雑記帳(ブログ)

担当授業や研究についての情報をメインに記事を書いていきます。

本の紹介,「遥かなる甲子園(山本おさむ(著),双葉社)」

遥かなる甲子園(山本おさむ)
著者(著)
難易度:☆


かつて沖縄に北城ろう学校という学校があった。
ご存知だろうか。
沖縄の人でも知らない人は多いのではないかと思う。
この学校はかなり特殊な学校で、1学年・同一世代のみで構成されていた。
その学年が中等部1年生だった1978年に開校し、彼らが高等部を卒業した1984年に閉校した。
これは、沖縄県の1965年生まれに難聴の人が多く、そのための学校だったため。
沖縄返還が1972年なので、まだアメリカ占領時代の1964年のこと。
アメリカで風疹の大流行があった。
これがアメリカ統治下の沖縄に持ち込まれ、同じように流行した。
妊娠中に風疹にかかると、お腹の赤ちゃんに影響が出ることがある。
その影響で、1965年生まれには風疹による難聴児がたくさん生まれた。
その人たちのための学校が北城ろう学校。

前書きが長くなった。
そんな北城ろう学校(本の中では福里ろう学校と名前を変えている)の生徒たちが甲子園を目指す。
その奮闘記をマンガで描いたのがこの本。
元々は戸部良也さんが書いたノンフィクションを下敷きにしている。
生き生きと当事者や関係者の目線でストーリーが展開し、原作のノンフィクションとはまた違った楽しみ方ができる。
原作ノンフィクションは大学生のときに読んで、いたく感銘をうけた記憶があるが、それはまた別の機会にでも書く。

さて、この本。
ただ、野球をがんばった、という物語ではない。
ただ、甲子園を目指すために野球部を作って試合をする。
たったこれだけのことすら、健常者を中心として作られた制度や偏見により阻まれる。
それを野球をやりたい本人たち、子どもたちと関わる周りの大人たちが一生懸命歩んでいく。
差別や偏見、理不尽との闘いの物語、と言ってもいい。
読んでいる最中に「遥かなる甲子園」の本当の意味がわかると思う。
自分が教員だったら、理不尽を訴えられる立場だったら、彼らの周囲にいる人だったら、果たしてどんな行動ができるだろうか、そんなことを自問しながら読んだ。
そしてたぶん、この構図は形を変えて現代にも存在し続けている。
差別、偏見、常識の非常識。
そんなことを改めて考えさせてくれた作品だった。

この本は障害児教育や聴覚障害児教育の細かい記述やその問題点についてもところどころで登場する。
この分野に詳しくない人が読んでも勉強になるが、ある程度学んだ学生や教員が読んでもためになる。
障害児教育の仕組みや、重複障害、病弱児の生理病理心理なんかとも関係した描写が出てくるため、その辺りを学んでから読んでみると基礎知識と実際の場面が結びついてとても勉強になる。
特支の教員を目指す人はなおのこと、教員を目指す人、それ以外のあらゆる人に読んでもらいたい作品。
かなり、おススメ。




10巻一気に読みきってしまった。
阪神甲子園球場にて。



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Update 2019/09/13
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本の紹介,「合理的配慮 — 対話を開く、対話が拓く(川島 聡 他,有斐閣)」

合理的配慮 — 対話を開く、対話が拓く
川島 聡 他(著)
難易度:☆☆☆


合理的配慮という言葉をご存知だろうか。
これは障害者権利条約において提唱された概念。
日本は2014年に批准した。
これに対応した障害者差別解消法などが整備され、この中で合理的配慮が義務づけられた。
2016年に障害者差別解消法が施行され、行政機関や事業者に合理的配慮が課されることになったことから、広く知られるようになった。

さて、その合理的配慮。
簡単に説明すると、以下のようなこと。
障害のある人には生活上さまざまな壁が現れることがある。
例えば、目が見えないから案内板を読むことができない、というようなこと。
これを社会的障壁という。
この社会的障壁について、本人が申し出た場合に、やる側の負担が加重でない範囲(合理的)で個別に除去することを合理的配慮という。
これが行政機関等に義務づけられた。
事業者(会社等)は努力義務。

