子どもに疑似的な言語を呈示し、その反応を見ることでことばの発達を調べる。
例えば、「チモル」という意味のない動詞的な疑似言語を使って、動詞の理解を調べるというもの。
我々は文の中で、「チモル」のようなものが動詞的に使われていたら、これを動詞として認識するし、意味がわからなくても「チモッテイル」のように動詞的な活用もできる。
では、子どもはどうだろうか、というのを実際にこの言葉を実験的に呈示して調べるわけ。
これがすごくおもしろくてワクワクした。
僕の実験屋さんの血が騒いだ、というだけではないと思う。

後半では、言語と思考の関係についても展開。
いかに言語が思考をしばるか、さまざまな知見をもとに論じていて、これもおもしろい。
数の大きさを示す言葉が「1、2、それ以上」の3つしかない言語系の民族では、4、5が正確に捉えられないという話など、興味深い研究知見をもとに言語と思考の関係について書く。
この部分もまたおもしろかった。

非常に平易で、高校生から読める一般向けの本。
平易だが学術的にもおもしろく、隣接分野の研究者でも楽しめる。
引用や文献一覧がしっかりしているため、さらに学ぶことができるのもよい。
このトピックに興味があるすべての人におすすめできる良書。
言語以外の発達の知識があるとさらに楽しめること間違いなし。
発達心理学の乳児期・幼児期、教育心理学認知心理学の言語関連、この辺りの副読本としてもおすすめ。


では今回はこの辺で。
また。




f:id:htyanaka:20220404154009j:plain 鳥取市内にて。


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2022/04/04 15:27
今日は休暇。
日本の某所にて。



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わかるまでねばる力(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 14 )

大学生を教えていると、とても伸びる学生さんに出会うことがある。
どういう学生さんが伸びるのだろうか、と見ていると、資質として大きいのがねばれるかどうか。
どういうことか。

大学に入って受ける講義、読む本、取り組む研究。
すっと入ってくるものばかりではない。
元々内容が難解である、苦手意識がある、などなど、学ぶのに困難が生じることも多々ある。
これらは才能あふれる人でも起こる。
こういう場合、学生さんは大きく2つのタイプに分かれる。
一つはあきらめがとてもいいタイプ、もう一つが粘り強いタイプ。
これは入学時点での賢さやできるできないとはあまり関係ない。
ただ、大学卒業時点や社会に出てしばらく経つとかなり差がつく。
前者はあまり伸びず、後者はじわじわ伸びていく。

まあこれは考えれば当たり前で、あきらめがいいということはやらないということとイコールなので、伸びるわけがない。
その分、好きなことや得意なことに時間が使える、という利点があるにはある。
ただし、どんなことをやっていても、難しくてねばりが必要なことは出てくる。
こういう壁にぶち当たった時、結局あっさりあきらめることになるので、そこが伸びるのの天井となる。
一見スマートに見え、見方によっては賢く見えるのだが、能力という点ではどうしても浅くなる。

一方、難しいことに直面してもねばることができるタイプは確実に伸びる。
苦手だったり難しいと感じたりしているので、あゆみは人より遅く見えることもある。
ただし、ちゃんと取り組んではいるので、長い目で見るとしっかり伸びる。
当たり前だが、前者と後者の差は時間とともにどんどん大きくなる。

そもそもねばる力とは何か。
それは、やらずにあきらめない力、と考えていただいてもいいか。
学生さんを見ていると、見通し的に大変だ、と考えると、あきらめてやらない、という選択肢をとる人が結構いる。
あと一息のところで、楽をすることを選択して完遂できない、という人も多い。
難しい本は挑戦しない、読み始めても読み切らない、難しい授業は理解することをあきらめる、などなど。
こういう姿勢に抗する力と考えていただいたらいいと思う。

さて。
この力、持ち前の性質、と思われる方もいると思う。
ただ、学生さんを見ていると、この力を在学中に身につける人がいくらかいる。
意識的に難しいことを避けないようにする、楽をしないようにする、といったことをやることで徐々にこの力を身につけているよう。
まあ、この力、能力というよりは物事に取り組む姿勢に近いので、実践しているうちに習慣として身につくということなんだろうと思う。

この力は汎用力が高い。
在学中だけではなく、社会に出てからも役に立つ。
大学のうちに学べることなんてごくわずかで、社会に出ると日々知らなければならないこと学ばなければならないことに直面する。
その度に、わかるまでねばる、が出来たら、大きい。
在学中は、難しい授業や本、研究に出会うことが多々ある。
これを機会として、意識的にねばる力を身につけてはいかがだろうか。
大学にいるうちは、教員という補助者が身近にいるので、卒業後よりもこの力を磨きやすい。
人生においてきっと武器になる力だと思う。

ではでは。
今回はこの辺で。




f:id:htyanaka:20220404235856j:plain 二子玉かな。

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2022/04/04 18:50
今日は休暇。
日本の某所にて。



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