合理的配慮の考え方では、これを差別と規定する。
本書によると差別としては新しい考え方だという。
もともと差別は「等しい者を異なって扱う」時に生じるとされてきた。
しかし、合理的配慮の不提供という差別は「異なる者を等しく扱う」ことによって生じるもので、新しいタイプの差別観。
なるほどなぁ、と思った。
両者とも「人として等しく機会・権利を与えない」ことを差別と捉えることでは共通である。
ただ、新しい差別観は障害者差別以外の問題を考える際に新たな視点を与えてくれる。
このため是非知っておきたい。
マイノリティーの問題はこの考え方で理解・整理できるか。
ちなみに、合理的配慮の考え方自体は宗教上の行為から生じる社会的障壁に端を発しているとのこと。

以上は、合理的配慮について本書の内容を交えながらの説明。
本書は合理的配慮について、基礎・理念を中心にまとめた理論書。
合理的配慮に関する本は障害者差別解消法の施行に伴いたくさん出版された。
その多くは、配慮事例集のような実践本。
この本はそれらの本とは違い、基礎に寄った数少ない理論書。
そして、非常によくまとまった好著である。
HOWに対する具体的な答えは得られないが、WHATやWHYに対する答えはだいたい見つかる。
そんな本である。
現場にいるとHOWを求めがちだが、それだけだと間違いやすい。
ぜひ本書で理屈・理念等の基礎を知ってから、実践をしてほしい。

合理的配慮やその考え方について知りたい全ての人にオススメする本。
差別について考えたい人にも読んでほしい。




横浜かなぁ。



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Update 2019/10/04
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大学院へ進学したい人へ No.1 大学院とは

ちらほらそういう話を聞くので、今回はこのテーマ。

まず。
大学院とは何をするところなのか。
答えられるだろうか。
学部生の中には誤解している人も多い。
「さらに勉強をするところ」と考えた人は間違い。
勉強をするところは大学の学部で、大学院はそういうところではない。
「より深い専門性を身につけるところ」と考えた人は半分間違い。
これもただ勉強によって身につけるのであれば、やはり学部の役割。
大学には学士入学(大卒を資格とした編入学)という制度があり、ただ勉強したい人はこちらがオススメ。
専門職大学院という制度もあり、こちらも勉強メインで専門性を高めることができる。
が、今回は一般の大学院の話。

何をするところだろうか。
答えは、研究をするところ。
研究を通じて深い専門性が身につくことはあると思うが、それは学部で身につく専門性とはちょっと違う。
学部は専門性を身につけるために学問を体系的に勉強することがメインのひとつ。
これに対し、大学院では研究を進めるために専門の勉強をすることはあっても、あくまで研究するのがメイン。
学部までは誰かが作った知識を利用する、という立場。
大学院からは新しい知識を作る立場になる。
似ているようだが、両者は根本的に異なるというとに注意が必要。
ここを間違えると、コレジャナカッタ、となりかねない。
そんなわけで、勉強をするのはサブになるというのは覚えておきたい。
研究を通じて身につく専門性は自分の研究を中心とした、かなり偏ったものになる。
この点が学部と大きく違うところである。
知識の偏りを防ぐためには、独自の勉強が必要。
でも、それは本業の研究の時間を奪う、という構図になっている。

さて。
その大学院(専門職を除く)。
大きくは修士課程と博士課程の2種類に分けられる。
前者は学部卒で標準2年の年限で行くところで、修了すると修士号の学位がもらえる。
後者は修士号の後にさらに標準3年(医歯薬系など学部が6年生まである学問分野は4年)の年限で行くところで、博士号が取得できる。
修士は2年なので、たくさん研究をするのは難しい。
ひと通り研究したよ、そのくらいの専門性があるよ、くらいのレベルか。
もちろんひと通り研究はしているわけだから、研究論文を読むくらいはお手の物なはず、くらいには世間や就職先から見られる。
一方で博士は修了するとプロとして研究できるレベルになっているとみなされる。
プロレベルまで研究能力を上げたい人のみ進む場所と考えたらよい。
企業や大学、研究機関等で研究を生業としたい人の正規のコース。
研究を細々とでもしばらく続けたい人なんかにもオススメか。

ただ、研究がプロレベルなことと、プロとして研究をバリバリこなす人になることとは別問題。
昔はいざ知らず、最近は研究系労働市場の需給が完全に崩れており、供給過多。
かなりの買い手市場になっており、研究レベルが高いから職にありつけるとは限らない。
さらに、非研究業界の同世代が次々と仕事もプライベートも充実していく中で、将来が見通せず、経済的にも雇用的にもキツイ日々が続くことになる。
これにはかなりの覚悟が必要なので、よくよく考えて進学したほうがよいと思っている。
が、この話は長くなるので、またそのうち。

と、いうわけで、大学院話。
今回は、大学院ってなぁに、というのをつらつら書いた。
次回は、大学院へ行きたい人が学部のうちにしておくこと、について書こうと思う。




にゃあ。にゃあ。

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2019/09/11 21:17
出張中。
大阪市内にて。


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Update 2019/09/11
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アナウンサーとか裏方とか (僕のなりたかったもの2)

今では目立つのも人前でしゃべるのも好きではなくなったが、ちびっ子の時分はこれらが大好きだった。
そんなちびっ子も小学生になる。
そしてそこで、ある人たちに目を奪われることになる。
それは放送委員会のお兄さんお姉さん方。
全校集会やら給食やら運動会やらで校内放送を取り仕切る。
ああ、あれやりたい。
少年は切に、熱狂的に、そう思った。
しかし、委員会活動は高学年のお仕事。
憧れのまましばらく口に指をくわえて見ている生活が続く。

転校などの関係もあって、放送委員会には入れたのは6年生の頃。
友人と校内放送の取り合いをしながら、1年間を送った。
給食放送で朗読をしたり、連絡・召集のアナウンスをしたり。
そんなわけだから、当然将来の夢もそっち関係になる。
当時の僕は、将来絶対にアナウンサーになるんだ、と心に決めていた。
テレビもいいが、ラジオもいい。
そんなふうに考えていた。

そんな僕も中学生になる。
相変わらず放送委員会に所属し、あれやこれやどっぷり委員会活動にはまっていた。
最初はしゃべる欲が強かったのだが、だんだんその欲がなくなり、代わりに裏方仕事が好きになっていった。
カメラワークをしたり、字幕を入れたり、編集をしたり。
各種イベント用の音楽テープを編集したり、集会の放送系設備準備をしたり。
P兼、D兼ADみたいなことをやっていた。
これがとても楽しかった。
特に3年生の時は、給食は教室よりも放送室で食べる方が多かったし、イベントは全て放送ブースで指示を送る位置に陣取っていた。
裏方視点からの思い出しか残っていない。
本当に楽しかった。

そんなわけだから、この時期は将来なりたいものの候補のひとつに、放送局(裏方)スタッフ、というのがいた。
映像編集したり、裏方スタッフとして音響やったり、そういうののプロになりたかった。
今はそういうのになりたいとは全く思わないが、今でもそういうプロを見ると心からかっこいいと思うのは、この当時の影響だと思っている。
この系は形を変えて、大学生まで生き続けることになる。
が、その話はまた今度。

ではまた。




パイロットに憧れた時期もあったな。
羽田空港にて

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2019/07/12 21:17
花金。
横浜にて。


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Update 2019/07/12
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専門知識と研究リテラシー(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 10 )

久しぶりのこのシリーズ。
大学生で学んでおきたいものとして、専門知識は外せない。
ただ。
少しだけ気をつけたいことがある。

そもそも、大学で専門領域を学ぶ意義はどこにあるのか。
この辺りをしっかり押さえておきたい。
ただただ、専門知識を身につけたいのであれば、大学でなくてもできる。
それこそ、専門学校や書籍の読み込みで学ぶのでもいいだろう。
では、大学の強みは何か。
それは、知識の生産現場であること。
具体的には研究を指す。
つまり、研究に関するなんらかの能力を身につけなければ、大学で専門知識を身につける意義が激減することになる。
まあもちろん、芸術など実技分野は少し事情が変わるかもしれないが、それでも最先端の創造の現場であることには変わりはないだろう。

さて。
そんなわけだから、研究リテラシーはしっかり身につけたい。
これが身についてくると、テキストの一行や授業のたった一枚のスライドにとてつもない手間がかかっていることに気づく。
そして、テキストの一行の根拠となっている事実(研究)について、具体的にイメージできるようになるため、理解度や得られる知識の奥行きがぐっと増す。
世の中には、ウソの言説や間違いも多い。
これらはテキストについても言えること。
研究リテラシーがあると、これらの真偽を自分の頭で考えて判断することができる。
このテキストの記載、研究ベースではどうやるんだろうか、とか、よくわからないので原典論文を読んでから判断しよう、とか、そういうことができるようなる。
これは、知識の生産方法を知らないとできない。
その場合は書かれていることをそのまま盲信するしかなくなる。
せっかく大学に来たのだから、そうはならないようにしたい。

さあ、その身につけ方。
専門知識はまあよいだろう。
授業を聞いて専門書や論文を読み込んで、という時間をたくさん積み重ねるしかない。
では、研究リテラシーはどのように身につけるのか。
これらは、最初は独学では難しい。
ゼミや卒論指導をうまく利用したい。
ゼミでの論文精読や紹介、批判などは、既存の研究のユーザーになる力を磨くことができる。
その分野の論文を多数読み込むことで、その分野の知識がどのような方法論で作り上げられてきたのかがわかるようになる。
こうなれば、研究リテラシーの半分は手に入ったようなもの。
残りは自分が作り手になってひと通りやってみることで手に入る。
これをやるのが卒業研究。
大変だけれども、やはり実際にやってみることでわかることもある。
知識の作り方の大変さやら厳密さやら、そういうことがわかれば、まあよし。
具体的に意義のある知識が作れたり、おもしろさに触れたりできれば、なおよし。

これを手に入れて卒業していく学生は結構少ないので、少しでも身につけて卒業できれば強い。
ではまた。





横浜のとある片田舎にて。

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2019/09/14 18:57
仕事上がり。
鳥取市内にて。


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Update 2019/09/14
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試験のための勉強をしない(大学生のための学び方入門3)

大学で教えていると時々出会うのが、試験のために勉強をしている学生さん。
よい成績がとりたくて試験対策をきっちりやる。
大学の単位もそうだけど、TOEICなんかの資格試験もそう。
試験なんてのはテクニックも大事なので、対策をしないと実力が点数に現れないことがある。
それどころか、試験対策で実力以上のスコアを叩き出すこともできる。
そのせいなのか、時々試験対策を過剰にがんばる学生さんに出くわすことがある。
受験勉強エリートの真面目な人に多い印象。
ただ、これ、なるべく早いうちにやめたい。
なぜか。

このタイプの学生さん、伸び悩むことが多い。
試験は実力以上の得点を得ることが可能。
これ、裏を返せば、実力を磨かずに試験テクを磨くことで得点をとってるということになる。
つまり、試験対策が過ぎると、それは試験テクをせっせと磨いてるということに他ならない。
自分の中のコンテンツ(実力)は増えずに、見せかけのテクニックだけがすごくなっていくわけ。
つまり、本来勉強で身につけるべき知識であったり各種の能力であったりが身についていない、ということになりかねない。

そもそも試験はなんのためにあるのか。
それは、試験得点をものさしとして、知識・能力を評価するため。
あくまで知識・能力が先にあって、それを測るというのが本来の姿。
一方で、過剰な試験対策は、試験得点に知識・能力を上回らせるための行為、ということになる。
単位を取る、試験をパスする、手っ取り早くスコアを上げる、というのには有効に作用するかもしれないが、それによって知識・能力が上がっているわけではないことに注意が必要。
試験対策に使った時間は、知識・能力を磨くことにはあまり有効に働かない。

いやまて。
試験対策も立派な勉強だ。
知識・能力もちゃんと身につく、と考える人もいるかもしれない。
まあたしかに、全く無効、とはならないだろう。
ただね、試験対策で身につく知識・能力は薄っぺらい。
深い理解をしていなくても、暗記でかわせてしまう。
知識間の関係などわからなくても得点を取ることができる。
点数を取る、ということに特化した勉強をすると、点数を取るための表層的な応用の効かない知識が手に入ることになる。
これはつまらない。

百歩譲って、試験対策でいくらかの知識がついたとしよう。
それでも、試験対策で得る知識には問題がある。
試験を含めた評価全般に言えることなのだが、評価をよくすることだけ考えると、身につくのは評価に特化したものになってしまう。
評価される、問題の出やすい分野に知識が偏ってしまう。
大事な事柄が必ずしも評価されるとは限らない。
大事な事柄であっても評価が難しい場合はあり得る。
手間がかかるために評価を避ける場合もある。
評価をよくすることのみに特化すると、そういう大事なものがこぼれ落ちてしまう。
知識・能力に偏りが生じるわけだ。
これは評価というものが持つ、負の側面。

まあ、そんなわけだから、試験のための勉強はほどほどに、勉強に取り組まれてはいかがだろうか。
全くするな、とは言わない。
ただ、自分が大事だと思うことを徹底的に調べてみたりや本を読みまくって広く分野のことを勉強してみたり、というのを大事にしてほしい。
点数はすぐには上がらないけど、長い目で見ると力がつく。
そういう経験は、裏切らない。

ではまた。




羽田空港にて。


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2019/08/31 20:38
仕事帰り。
鳥駅ドトールにて。


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Update 2019/08/31
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戦争を考える

この国は何十年か前に国を滅ぼしかねない大きな戦争をやった。
この戦争での日本人の死者は300万人と言われている。
日中戦争が始まる前の人口が7000万人くらい。
人口比でもかなりの数字である。

うち、軍人・軍属以外が80万人くらい。
沖縄や国外にいた日本人が30万人くらい、内地でも50万人くらいが死んだのだそう。
残りは軍人・軍属の死者ということになる。
軍人・軍属は全部戦死か、というとそうではないらしい。
戦死者は半分もいかず、かなりの人数は病没・餓死だった、と。

当時の日本は結構遠くまで進出していた。 南はオーストラリアの手前、西は中国の中の方まで、戦線は広がっていた。
前半はまだよかったものの、中盤以降は補給がうまくいかなくなる。
理由は簡単で、かなり早い段階で空母を失い、制空権や制海権がなくなっていた。
戦争が始まって半年後のミッドウェー海戦で主力空母の全てと優秀な搭乗員を失っている。
しかし物資は日本から運ばねばならず、でも制空権や制海権がないからどんどん沈められる。
よって前線に物資が届かない。
ご飯がない、薬がない、弾がない。
これでは勝ち目がない。
それでも、補給を考えない作戦は実行される。
勝ち目がなくても降伏は許されない。
死ぬしかなくて玉砕する部隊もいれば、マラリアなどの病気や飢餓で命を落とす兵士もかなりたくさんいたという。

軍人・軍属以外の死者80万人は戦争の末期に集中している。
沖縄戦や空襲、爆撃によるものが多数を占めている。
徐々に占領していた土地が奪い返され、本土近くに相手方の基地ができていった。
すると、燃料の関係で限られていた空襲が増えることになる。
終戦の前年11月にサイパンを取られてからは本格化したという。
この直前にレイテ沖海戦というのがあり、日本海軍の戦力はほぼ消滅している。
ちなみに神風特攻隊による攻撃が始まったのもこの時期。

どう考えてもこの時期で戦争の勝敗はついている。
ここで負けを認めていれば、戦争の犠牲者はだいぶん少なかったに違いない。
でも、10ヶ月あまりダラダラと戦争を続けてしまう。
終戦の年、都市は次々と空襲されていく。
その間ドイツが降伏しても沖縄に侵攻されても一億総特攻などとバカげたスローガンであおり、ついには原爆を2発落とされ、ソ連軍が侵攻してきて、ようやく戦争を止めるに至る。
それでなお、8月15日の玉音放送を阻止しようという軍人グループがいたそうだから、負けるということがいかに難しいことかわかる。

僕はこの戦争で、死ななくていい命がたくさん失われたと思っている。
なんでこんな愚かなことが行われたのか。
大学生くらいからずっと考えている。
一つには、負ける勇気がなかったのかな、と思っている。
勇ましさ、には勇気はさほど必要ない。
名誉も保たれるし、同調者も現れやすい。
対して、負けるということは不名誉さを伴う。
特に勇ましさの集団的狂騒状態にある場合は、激しい非難を浴びかねない。
それでも冷静に考えて、負ける、という戦略をとることが大事な場合だってある。
しかし、これには不名誉さ、世論からの非難等があり、かなりの勇気が必要である。
戦前・戦中の指導層を見ると、どうもこの負ける勇気が足りなかったように感じる。
戦前にも戦中にも負けることで戦争を回避したり犠牲を少なくできたりするポイントはいくつもあった。
でも、その選択肢を取れなかったようなのだ。

本日は降伏文書に調印をし、戦争が正式に終わった日。
せっかくなので、このネタを載せてみた。
戦争はわりと簡単に起こると思っている。
自分が生きているうちはそうならないように、時々この問題を考えることにしている。




渋谷かなぁ。


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2019/09/02 01:55
寝なきゃ。
自宅にて。


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